三賢者と「わたしは、」
1920年、ベルリン。
冬。
石畳の上を風が吹き抜ける。
灰色の空。
通りに立ち尽くす9歳のクララの手には空のパン袋。
朝から続くパン屋の列にはもう並ぶ気力もない。
母は咳をこらえて布団の中。
父は戦地から戻ったが、心は戻ってこなかった。
冬なのに窓にガラスはない。
新聞紙が風に揺れて、クララはその中に書かれた「賠償金」という言葉だけを目の当たりにしている。
「私たちは何をしたの?」
クララはそう心の中で呟きつづけた。
ふと、人間がそこに3人いる。
いつからいたのかわからない。
けれど怖くはなかった。
それぞれがどこか時代を背負った顔をしていて、誰も怒っていなかった。
くしゃくしゃの髭の男は、床に座るクララの隣に静かに腰を下ろした。
「クララ、怖い夢を見たことはあるかい?
起きた後もずっと胸が苦しくなるようなやつだ」
「見たくなくても、目が覚めても、全部現実よ」と答える。
フロイトはゆっくり頷き、懐から古びた鏡を取り出した。
「心の中にも、こんな鏡がある。
割れてしまっているけれど、欠片はまだ君の中にある。
それを拾い集めることは生きていくってことだよ」
少し年上の瞳の奥に炎を持つ女性が窓のそばに立っていた。
軍靴の音が遠くから響くたび、クララの肩はびくりと震えた。
ローザは言った。
「世界は今、音を立てて崩れている。
だけどね、その音を聞き分けられるのはあなたのような人間だけなの」
「私は、何もできない」
「いいえ。
あなたの中に“怒り”はある? “なぜ”と問いたい気持ちは?」
クララは黙って頷いた。
「なら、あなたはもう歩き出しているわ。
目を背けないって革命の一歩よ」
彼は一冊の本を持っていた。
けれど一言も読まなかった。
ただ、クララに聞いた。
「この世界が、まるで牢屋のように感じることは?」
クララは「いつもよ」と呟いた。
「でも、ね。
囚人が牢の中で物語を書くことは牢そのものを壊す一撃になり得るんだ」
「誰が読むの?」
「今は誰も読まなくていい。
でも君が書くことで、誰かが“出られる”かもしれない」
カフカはそう言って小さなインク壺とペンをクララの手に置いた。
暖炉の灰の中にクララはペンを突っ込もうとした。
「書いても何も変わらない。
お腹はふくれない。
あの頃の父も戻ってこない」
でも、そのとき。
母の寝台から小さな声がした。
「クララ、また...何か読んでくれない?昨日の詩の続きを」
母は詩を覚えていたのだ。
何も食べられなくても、言葉はまだ彼女の中で生きていたのだ。
朝。
クララは、ペンを再び取り上げた。
紙の切れ端にこんな言葉を書いた。
「パンのない朝にも、言葉は焼ける」
「誰もいないような日にも、声は響ける」
「わたしは、まだ書ける」
三人の賢者は何も言わず、クララの背中を見送った。
そして彼女の姿が朝靄の中に消えかけたとき、フロイトは静かに言った。
「彼女はまだわかっていない。
でもそれでいい。
書くことで、わたしになるのだから」
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