開戦90日目に読むイラン戦争――ホルムズ海峡封鎖、危機が可視化された三か月
遠くの戦争は、遠くでは終わらない。
2026年春、日本のガソリン価格は再び政治問題になりました。政府は3月19日から、ガソリンの全国平均小売価格を1リットル170円程度に抑制することを目標とした緊急的な価格抑制策を始めました。軽油・灯油・重油はガソリンと同額、航空機燃料はその4割が補助対象です。これは家計支援であると同時に、エネルギー危機が政権批判へ転化することを防ぐ政治的措置でもありました。
しかし、問題はガソリンだけではありません。
燃料価格が上がれば、まず輸送費が上がります。その影響は、スーパーに並ぶ野菜や魚、コンビニ弁当の配送費にとどまらず、冷蔵・冷凍に必要な電気代、包装材、工場で使う化学原料、さらには養殖魚の餌や農業資材の価格にまで広がっていきます。石油は、燃やすためだけのものではありません。現代社会を動かす、見えない土台です。
その土台を揺るがしたのが、2026年2月28日に始まったイラン戦争でした。
1. 戦争はこうして始まった
2026年2月28日、米国とイスラエルは、イランに対する大規模な共同軍事作戦を開始しました。米軍側の作戦名は「壮大なる激怒作戦」(Operation Epic Fury)。ロイター通信によれば、攻撃対象となったのは、イランの核関連施設、軍司令部、ミサイル基地、そして革命防衛隊の指導部でした。攻撃の結果、最高指導者アリ・ハメネイ師が死亡し、イラン側はイスラエル、米軍基地、湾岸諸国へのミサイル・ドローン攻撃で応酬しました。
米国とイスラエルの目的は明快でした。イランの核能力を破壊し、革命防衛隊と地域代理勢力を弱体化させ、中東におけるイランの影響力を削ぐことです。その意味で、作戦は軍事的には大きな成果を挙げました。
しかし、軍事的成功は、必ずしも戦略的成功を意味しません。
イランは米国本土を攻撃したわけではありません。イランが選んだ最大の対抗手段は、世界経済の急所を握ることでした。
それが、ホルムズ海峡です。
2. ホルムズ海峡とは何か
ホルムズ海峡は、ペルシャ湾とオマーン湾を結ぶ細い海の通り道です。地図で見れば、ただの狭い海に見えます。しかし世界経済にとっては、ここは血管の中でもっとも詰まりやすい急所です。
米エネルギー情報局(EIA)によれば、2024年には日量約2,000万バレルの石油がホルムズ海峡を通過しました。これは世界の石油・石油製品消費の約20%にあたります。また、世界の海上石油貿易の4分の1超、LNG貿易の約5分の1もこの海峡を通過しています。
しかも、代替ルートは限られています。サウジアラビアやアラブ首長国連邦には一部のパイプラインがありますが、ホルムズ海峡を通る量を完全に代替することはできません。つまり、ここが詰まれば、世界市場全体に供給ショックが起きるのです。
19世紀末の米海軍の軍人アルフレッド・セイヤー・マハンは、古典的著作『海上権力史論』(The Influence of Sea Power upon History, 1660–1783, 1890)において、国家の繁栄と国際的影響力は、海上交通路の支配と深く結びつくと論じました。要するに、「海上交通路を制する者が、世界の繁栄を制する」という発想です。マハンの議論は、英国が世界帝国であり得た最大の理由を、艦隊の力と、海上要衝の支配に求めるものでした。
ホルムズ海峡は、現代世界で最も「マハン的」な場所です。
ここを通るのは、軍艦だけではありません。石油、LNG、化学原料、肥料、輸送費、電気代、つまり私たちの生活そのものが、この細い海峡を通っています。
3. 戦争は、物価になって届く
戦争というと、私たちは戦闘機、ミサイル、戦車、兵士を想像しがちです。
しかし現代の戦争は、戦地とは遠く離れた国の物価に大きな影響をおよぼします。
EIAは2026年4月公表の『短期エネルギー見通し』(Short-Term Energy Outlook)において、ホルムズ海峡の事実上の閉鎖を受け、3月のブレント原油価格が平均103ドル/バレルに達し、2月平均から32ドルも上昇したこと、そして4月2日には日次価格でほぼ128ドル/バレルに到達したことを報告しています。EIAはさらに、2026年第2四半期(4〜6月)のブレント価格は115ドル/バレルでピークを迎えると予測しています。
国際エネルギー機関(IEA)は別途、先物市場ではなく現物価格が一時150ドル/バレル近くまで急騰したことを報告しており、これは「石油市場史上最大の供給ショック」と評されました。
これは単なる金融市場の数字ではありません。輸送費、電気料金、化学原料、肥料、包装材、食料価格に連鎖する数字です。
戦争の影響は、ミサイルが着弾した場所だけで終わりません。 原油価格に乗って、為替に乗って、請求書に乗って、私たちの生活に届きます。
