「50年間、ずっと我慢してきた女の話。」〜毒親・離婚・不倫・再構築。それでも私が折れなかった理由〜
¥300|第1章まで無料
生きていれば、
どうしても抱えるしかない「現実」がある。
毒親、家庭の崩壊、不倫、病、そして絶望的な孤独。
……なぜ、そこまでして生き抜けたのか。
このnoteは、
私が 「自分自身の人生」 を奪還するまでの、魂の記録です。
序章
なぜ私は、どん底から何度も立ち上がれたのか
「真面目に生きているのに、なぜこんなにも試練ばかりなのだろう──」
この問いは、私が人生の底知れぬ闇の中にいた頃、
胸の奥で何度も繰り返されていました。
毒親のもとで育ち、結婚と離婚、そして再婚。
義理の両親による新興宗教の問題、終わりの見えないワンオペ育児、
夫の裏切り──不倫。
さらには、自身の病、子どもの恋愛トラブルや学校問題、
そして最終的には実母との絶縁……。
人生は、まるで私を打ちのめそうとするかのように、
容赦なく次から次へと試練を投げつけてきました。
何度、怒りに震え、悔しさに押しつぶされそうになったことでしょう。
「これほど真面目に、義理堅く生きてきたのに、
なぜ私だけがこんなにも不条理を味わうのか」
そんなやり場のない思いに苛まれ続けた日々でした。
それでも私は、逃げずにこの泥だらけの人生を受け入れ、
自分の宿命と真正面から向き合う道を選びました。
「どんなことがあっても、自分の尊厳だけは決して手放さない」
そう心に固く誓い、その言葉を裏切らないように、
一歩一歩、生き抜いてきました。
もし今、あなたが暗闇の中で、一人震えているのなら。
どうか、この先を読み進めてほしい。
これは、私からあなたへ贈る、
「本当の幸せ」を勝ち取るための招待状なのだから。
📖この超大作実録(全8章分量)
毒親→不倫→病→復讐→母絶縁→50代逆転
の全貌を¥300で完全公開
第1章
抗えなかった日々──幼少期に刻まれた「見えない傷」
大人になってから、ふと気づく瞬間がある。
「あれ……私が育った家は、普通ではなかった」と。
子どもの頃は比べる対象がなく、
親の言動がどれほど異常だったのか分からない。
けれど、親になり、家庭を持ち、
自分の人生を必死に生きるようになって初めて、
胸の奥に沈んでいた“違和感”が形を持ち始める。
私の場合、その違和感は、
母から受け継いだ“負の連鎖”だった。
幼少期に刻まれた不条理は、
静かに、確実に、人生の底に残っていた。
1-1 幼少期に芽生えた違和感と不条理
今から50年前。私は山奥の小さな集落に生まれました。
六人家族のにぎやかな家でしたが、そこに“健全さ”はありませんでした。
幼い私は、親の言動を疑う術もなく、
それが世界の常識だと信じて育ちました。
けれど大人になり、親になって初めて気づいたのです。
あの家は、普通ではなかった。
母は、自分の考えを持たず、
その場しのぎの言葉だけを並べる人でした。
行動は伴わず、責任も取らない。
耳障りの良い話を自分の手柄のように語り、
失笑されても気づかない“鈍感さ”だけが取り柄でした。
そして何より、
他人の不幸には異様なほど目を輝かせ、
子どもの前でも平気で下品な話をする。
その姿に、私はいつも嫌悪しかなかった。
ただ、幼い頃の私は、
それを“異常”と断言できるほどの基準を持っていなかった。
違和感だけが、静かに積もっていった。
1-2 欠如した愛情と“自立を強いられた子ども”
毒親育ちの人がよく口にする言葉があります。
「親に甘えた記憶がない」
「助けてもらった思い出がない」
それは、子ども時代に“愛情の土台”がなかったということ。
その欠如は、大人になっても心の奥に残り続けます。
私もまた、
「助けてもらう」という経験をほとんど持たないまま育ちました。
小学校はバス通学でした。
家から1.5キロ離れたバス停まで、毎日歩いて向かっていました。
冬には、膝まで雪が積もる日もありました。
それでも、専業主婦だった母が送ってくれることはありませんでした。
