感謝ワーク 12日目 あなたを変えた魔法の人々
さあ動画をみよう。
私たちは生涯において、最も助けを必要としていた時に、誰かに援助や支援、指導を受けたことがあるのではないでしょうか。また、誰かの激励や導き、あるいは、その人が重要な時にその場にいてくれたことによって、私たちの人生が変わってしまうこともあります。
なるほど。確かに自分の今までを振り返ると、何人か僕を変えたのかもしれないと思う人が思い当たる。その中で、重要な3人と思える人に思いをはせて、感謝を示すと言うことだと思う。さあやってみる。
私を変えた魔法の人々
一人目 H先生
先生と出会ったのは14歳の時だったでしょうか。
僕は、あの頃何もかもが大変でした。
転勤で島で住むことになり、学校の中では浮いていたのかもしれませんが、それなりに遊ぶ人たちはいて、でも、何をしていても、何をしているのかよく判らなかった。
楽しくはありました。でも、その当たり前の毎日というやつについていくのがやっとで。足首の靭帯を切る怪我をしての入院、退院直後に反対の足の靱帯を切り、入院。車椅子と松葉杖での生活。
中二の時は半年くらい入院していたでしょうか。
そんだけ入院していると、帰ってきても学校の授業など知らないことをしていて、全くの白紙のぽっかり空いた教科書だったようにおもいます。
正直、病院の中のことは覚えていますが、14歳の頃のことはさっぱりと記憶が飛んでいます。
当然、普通の塾に通ってもわかるわけがないのです。知らないことで知らないことを解いてるから。
そんな時に、先生の塾に出会いました。
数少ない名前を覚えているクラスメイト、体の大きな別府くんでした。
彼の親御さんかなんかが貸していたプレハブの教室にせんせの塾がありました。進学塾ではなく、学校の授業の補完をするような塾でしたね。
なぜだかふと気になり、お母さんと一緒に相談しに行ったのを覚えています。
あの時、人生の中で初めて、僕は裕歩を「ゆうほ」と読まずに「ひろむ」くんと読むのかしら?と言われたのを覚えています。とても新鮮でした。
僕は子供の頃に「ゆうほ」と呼ばれるのが嫌いでした。
僕の「裕歩」は「UFO」の裕歩だったから。生まれた時に流行っていたピンクレディーの「UFO」からつけられた名前だから、幼稚園のアップリケも「UFO」カバンにも「UFO」当時、UFOブームだったから飛べないUFO飛んでみろとからかわれて、泣きながら名前を変えてくれと言っていたのを覚えてるからです。病院に行けば女の子として名前を呼ばれ、迷子になっても何度も聞き直される。そんな思いをしていたからか、
「ひろむ」くん
この字はそうも読めるのか。
そう読むのか。風が吹いたような気がしました。
先生は勉強も教えてくれたけど、考えるということを教えてくれました。
「あなたたちが生きていく時代は自分で考え、自分を守らなければならない、そういう時代になるのだから、考えて考えて答えを探し続けなさい」
そういうようなことをいつも言ってました。
先生は、童謡詩人で絵描きでした。先生の旦那さんも絵描きでした。
僕はその時に初めて芸術でご飯を食べてる人に出会ったのです。
だからなのか、その時代に出会ったどの大人とも違って見えました。
あの時、先生の塾に通っていた男の子は僕くらいしかいなかった、同級生も3人くらいしかいなかった。
だからか、先生は女性の先輩として女子生徒にいろんな話をしていました。
僕はそこで、ああ、女の子と男の子は根本的に違うものだということを知りました。おかげで今でも僕は友人や患者さんの女性たちから男性扱いを受けません。なぜだかガールズトークに溶け込めてしまう。
多分男だけの中で育っていただけでは判らない部分にスッと入れるからだと思ってます。
多分、あの頃の経験が僕の中の何かを変えて、男だからとか女だからとかそういうことではない世界で生きている僕という個人の世界観は先生に出会って先生を知ったからだと思っています。
先生は、生きることと死ぬことというような話をよくしていました。
いつだったか、小学生の子が慌てて、塾に来て、「先生、猫が死んでる」と飛び込んできました。先生は全員を連れて、そこにいき、車に跳ねられて死んでいる猫を抱き上げました。そしてみんなで弔いましょうと言いました。
そこで先生が何を語ったのか言葉ではあまり覚えていません。
ただ、数人の子供と先生が猫を抱き上げてて歩いている姿を覚えています。
先生はよく皆に手紙を書いてくれました。
テスト用紙を返すときに便箋に繊細な字と花の絵を描いてました。
もらった時にはなぜだかいつも心が晴れました。
週に1度先生の塾に行くというのが僕に中では息継ぎをしに行くような気分でした。週に一度だけ自分に会いに行くような気分でした。