この意味で、2026年春の中東戦争は、日本から遠い戦争ではありません。
4. なぜ日本はこれほど脆弱なのか
日本は、ホルムズ海峡の危機にとくに弱い国です。
資源エネルギー庁によれば、2023年度の日本の原油輸入に占める中東依存度は94.7%でした。経産省が中東情勢に関する閣僚会議で示した資料では、輸入元はUAE 43.3%、サウジアラビア 39.4%、クウェート 6.2%、カタール 4.2%、米国 3.8%となっており、上位国のほぼすべてがホルムズ海峡を通過するルートに依存しています。
一方で、LNGについては調達先の多角化が進み、中東依存度は約1割にとどまっています。
ここから見えるのは、日本のエネルギー安全保障の二面性です。
LNGでは、ある程度の分散が進みました。しかし原油では、依然として中東依存が極めて高いままです。
政府は石油備蓄を持っています。資源エネルギー庁によれば、2026年2月時点の備蓄量は約8か月分。したがって、ホルムズ海峡が封鎖されたとしても、翌日から日本のガソリンがなくなるわけではありません。
しかし、問題は「量」だけではありません。
備蓄があっても、価格は上がります。代替調達ができても、輸送コストは上がります。全国的には足りていても、一部の地域や一部の産業では、供給不安が先に表面化します。そして石油全体の備蓄があっても、ナフサや石油化学原料が、必要な企業に、必要な形で、必要な時に届くとは限りません。
エネルギー危機とは、単なる「モノ不足」ではありません。 それは、価格、物流、契約、在庫、情報、政治判断が絡み合う、複合的な供給危機なのです。
5. イランの戦略——軍事的勝利ではなく、「強制外交」
イランは、米国とイスラエルに通常戦力で勝てません。
この点は明らかです。実際、イランは核関連施設や軍事中枢に大きな打撃を受けました。指導部も深く傷つきました。
しかし、国際政治において重要なのは、相手を完全に打ち負かすことだけではありません。相手にとって受け入れがたいコストを発生させ、交渉のテーブルに引き戻すことも、一つの戦略です。これは国際政治学でいう「強制外交」に近いものです。
イランがホルムズ海峡を事実上封鎖した意味は、ここにあります。
イランは、米軍を撃破したわけではありません。
イスラエルを屈服させたわけでもありません。
しかし、世界経済を揺るがす能力は示しました。
エネルギー価格を上昇させる。
日本や欧州の家計を圧迫する。
米国国内のインフレ不満を刺激する。
同盟国に戦争継続の負担を感じさせる。
こうしてイランは、軍事的劣勢を、経済的圧力へと転換しました。5月下旬に米国とイランの間で、ホルムズ海峡の再開を含む覚書(MOU)案が報じられたことは、この戦略が一定程度機能したことを示しています。ただし、ロイター通信によれば、イラン側が非公式な草案を報じる一方で、米国側はその内容を否定しており、合意はまだ確定していません。
6. なぜ「今」だったのか——三つの政治的誘引
では、なぜ米国とイスラエルは、2026年2月末というタイミングで攻撃に踏み切ったのでしょうか。
軍事的理由だけでは説明しきれません。ここには、米国国内政治のカレンダーが強く影を落としています。
第一に、1月のベネズエラでの作戦成功です。
2026年1月3日、米国は特殊作戦「絶対なる決意作戦」(Operation Absolute Resolve)を実行し、ベネズエラのマドゥロ大統領を拘束しました。ブルッキングス研究所はこの作戦が米国外交・安全保障に広範な波及効果を持つと分析し、米戦略国際問題研究所(CSIS)は衛星画像分析を通じて、この作戦が限定的かつ精密な軍事行動として実施されたことを指摘しています。米国側の人的損失はゼロという、軍事的・諜報的に驚異的な成功でした。
この成功は、トランプ政権内に「短期決戦型の斬首作戦は機能する」という感覚を生んだ可能性があります。ベネズエラで成功した手法を、より大きな標的であるイランにも適用できるのではないか。そうした政治的・心理的ハードルの低下があったと考えられます。
第二に、2026年7月4日の建国250周年です。
米国は2026年7月4日に、独立宣言から250年を迎えます。ホワイトハウスは「Freedom 250」として、国家的祝祭を大々的に打ち出しています。
この記念日は、単なる祝日ではありません。大統領にとっては、「強いアメリカ」「世界を主導するアメリカ」を演出する巨大な舞台です。そこに向けて、外交・安全保障上の勝利を提示したいという誘因が働きます。
第三に、2026年11月の中間選挙です。
中間選挙は、大統領の任期半ばに行われる全国的な審判です。2026年の中間選挙では、物価高と生活費、雇用や景気運営、移民政策、治安、そしてイラン戦争を含む外交・安全保障が、政権与党への評価に直結します。最終的に問われるのは、それらを統御する大統領の指導力と政権運営能力です。