長靴もなく、普通の運動靴のまま深い雪を踏みしめる。
靴の中はすぐに濡れ、足先の感覚は消えていく。
私は、凍える足で、泣きながらバスを待つしかありませんでした。
雪の日はバスが全然来なくて、立っているだけで足の感覚がなくなっていきました。
寒すぎて、気づいたら涙がぽたぽた落ちていました。
泣きたいわけじゃないのに、勝手に出てくる涙でした。
驚くべきことに、そんな過酷な状況でさえ、
私はそれを“当たり前”だと思い込んでいたのです。
白い息が凍りつく冬の朝。
冷え切ったバス停で、濡れた足元から這い上がる冷気。
あの絶望に近い「冷たさ」は、50年経った今も、記憶の底で凍りついたままです。
1-3 母の放置が生んだ匂い──カビ臭いカッパの6年間
中学・高校の6年間。
私は雨の日も風の日も、自転車で通学し続けました。
高熱で動けないとき以外、学校を休むという選択肢はありませんでした。
そういうふうに生きていました。
雨の日の通学に欠かせないのが、カッパです。
本来なら、使った後に干して乾かさなければ、すぐにカビが生えます。
けれど、母から手入れを教えられたことはありませんでした。
「干しなさい」と言われたこともない。
私は、濡れたままのカッパをそのまま畳んだり、放置したりしていました。
当然、カビは繁殖し、
6年間、雨が降るたびに“カビ臭いカッパ”を身にまとって登校していました。
その匂いや、汚れたカッパを周囲がどう思っていたのか。
当時の私は、それを気にする余裕すらありませんでした。
子どもが自分の身なりを整える方法を知らないまま放置される。
それが、私の家の“当たり前”でした。
衣食住を整える。
本来なら、親が気づき、教え、守るべきこと。
けれど私の母は、
子どもの生活に関心を向けることはありませんでした。
幼い頃から積み重なってきた無関心の延長線上にある、
ただの“いつもの放置”でした。
1-4 夜道の恐怖と、迎えに来ない母
高校への道のりは、さらに過酷さを増しました。
家を出て山を下り、また別の山を越えて学校へ向かう。
自転車で片道1時間もかかる険しい道のりです。
今思うと毎日が修行のようでした。
部活動で帰宅が遅くなる日もありました。
暗い山道を、一人で、ただ必死にペダルを漕ぐしかありませんでした。
そしてある日、私は恐怖に足をすくわれました。
人通りのない道で、突然、下半身を露出した男が現れました。
その瞬間、身体が勝手に逃げていました。
自転車を反転させ、必死でペダルを踏みました。
心臓が暴れ、呼吸が乱れ、背後の気配だけが膨らんでいきます。
逃げる途中、一台のスクーターとすれ違いました。
その瞬間、全身の血が引きました。
「あれも仲間かもしれない」
恐怖は、判断を奪います。
のちに知ったことですが、
そのスクーターの人は近所の方で、
異変を察して不審な車を追い、警察に通報してくれていました。
けれど、私をさらに傷つけたのは事件そのものではなかった。
事件後の母の態度だった。
母は、この出来事を
まるで自分の話題作りにでも使うかのように、
笑いながら他人に話していた。
娘が恐怖で逃げた出来事を、
平然と笑い話に変える人間がいる。
しかも、それが母だった…。
痴漢に遭ってから、帰宅が遅くなる日に、公衆電話から母に電話をかけました。
「今から帰るから、お願い、迎えに来て」
それが私にできる精一杯の自衛でした。
けれど、どれだけ祈るような気持ちで夜道を漕いでも、
私の前方を照らすはずの車のライトが見えることはありませんでした。
「お母さん、来てくれてるよね」
「もうすぐ、あの角を曲がればライトが見えるはず」
そう自分に言い聞かせながら、恐怖を振り払うように立ち漕ぎで帰りました。
ようやく家にたどり着いたとき、
玄関の奥から聞こえてきたのは、のんきな母の声でした。
「あら〜、もう帰った? これから迎えに行こうと思ってたのに〜」
その瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちました。