学校生活の中ではクラスメートの中で和を壊さないように、自分は自分でなく「UFOくん」というこういう見え方の生徒で、こういう立ち位置のクラスメートを演じる気分でいました。
荒れてる部分のある学校だったし、勉強をしない子供だった僕は、必然的に裏で悪さばかりをしていたし、付き合う連中もそういう奴らばっかりだった。
でもね、そうでしか生きられなかったし、そうしかやり方がわからなかった。怪我してばかりの転校生の立ち位置というのはそういうもんだった。
そんな中で唯一の息継ぎの場所が先生の塾だった。
一人早くに行って、誰もいないプレハブの教室でぼーっと考える時間が唯一、自分の世界を取り戻す方法だった。
だからね、先生。
先生が教えてくれたことが僕を変えたというよりも、先生の在り方が僕を僕として在っていいということを確かにしてくれたんです。
あの頃に、僕が僕たらしめるための何かの礎を自分で作るための場所があのプレハブの教室だったんです。
いつか先生に会いに行きたいけど、いつもいつも先延ばしにしてしまいまう。最後に会ったのは、僕が映画作りをやめようと思って帰省した時でした。先生は転勤した先でも時折、僕に年賀状とかハガキを送ってくれてました。あの時、長崎で行われた先生と先生の旦那さん個展のハガキが届いていて、数年ぶりに会いに行きました。
あの時逢って、ゴスペルを聴いた時に、ああ、僕はまだやれる、まだ作る現場にいたいと思いました。
そして東京に戻って、実写映画しかやった事がなかった僕がたまたま開いた求人にあったアニメーションの制作会社に入ることになりました。
おかげで、アニメの作り方を知ったり、世界で戦っている人たちと仕事をするという経験ができた。
あの時、映像を辞めていたら、今の僕は作れなかったし、紆余曲折を続けてもいなかった。多分、一緒に作っていた仲間たちの今のように、工場とかで好きでもない仕事をしながら、無意な時間を過ごして、無意だなと思って今を生きていたんだと思います。
だってね、体壊して、その後に入ったCGの会社を辞めるまで、最前線で作る仕事を続けていたから、今、鍼灸師をしながらでも、創るを辞めてないんです。
今は皆で創るではなく、一人で創るに変わってきたけど、僕は夢を諦めてはいないんです。
僕は僕を創りたい。その夢を諦めていないんです。あの時諦めないと決めれたから。
先生に会いたいなって思うこともあるんだけど、まだ僕は僕を創りきれてないから、まだ会いに行けない。先生が壱岐でFM放送のパーソナリティを時々やってるの知ってるけど、まだ会いに行けない。そう思ってたんです。
だけど、僕はいつも遅いから、今くらいは焦って会いきたい気持ちになっています。
僕に礎の守り方と育て方を伝えてくれて、ありがとう。先生。ありがとう。
二人目 タマキさんと名もなき少女
僕が絵を描き始めたのは、僕が体を壊して、長崎に戻ってから、何をしていいかわからない時でした。ある突然、寝たきりのように体は動かない、まともに生活もできない、それでも、家族とさえ一緒に居れない。唯一、相棒猫のタマキさんだけが僕の支えのように居ました。そして、彼は突然死にます。知り合いの病院でカプセルの中で延命されてる彼を見ながら、「もうダメだよ、UFOくん、止めてもいいね。」そう言われながら頭の中はぐるぐるとしていて、「だめ、だめです」、そう言いたいのに、言えない。振り絞って僕は、「残させてください、
あと少しでいいから」とその辺にあった紙とペンを借りて、心停止していく彼を描きました。何か残さないと、何かを残さないなんてできない。そう思って、10歳位の頃から拒否し続けた絵を。自分の意思で絵を描いたのです。
そこからはただひたすらに描きまくりました。描いて倒れて、起きては描いて、ひたすらに描く描く描く。どこででも描きました。どんな時でも描きました。
そして、ライブペイントをはじめました。いろんなイベント会場に勝手に画材を持っていき、勝手に広げて描く。コンサートホールでも勝手に描く。ライブハウスでも、路上でも。そして、長崎の大村で、サウンドラリーというイベントが行われました。数日間行われた音楽イベントでした。運営をしていた人と知り合っていた僕は、この公園で描いてもいいかと許可を取り、イベント会場の一区画をかり朝から日が沈むまで、描いていました。
二日目の夜、日が沈み、薄明かりの中、描いては周りに投げていた大量の絵を片付けていました。そこに一人、名も知らない、少女が近寄ってきました。「絵好きなの?」片付けながら話しかけました。「片付けてるから、バタバタしててごめん、もう少し置いとくから見てていいし、欲しかったら持っていっていいよ。」
