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インド旅日記

呼ばれた村とオナモミの祟り

ゴルとピケが去った朝、家の居間は急に広く感じられた。2人分の笑い声と軽口が抜けて、残ったのは自分とママと、やや頼りない静けさだけ。ピケには嫁子供もいるし、2人がデリーの仕事場へ戻るのは当然のことだ。彼らを見送るとき、なんだか自分だけ社会的責務から解放されたような気になって、少しだけ申し訳なくなった。

「今日はどこへ行く?」とママ。彼の目は、近所の空き地や市場を眺めるいつものものとは少し違っていた。どこか遠くを見つめる目つき。誘われるように、ナウガオンと呼ばれる村へ行かないかという話になる。正確に言えば“呼ばれた”村だというのが彼の説明だ。

ナウガオンは、数十年も前に破棄された廃村だった。それもそのはず、ママの家の裏手から山へ向かい、登山道というには躊躇する獣道を一時間ほど登る。水道は来ているが電気はない──そんな説明だけで、この先がどれほど荒れているか想像がつく。実際、村らしきものに近づくにつれて、茂みの合間に見える石屋根や、半ば崩れた倉庫の姿が点々と現れた。数軒の民家、寺、小さな広場。それ以上の期待は禁物だ。

さらにその廃村から頂上近くまで登った先にはシヴァ寺があり、そこまでは尾根伝いにさらに一時間。登り下りを繰り返し、谷を越え、最後は胸突き八丁の急坂が待っていた。息が上がる。呼吸を整えるたび、胸の内で“来るべき場所に来た”という変な確信が踊る。ママは無口になり、でも足取りはしっかりしていた。彼はこの山の道を知っているのだ。

小さな丘になった頂上に着くと、シヴァ寺は予想より小さく、しかしその場にいるだけで時間が静まるような佇まいだった。風はそこまで冷たくなく、標高2000mあたりにいるのだろうが、下界からは牛のモーという声が届いてくる。ママと自分は、しばらく黙ってその景色を眺めた。言葉はいらなかった。写真を撮るというより、そこで漂う空気をひと口ごと味わう感じだ。

撮影のためでも、巡礼のためでもない。ただ二時間ほど、黄昏れていた。誰もいない。遠く、ヒマラヤハゲワシが2羽(ツガイだろうか)、山肌をなぞるように飛んだだけだ。自分は時折、昔ここで何があったのだろうと考える。村がなぜ放棄されたのか。人々はどこへ行ったのか。答えは風の中に溶けていって、代わりに小さな感情が残るだけだった──緩やかな寂しさと、妙な安堵感。

下山を始める頃には日が傾き始めていた。足元が見づらくなり、岩の突起や木の根を避けるのに神経を使う。だがそこで自分がもっと不用心だったのは、クロックスを履いてきたことだ。軽くて歩きやすいという過去の判断ミスを、ここで後悔する羽目になった。踏み抜いたのは、刈り取られた切り株の残骸。鋭利に尖っていて、クロックスのソールを突き破り、その勢いで足の裏に小さな裂傷を作った。血がじんわり滲む。歩行には痛みが伴う。

ママは慌てる風でもなく、ポケットから布切れと水を出して応急処置をしてくれた。インドの山では、こういう“その場処置”が何より信頼できる。針金の代わりに紐を結い、傷口を押さえ、簡易の包帯で止血する。自分は感謝しつつも、軽く自己嫌悪に陥る。「次はちゃんとした靴を履こう」と心の中で三十回くらい呟いた。

村に下り着くと、想像どおりオナモミが大歓迎してくれた。登山道の両脇には、オナモミの宝庫──服やズボン、靴下、はては下着の縁にまでくっついている。あの小さな種が針のように刺さるたび、布地に絡みつき、取るときには「取ったつもりで片方に移しただけ」みたいなイヤな手応えがある。自分は深いため息をつき、家の前の石の上に座って、ひとつひとつむしり取る作業に取り掛かった。

作業を続けるうちに、一枚の古びた布切れが出てきた。布地には小さな文様と、かすれた赤い印。何かの飾りか、以前の住人が置いていったものか。捨てるには忍びなく、ポケットにしまっておいた。後で見返すと、そこには小さな黒ずんだ玉──煤のようなものが一粒付いていた。麻炭を作る自分にとって、その小さな玉は不思議な符号のように思えた。山が無言で渡した、ちょっとした合図かもしれない。

夕方、ママの家に戻ると、冷たい水で手足を洗い、傷の処置を改めてする。血は止まり、足の痛みは続くが、それでも心はどこか満たされている。

そういう代償が、ときどき必要なのだ。

寝返りを打つたびに傷口がチクリとする。布団の中で少し笑い、少し呻いて、やがて眠りに落ちた。夢の中で、どこかの山の寺の石段に、あの小さな煤の玉が増えていくのが見えたような気がする。気のせいだろうか。まあ、旅の夢はいつだって気のせいでできている。次に目を覚ますときには、もっと実務的な仕事──麻茎の整理や、炭化の段取りが待っているだろう。それもまた、違う種類の祟りと祝福が混じった日常だ。



頂上に鎮座するシヴァ寺①
シヴァ寺内の礼拝所
頂上の鐘

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