「嘘だ。最初から来る気なんてなかったんだ」
自転車置き場の暗闇で、私は声を殺して泣きました。
母親なら、同じ女性なら、わかってくれるはずなのに。
その期待が届かないと知った夜でした。
1-5 280円弁当と、溶けた容器
あの頃、
母の無関心が最も分かりやすい形で表れたのが“お弁当”でした。
中学・高校時代はお弁当持参が決まりでした。
それでも母は、作らない。
作る気もない。
子どもの食事に興味すらない。
母はお弁当作りを心底面倒がり、
ほとんど毎日、私に手渡されるのは「280円」という小銭だけでした。
それは、購買のパン二つ分の、最低限の金額です。
たまに母の気まぐれで弁当が用意されることもありましたが、
その中身は、
電子レンジで加熱しすぎてどろどろに歪んだ容器に載った惣菜だった。
形だけは整っているが、口に入れていいものではなかった。
「こんなの食べたら体がおかしくなるよ!」
私が抗議しても、母は悪びれる様子もなく、
「じゃあ、自分で作ればいいじゃない」
ただそう言い放つだけでした。
たまに弁当がある朝、私は必ず台所のゴミ箱を確認しました。
溶けた容器が捨てられていないか、自分の目で確かめるためです。
ほんの少しでも変形した跡を見つけた日は、
その弁当を学校へ持っていくことはありませんでした。
それを口にする勇気は、私にはありませんでした。
1-6 母の不倫と、子どもたちの心に刻まれた傷
私が思春期を迎える頃、父の単身赴任が決まり、週末だけ家に帰ってくる生活が始まりました。
大黒柱が不在になった途端、母の様子は目に見えて変わりました。
食卓には、手軽なホットプレートが頻繁に出されるようになります。
野菜と肉、市販の焼肉のタレだけが並ぶ夕食。
準備を済ませると、母は吸い寄せられるように、どこかへ出かけていきました。
残されたのは、祖父と私たち三人の兄妹。
ジリジリと肉が焼ける音だけが響く部屋で、兄、私、妹の三人は、何度も顔を見合わせながら焼肉を囲む夜を過ごしました。
思春期の私には、その異様さが嫌でも分かりました。
母が家を出るたび、兄妹で小さく囁き合いました。
「あいつ、浮気してるよね」と。
それは確信に近い、しかし口にするのも汚らわしい疑念でした。
ある日、妹が偶然、母のポーチの中を見てしまいました。
中に入っていたのは、信じられないほど大量のコンドームでした。
私より幼かった妹の目に、その光景はどう映ったのでしょうか。
その無機質な感触が、どれほど深く幼い心に泥を塗ったのか。
想像するだけで、今でも胸が締め付けられます。
子どもにとって、母親は何よりも必要な存在です。
母親からの無条件の愛は、子どもの心の土台になります。
だからこそ、母親の不倫は、父親のそれよりもはるかに深い傷を残します──。
やがて父の単身赴任が終わり、母の夜遊びも落ち着いた頃、彼女は何気なくこう言いました。
「やっぱり、お父さんが一番!」
きっと、外の男たちと比較して出した、彼女なりの答えだったのでしょう。
けれど、裏切りを見続けてきた私には、その言葉の軽さと身勝手さに、呆れる以外の感情はありませんでした。
そしてその“無関心”は、不倫だけにとどまりませんでした。
1-7 愛情も教育も出し惜しむ母──奪われた未来
私たち兄妹三人は、全員が県立高校へと進学しました。
もちろん滑り止めの私立高校も受験しましたが、
母は「県立高校に受かるでしょ」と、根拠のない楽観を口にするだけでした。
私立の入学準備金──当時わずか3万円ほどだったでしょうか。
その金額すら、母は出し惜しんだのです。
私たちは決して、余裕で合格できる学力ではありませんでした。
それでも母は、万が一の備えすらしなかった。
もし一人でも不合格になっていたら、どうするつもりだったのか。
この無謀な“賭け”の事実を、父は今も知らないままでいるはずです。
私は、「お金」とは愛情を形にする最も分かりやすい手段だと思っています。
特に子どもの進路や教育に対して出費を渋るという行為は、