この三つを重ねると、2026年2月末という時期が見えてきます。
1月のベネズエラ作戦で、短期作戦への自信が生まれました。
7月の建国250周年までに、「強い大統領」の物語を完成させたいという誘因がありました。
11月の中間選挙までに、外交的勝利を国内政治の得点に変えたいという思惑もありました。
もちろん、これだけで開戦を説明することはできません。イランの核計画、イスラエルの安全保障認識、湾岸諸国の不安、米国内の対イラン強硬論も重要です。
しかし、国際政治は、国際システムだけで動くわけではありません。今回の攻撃も、イランの核問題という国際要因に加えて、建国250周年と中間選挙を控えた米国国内政治の時間割の中に位置づける必要があります。
7. 米国とイスラエルは何を得て、何を失ったのか
米国とイスラエルは、イランの核能力と軍事中枢に大きな打撃を与えました。
短期的に見れば、これは軍事的成果です。イランの指導部、核関連施設、ミサイル能力、革命防衛隊の組織能力は傷つきました。
しかし、戦略的成果はそれほど単純ではありません。
第一に、イラン国内の国民的結束が強まる可能性があります。体制に不満を持つ人々であっても、外国から最高指導者を殺害されれば、反米・反イスラエル感情に傾くことがあります。
第二に、国際的正当性の問題です。米国は「ルールに基づく国際秩序」を掲げてきました。しかし、相手国の最高指導者の「斬首」を目的とした大規模攻撃は、グローバル・サウスの多くの国々から見れば、二重基準として映りやすいものです。アトランティック・カウンシルは、この戦争への各国の反応がアジア、アフリカ、ラテンアメリカに広く分かれ、欧州内でも分裂が起きていることを分析しています。
第三に、米国の戦略資源が中東へ再び引き戻されたことです。米国は本来、中国との長期競争に集中したいはずです。しかし中東で大規模危機が起これば、軍事、外交、エネルギー政策の注意は再び中東に吸い寄せられます。
軍事的には勝ったかもしれません。 しかし、戦略的には高い代償を払いました。 これが今回の戦争の難しさです。
8. 逆説の受益者——ロシアと中国
この戦争で、米国の意図とは逆に利益を得た国もあります。
まずロシアです。
英シンクタンクのチャタムハウスは、イラン戦争がプーチン政権にとって「経済的な贈り物」になったと分析しています。理由は明快です。エネルギー価格の上昇は、石油・ガス収入に依存するロシア財政を支えるからです。ロシアがウクライナ戦争を続けるうえで、エネルギー収入は極めて重要です。
実際、ロシアのウラル原油価格は、戦争前(2月27日時点)の1バレル57ドル前後から、3月中旬には90ドル、5月時点では100ドルを超える水準まで急騰しました。CSISのアナリストは「この戦争の最大の勝者はロシアだ」とまで述べています。
つまり、米国がイランを叩いたことで、結果的にロシアの戦争継続能力が補強されるという逆説が生まれました。
中国については、より慎重に見る必要があります。
中国は、米国が中東で軍事行動を拡大するほど、自らを「安定を求める大国」として演出しやすくなります。実際、中国は王毅外相が中東特使を派遣し、停戦や対話を求める立場を示しました。
しかし、中国もまた中東エネルギーに依存しています。ホルムズ海峡の混乱は、中国経済にとってもリスクです。ブルッキングス研究所は、中国がこの戦争の全面的な受益者だと見るのは単純化であり、利益と損失の両方があると整理しています。
実際の仲介役を担っているのはパキスタンであり、中国の関与は間接的・水面下に留まる、というのが米中関係に詳しいアナリストの分析です。
したがって、正確にはこう言うべきでしょう。
ロシアは、短期的に大きな経済的利益を得ました。
中国は、外交的なプレゼンスを高めました。
しかし、どちらにとっても、この戦争は完全な勝利ではありません。
9. 戦争は終わるのか
5月下旬、米国とイランの間では、ホルムズ海峡の再開を含む覚書(MOU)案が報じられました。ロイター通信は、停戦、米国の海上封鎖の解除、イランによる安全な航行確保、核問題の扱いなどが交渉の焦点になっていると報じています。
しかし、「交渉があること」と「戦争が終わったこと」は違います。
合意には、少なくとも三つのリスクが残ります。
第一に、偶発的衝突です。 ホルムズ海峡、米軍基地、無人機、ミサイル防衛、タンカー護衛が密集する地域では、小さな誤認が大きな衝突に発展しうるからです。
第二に、イスラエルの独自行動リスクです。 米国がイランとの妥協に動けば、イスラエル右派政権がそれを不十分と見なし、追加攻撃に踏み切る可能性があります。
第三に、イラン国内の権力闘争です。 最高指導者の死亡後、体制内部には不安定要因が残ります。革命防衛隊、強硬派、改革派、国民世論の間で、合意の是非をめぐる対立が深まる可能性があります。
