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三賢者と「ぼくは、雨が嫌いだ」

ぼくは、雨が嫌いだ。
窓の外を見れば、濡れた地面に反射する灰色の空。
傘を忘れた日は全身ずぶ濡れになるし、濡れた靴下の気持ち悪さといったらない。
晴れた日はあんなに歩くのが楽しかったのに、雨の日はなぜか心の奥までぬかるんでしまうような気がする。

学校に向かう道すがら、ぼくはぼそりとつぶやいた。

「なんでこんな日に限って、生きてるんだろうな。」

すると、視界の片隅に、傘もささずに立ち尽くす三人の影。


ひとりは、コートの襟を立てて遠くを見つめる哲学者アルベール・カミュ
ひとりは、和傘の下で静かに筆を持つ俳人与謝蕪村
そしてもうひとりは、雨音に耳を澄ませるように目を閉じた精神科医ヴィクトル・フランクル

ぼくは目を疑った。
けれど、彼らは確かにそこにいて傘の代わりに言葉を差し出してきた。


◆ カミュ

「きみが嫌うこの雨、不条理だよな。わかる。
だがな、人生もまた雨に似てる。
不意に降るし、理不尽だ。
それでも、だ。
シジフォスは石を転がし続ける。
雨のなかでも、きみは自分で意味をつくることができる。
たとえば、その濡れた靴で踏みしめた地面に道を描くように。」

◆ 蕪村

「雨音はただのノイズではありません。
耳をすませば、そこに句があります。
『春の雨 ぬれた猫ひとつ 灯の下に』
雨がなければこの句も、この猫も、生まれなかった。
雨の日だけ見えるものがあるのですよ、ぼく。」

◆ フランクル

「私は、ナチスの収容所のなかでも、生きる意味を見出す人々を見ました。
それは『晴れた日』だけに見つかるものではありません。
むしろ『なぜこの雨が降るのか』ではなく、
『この雨のなか、私は何を選ぶのか』が問われるのです。
きみが雨を嫌ってもかまわない。
だが、それでも生きているということには―
それだけで、価値があるのですよ。」


ぼくは、首を振った。

「それでも、やっぱり……好きにはなれない。
濡れるし寒いし、暗いし、やる気は出ないし……。
そんなの美しいとか意味があるとか言われても、今はうんざりなんだよ。」

賢者たちは笑いもしなかった。
ただ、受け止めてくれた。

「そう、それでいいのです」とフランクル。
「嫌うことも、ひとつの感受性だ」と蕪村。
「だが、それでも生きている。そこに“反抗”の美があるのさ」とカミュ。


その夜、ぼくは家のベランダに出てみた。
まだ雨は降っていたけれど、どこか空気が澄んでいた。
洗いたての空気みたいに、静かで、冷たくて。
下を見たら小さな植木鉢の中に水がたまり、小さな芽がひとつ葉を広げていた。

ぼくはつぶやいた。

「……まあ、こんな日もあっていいか。」


「人は雨のなかでも歩くことができる。
 靴が濡れても、心まで濡れる必要はない。
 きみが『意味などない』と叫びたくなるときほど、
 生きているということの強さが試されているのだ。
 もし世界が冷たく、濡れているとしても―
 きみの中に、太陽を保つことはできる。
 それが、不条理の世界を生きる“芸術”というものだ。
 雨が降る。だが、きみは歩いている。
 それだけでじゅうぶんに美しいじゃないか。」

空想のカミュ

1. アルベール・カミュ(フランスの哲学者・作家)

「不条理のなかでも、人間は生きる意味を自ら創造することができる」と語った実存主義者。

2. 与謝蕪村(江戸時代の俳人・画家)

「雨の日にしか咲かない句がある」と言わんばかりに、雨の情景から詩情をすくい取る感性の人。

3. ヴィクトル・フランクル(精神科医・ホロコースト生還者)

「人生の意味は状況に応じて変わる。雨の日にしか見えない価値もある」と信じた人。

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