少女は「これ、すごい」と言いながら泣きはじめました。訳もわからなかったけど、初めて人が自分の絵で泣くのを見ました。その絵を残して車に荷物を移動した後戻ったら、その子はいなくなってました。その時、腰が抜けたような気分になりました。そして、僕は呆然と絵を片付けました。
今となっては、その絵がどの絵だったのかもう覚えてないくらい、絵を見つめながら、泣いているその子が衝撃でした。
自分が描いた絵で人が感動している。その体験は幾度もあった描けなくなった時に、自分がうずくまってしまいそうになる時に思い出されます。だから僕は描く。
そう今でも思うし、描けないときに、それでも描くと自分を押し上げてくれます。
あの時、泣いていたあなたがいたから、僕はいまだに描いています。
あの時、身代わりのように逝ったタマキさんがいたから、僕は死ぬまで描くのだとおもいます。
ありがとう。
O先生
先生と出会ったのは、鍼灸学校の学生の時、僕の体と心が限界になってきて、心理学の授業の時にカウンセリングもしてるから、辛かったらお話に来ませんかと聴いたから。
主治医からも多分、3年間ずっと通って、卒業できないから、途中休学の4年は覚悟でいきましょうと言われてました。
当時、教員は知っていたけど、僕は朝、訪問介護と訪問看護でバイタルチェックをして、登校の可不可を決めてもらってました。最初の二年間はそれで通ってました。そんな生活も限界を越えはじめて、いよいよ危ないという時に、初めて、カウンセリングルームの戸を叩きました。状況を話し、どうしたらいいですかね。と相談をしました。そこから毎週、その時間はカウンセリング。その時間のおかげで、なんとか通えました。
しばらくして、二人とも喫煙者だったから、先生と毎週その後にココスで夕食を一緒に食べるようになりました。いつも先生がご馳走してくれました。
心理学のこと、発達障害のこと、発達障害児に対しての教育のこと、いろいろと話ました。そんなん中で、特別に発達検査やWAIS-Ⅳ のテストをしてくれました。結果をみながら、先生は、UFOさん、医者になりましょう。と僕に話しました。
イヤイヤ先生、僕高卒ですよ。専門卒ですから、勉強してないから今更ですね。
でも、教員資格は取りに行きますよ。進学します。と話しました。
先生はそれからずっと、僕の能力の高さについていっぱい話してくれました。
だから、あなたは医者になって、もっと人を助けられるから。ずっとそう言い続けてくれました。僕は、その時まで自分は人と比べて能力が低て、人と同じにできないから、人の何倍もやって、やっと背伸びができるくらいだと思い続けていました。勉強すれば点数取れるのは当たり前、暗記ができないから、理論を血肉にすれば、覚える必要ないと思っていました。
それが実はとんでも無く難しいというのを教えてもらい、暗記することの方がいかに簡単かということを聞いたり。そして、一年半の間ずっとそういう学校生活でした。僕は自分の学習方法がまともでないことを知っていました。だけど、それは特殊な子には必要だとまでは思っていませんでした。
先生はいかに僕がとんでもないのかってことを僕にずっと話してくれました。
そして、先生の相談にもずっと答えてました。
先生はいろんな学校のスクールカウンセラーだったから、いろんな子たちの困りごとの解決策をよく相談してくれました。僕にはとても簡単な問題だったから。
長い夏休みの時に時々、先生にお願いされて、学習障害の小学生に書字を教えたり、授業の受け取り方を教えていました。
先生は僕がいかに稀有で、得難い才能を持っているかを話しました。
僕はその時、話半分でいつも聞いていました。自分がそんなものだとは半信半疑以下でした。でも、先生があまりにも真剣で、それを知らせるために、あらゆることをしてくれました。催眠療法や、トラウマ治療、できる限りを尽くしてくれました。しかも無償で、むしろ、食事さえご馳走してくれて。
あなたは自分がいかに得難いか本当の意味でわかってないから、進学したらクオリティの高い人たちがいるはずだから、自分を自分のまま出してコミュニケーションしていい、むしろ人になんて合わせなくていい、高本さんは、高本さんでいることを誇らないとだめ、そうしないと、みんなも損をするんだから。そう話しました。
そして、奇跡的にも3年で卒業し、進学します。
僕は進学した先で自己紹介の時、「僕には発達障害があります、アスペルガーってやつです。心理学で学んだと思いますが、そういう人間なので、気をつけてください。大丈夫です、診断書ありますから。」と話しました。僕が僕を維持するために、必要な儀式です。
そこで静まり返る教室に動揺しつつも、僕は僕のままでいるために、これは必要で、これでいい。先生が誇れと言った僕を曲げない。そう決めてたから。