戦争は、終わりかけているように見えるかもしれません。 しかし、まだ終わってはいません。
むしろ最も危険なのは、「もう終わった」と誰もが油断した瞬間です。歴史を振り返れば、戦争はしばしば、終わるはずだった局面で、もう一度大きな代償を要求してきました。
結び——遠くでは終わらない戦争
ホルムズ海峡は、日本から遠い場所にあります。 しかし、私たちの生活からは遠くありません。
ガソリン価格。
物流費。
電気代。
食品価格。
化学原料。
工場の稼働率。
政府の補助金。
国家備蓄。
これらはすべて、ホルムズ海峡とつながっています。
マハンが19世紀末に見抜いたように、海上交通路は国家の繁栄と力を左右します。現代では、その意味はさらに広がっています。海の支配は、軍事の問題であるだけではありません。エネルギー、物価、産業、家計、そして政治の問題でもあります。
2026年2月28日から5月28日までの90日間に起きたことを、私たちはまだ十分に理解できていません。
しかし、一つだけはっきりしていることがあります。
世界経済の血管が詰まれば、日本の暮らしも苦しくなる。
遠くの戦争は、遠くでは終わらない。
ホルムズ海峡で起きたことは、中東の戦争であると同時に、日本のエネルギー安全保障の問題でした。それは、遠い海の出来事ではなく、私たちの生活にまで響いてくる戦争だったのです。
参考文献・資料
[書籍]
Mahan, Alfred Thayer. 1890. The Influence of Sea Power upon History, 1660–1783. Boston: Little, Brown and Company.(邦訳:北村謙一訳『マハン海上権力史論』原書房、1982年) ※本稿では、マハンの議論を「海上交通路を制する者が、世界の繁栄を制する」という趣旨で要約しました。
[政府・公的機関資料]
経済産業省・資源エネルギー庁. 2026.「中東情勢を踏まえた燃料油・石油製品の安定供給確保」中東情勢に関する関係閣僚会議 第1回会合 資料4. 2026年3月24日.
経済産業省・資源エネルギー庁. 2026.「中東情勢を踏まえた燃料油・石油製品の安定供給確保」中東情勢に関する関係閣僚会議 第2回会合 資料2. 2026年3月31日.
経済産業省・資源エネルギー庁. 2025.「第1章第3節 一次エネルギーの動向」『エネルギー白書2025』.
U.S. Energy Information Administration (EIA). 2026. Short-Term Energy Outlook. April 2026. Washington, D.C.: EIA.
U.S. Energy Information Administration (EIA). 2025. "Amid regional conflict, the Strait of Hormuz remains critical oil chokepoint." Today in Energy, June 16, 2025.
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[シンクタンク・分析機関]
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Center for Strategic and International Studies (CSIS). 2026. "Imagery from Venezuela Shows a Surgical Strike, Not Shock and Awe." January 9, 2026.
Chatham House. 2026. "The Iran war has been an economic gift for Putin." April 10, 2026.
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[報道・国際機関資料]
ロイター通信. 2026.「米国・イスラエルがイランを攻撃、最高指導者ハメネイ師死亡」2026年2月28日.
ロイター通信. 2026.「イラン戦争を終結させる交渉の内容とは」2026年5月26日.
ロイター通信. 2026.「イラン国営テレビ、ホルムズ航行再開と米国の海上封鎖解除を含む草案を報道」2026年5月27日.
International Energy Agency (IEA). 2026. Oil Market Report — April 2026. Paris: IEA.
Bloomberg. 2026. "Iran War Boosts Russia's April Oil Tax Revenue to Six-Month High." May 6, 2026.