愛情ある親には決して湧かない感情です。
部活動の道具さえ買ってもらえず、
親戚のおじさんが入学祝いに贈ってくれたものを、私は3年間ボロボロになるまで使い続けました。
父は給料のすべてを母に預けていました。
きっと、私たちが不自由なく暮らしていると信じて疑わなかったのでしょう。
母が教育費を削り、その分を自分の買い物に浪費していたことなど、
父が知る由もなかったのだと思います。
母は、私たち兄妹が何に興味を持ち、何が得意なのかを知ろうともしませんでした。
可能性を伸ばす努力も、一切ありませんでした。
彼女が口癖のように言っていたのは、
「男は県立高校から工場勤務、女は事務員で十分」
という、時代遅れで狭い価値観だけ。
子どもの未来を、自分の小さな世界に押し込めるための呪文のようでした。
そして私たち兄妹は、皮肉にもその言葉どおりの道を歩んでいきました。
今振り返ると、私たちはあまりにも“素直”に育ちすぎていたのだと思います。
反抗する術も知らないまま、母の引いた“最低限”のレールを走ってきた。
その従順さが、今となっては何よりも切なく、皮肉に感じられます。
母の無責任さは、教育や生活だけにとどまりませんでした。
その根底には、もっと深く、もっと重い“命への無関心”が潜んでいたのです。
1-8 命を軽んじる母性と、巡り巡る因果
母から過去に「堕胎したことがある」と告げられたのは、私がまだ若い頃のことでした。
それも一度ではなく、兄の次、そして私の後に妊娠した二人です。
その告白は、あまりにも淡々としていました。
まるで今日の献立でも話すかのように、
「続けてできちゃったから」
と、何の感情もなく言い放ったのです。
命の重みを顧みることもなく、母性の欠片もない。
ただ快楽に身を任せ、都合が悪くなれば消せばいい。
その価値観を恥じる様子すらありませんでした。
その姿を前に、私は心の中で暗い願いを抱かずにはいられませんでした。
「この人たちにこそ、この世のすべての罰が当たればいいのに」
私たち三兄妹も、母にとっては“ただ産んでみただけ”の存在だったのかもしれません。
子作りは好きでも、子育ては面倒。
作りすぎたら堕ろせばいい──。
その歪んだ思想が、私たちの人格形成に影を落とさないはずがありませんでした。
母の無責任さは、家庭の外でも変わりませんでした。
PTA役員で副会長に選ばれても、一度として活動に参加しなかったことを、
母は平然と笑いながら話していました。
親の無責任が、子どもにどれほど冷ややかな視線を浴びせるか。
そんな想像力は、彼女には一欠片もありませんでした。
子どもの幸せや尊厳よりも、
自分の欲望と快楽を最優先に生きてきた人。
それが、私の母でした。
親の愛情不足という飢餓感は、子どもが大人になってから、
まるで逃れられない宿命のように牙を剥きます。
仕事、人間関係、恋愛、結婚。
人生のあらゆる場面で、その歪みは容赦なく現れてきます。
「親の因果は、子に巡る」
その言葉の残酷さを、私たち三兄妹は、
自分たちの人生をもって証明することになりました。
母が軽んじてきた「命」や「責任」は、
私たち三兄妹の人生に、あまりにも鮮明な影を落としていったのです。
1-9 因果は子に巡る──三兄妹それぞれの人生の歪み
長兄は、社会人になって間もなく、交際相手の妊娠がわかりました。
けれど、相手の両親から強い反対を受け、
二人が望んだ未来は、あっけなく閉ざされてしまいました。
やむなく堕胎という選択を迫られたことが、
彼の心にどれほどの傷を残したのか──
私は想像することしかできません。
その後、工場で知り合った人妻と駆け落ちをしたときにも、
同じような悲劇が繰り返されたと聞いています。
彼の人生には、いつも泥のように重たい女性関係の問題がつきまとい、
抜け出そうとしても、また別の渦に巻き込まれていく。
そんな印象がありました。
今は結婚していますが、子どもには恵まれていません。
母が繰り返してきた「命の選択」が、
