1-2 「化け物」
走って、走って、ただ家に帰ろうとしただけだった。
登校のときは、春の空気に誘われて、少し寄り道をした。
でも今は、とにかく早く帰りたくて、最短の道を選んだ。
そのせいで、あの家の前を通ることになった。
祖父の家は、帰り道の途中にある。嫌でも目に入る場所だった。
何も見ないようにして、早足で通りすぎようとした。
けれど──
「おい。……そこで何してる。」
玄関先から、低い声が飛んできた。
反射的に足が止まり、顔を向ける。
祖父がいた。まっすぐに、こちらを見ていた。
その視線に触れた瞬間、背中がざらりと粟立った。
(……まずい)
なにかが、頭の奥から這い上がってくる。
でも、もう間に合わなかった。
世界が、反転する。
目の前の人影が、“化け物”にしか見えなくなった。
周囲の大人たちが、いつの間にかこちらを見ていた。
まるで全員が、最初から僕を監視していたかのように。
彼らの目は曇りなく、まっすぐで、容赦がなかった。
なにかを話している。確かに声は届いているのに、言葉の輪郭は掴めない。
それでも、そこに込められた感情だけがはっきりと伝わってくる。
意味を持たないざわめきが、胸に染み込んでくる。
息が詰まる。視界の中心がじんと熱を帯びて、世界がにじみ出すようだった。
気づけば、足元の小石を拾い上げていた。
自分の手が、自分のものではないように感じた。
(やり返せ)
石を握る。腕が、勝手に振り抜かれる。
石が空を飛ぶ。
乾いた音がして、やがて地面を転がった。
化け物は額を押さえて、顔をしかめた。
しばらく誰も動かなかった。空気が止まったようだった。
やがて、化け物が顔を上げる。目が合った。
その視線に、全身が凍りついた。
長い沈黙のあと──
化け物の手が、こちらに伸びてくるように見えた。
その瞬間、肺の奥で何かが爆ぜる。
視界がぐにゃりと歪み、音が遠ざかっていく。
倒れる自分の身体を、遠くから見ているようだった。
……気がつくと、車の中にいた。
どうやってここに来たのか分からない。
体が重い。頭の中が白くぼやけている。
隣に誰かがいる気配がした。
けれど、顔も声も分からなかった。
「今は、何も言わなくていいから」
その声だけが、記憶のどこかに静かに貼りついた。
車は、静かに走り出した。