そして、喫煙所で授業の合間にタバコを吸っていると、クラスメイトの一人の女性が話しかけてきました。
「いきなりギョッとしたわよ。自己紹介でアスペって」と。
そこで僕は先生と話していた話をしました。
「だって、僕はできないことがとっても多いから、最初から助けてもらわないと、気をつかってもらわないとならないいんですよ。自己紹介で、そう言っておけば、助けてくれそうな人が、誰かわかるでしょ?助けにならない人は話しかけてこないし、わかる人かどうかはそれでわかるでしょ?だって、あなた、その上で話しかけてくれたんだから、助けてくれる人でしょ?タバコ吸いに悪い人はいないんです。」と話した。
その時親友になった、看護師で、医療リンパドレナージセラピストで、あんマ指圧鍼灸師というスペシャルを一撃で引きました。今でもマブダチで、彼女のおかげで医療リンパドレナージュ界隈の人や、開祖ともいうべき大先生とも勝手にマブダチになり、なぜだか、長崎まで開業祝いに小田原から来てくれるという。
そして、この友人のおかげで僕が僕のままでいることができた二年間になりました。
先生が言った僕を誇れということがその後の僕の全てのことを魔法のように変えました。そして、先生が言っていた、高本さんが、高本さんのままでいたらクオリティが高い人たちが必ず見つけてくれるから、と言った言葉は本当にそうなり、僕はさまざまな講師の方々から気にかけてもらい、授業が楽しいだけの二年間。周りの子達が嫉妬するほどに、僕は先生方によくしてもらいました。それは僕が僕を誇っただけです。
そして長崎に戻り、それまでも東京の学会などの際にちょくちょく会いに来てくれたO先生の体をみました。触った瞬間に嫌な予感がしました。病院では何も言われていないけど、という先生に無理やり病院に行ってもらい、検査してもらい。
ステージ1の膵臓癌。いまだあのタイミングで見つけられたことがその後のことを考えると。奇跡のように思いました。
そこからの闘病は大変そうでした。
それでも頑張ってました。それでも、仕事をされてました。苦しんでる子供達がいるから。
僕はO先生のあの献身を真似できない。あれほどの献身をする人を僕は知らない。
そして、4年、転移が見つかり、播種していて、その間もずっと僕の患者で、間に合わなかった。頸部骨転移見つけてたのに、ヤブ医者がごねたせいで、間に合わなかった。膵臓から頚部の骨転移はまずない、ありえないというヤブ医者のせいで間に合わなかった。
後2ヶ月早ければ。それは3ヶ月前から言っている。
でも、もうしょうがなかった。そこからは緩和に移行した。衰弱する先生を見ながらご家族と一緒に最後まで。
O先生は最後の最後まで僕に経験をくれた。僕に勇気もくれた。僕に誇りも持たせてくれた。毎回往診の帰りの際は泣きながら、「できっこないよやらなくちゃ」を歌いなが車を走らせた。
最後の日、息を引き取る瞬間には間に合わなかった。
最後の日、ついたら自宅で亡くなった先生と会った。
僕はその時は泣かなかった。
ただ、「先生、お疲れ様、頑張りました。またね。」と足をさすって、まだほのかに暖かくて、帰りの車で歌いながら泣いた。
O先生は最後の最後に僕に医療者たるを伝えてくれたと思っている。
そして、その時、僕は医療者になったんだと思っている。
そして、僕はO先生に伝えてもらったことをいつも考える。
僕は僕を誇りに想い、僕が僕のままでいることが最良と教えてくれた先生の意思のようなものを継いだと思っている。
僕は医療者だけど、僕の最良はギフテッド2Eとして、そうとは知らずにサバイブしてきた今までを先生のように今の子らに伝えることだと思っている。
僕は僕のような子たちに、僕の与えられたギフトを伝えることが最良だと思っている。先生がそれを僕が僕自身でわかるようにしてくれた。
いろんな情報や、知見、感情。そんなことを命懸けで繋いでくれたんだと思っている。
僕は先生のようには生きられないけど、先生の想いを継いで生きることはできる。
僕はH先生やタマキさんや、O先生、僕を変えた大事な人達は本当はもっといっぱいいるけれど、彼女たちの想いを継ぎ、つなげることはまだできるから。僕が出会ってきた素晴らしい人達の想いは僕の中で生きていて、先生たちも僕の心の中に生きている。
僕はそんな人たちに、「楽しいよ、うん頑張ろう」とお疲れ様の最後をいうまで、感謝というよりも信仰に近いありがとうを想う。
ありがとう。まだ楽しんで、頑張ります。
「ありがとう。」
振り返るともっといろんな人にいろんな影響を受けているけれど、それを書き始めると、とてもいっぱいになる。こういう自分に何かが起こったことを振り返ると言うのは頭や心の中でいつもしているけれど、言語化まではしていない。言語化して初めてわかってくることもある気がした。