形を変えて兄の人生にも影を落としているのではないか
そう思わずにはいられません。
そして兄もまた、長いあいだ実家とは距離を置いたままです。
誰に責められるでもなく、
そっと、家族の輪から離れていきました。
事務員として働き始めた妹も、決して穏やかな道を歩んだわけではありません。
一度は結婚し、家庭を築こうとした時期もありました。
けれど、その生活は長く続かず、終わりを迎えました。
離婚のあと、彼女は誰にも頼らず、自分の力だけで生きていくことを選びました。
事務員を辞めて専門学校へ通い始めました。
手に職をつけ、ひとりで暮らす日々を積み重ねながら、
“自分の生活を守る”ということを、彼女なりの形で続けています。
ただ
彼女が「母親」になる未来は訪れませんでした。
年齢的にも、もう子どもを授かることは難しい。
その事実を、彼女がどう受け止めてきたのか、私は深くは聞いていません。
けれど、胸の奥にしまい込んだ思いがあることだけは、言葉にしなくても伝わってきます。
そして彼女もまた、私と同じように、
実家との関わりを手放しました。
自分の人生を自分の手で守る道を選んだのです。
そして、私。
事務員として働き、結婚し、離婚を経験しました。
その後、もう一度人生をやり直すように再婚という道を選び、
ようやく二人の子どもを授かりました。
けれど、私の試練はそこから始まりました。
義両親が深く関わる新興宗教の問題。
夫の不倫。
そして、私自身の病。
さらに、子どもたちの学校でのつまずきや、
恋愛の悩み、体の不調──。
ひとつが落ち着く前に、また次の問題が押し寄せてくる。
まるで、決壊したダムから溢れ出す水に
飲み込まれていくような日々でした。
それでも私は、必死に、
狂おしいほど必死に家族を守ろうとしていました。
その過程で、私もまた、
実家との距離を置くようになっていきました。
母が蒔いた種は、
私たち三兄妹の人生に、
あまりにも鮮明で、逃れようのない形で芽を出していました。
そしてその結末は、
やがて母自身にも、
静かに返っていくことになります。
1-10 負の連鎖を断ち切ると決めた日
今、つくづく思うのです。
子育てという名の「種まき」の結果は、いつか必ず自分に返ってくる。
私たち三兄妹が全員、誰一人として実家に寄り付かず、親と疎遠になっているという事実。
これこそが、母がかつて私たちに注がなかった愛情、
そして軽んじてきた命への、あまりにも明白で、冷酷な「つけ」の形なのだと思います。
三人の子供を産んでも、授かった孫はわずか二人。
そして今、母はその孫たちの顔を見ることすら叶いません。
子育てとは、まさに「自分を育てること」なのだと、今になって痛感します。
この世に、子育て以上に責任が重く、尊い仕事など他にありません。
その大切な役割をないがしろにした結果が、今の母を包む「老後の孤独」として返ってきているのだとしたら、それは避けることのできない自業自得なのかもしれません。
「子育ての結果は、死ぬときにわかる」
かつて聞いたその言葉の意味を、私は歳を重ねるにつれて、少しずつ、そして確信を持って実感するようになりました。
親から十分な愛情を与えられなかった子供は、ときにその心の欠落を埋められぬまま、無意識のうちに自分の子供にまでその傷を引き継いでしまうことがあります。
だからこそ、私は心に誓っているのです。
この「負の連鎖」を、私たちの代で必ず断ち切るのだと。
私たちが背負わされた痛みや孤独を、ただの悲劇で終わらせない。
その苦しみを、これからの世代に愛を伝えるための「糧」へと変えていく。
それこそが、不条理な過去を未来に活かす唯一の方法であり、私たちが今を生きる使命なのだと、私は強く痛感しています。
ここから先は、私がどうやって自分を、そして未来を奪い返したのか。その具体的な戦略と、手に入れた平穏についてお話しします。
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