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黒い胆汁 #4 ひーちゃん

2025年 9月25日(木)

 俺は裸足で全力疾走している。逃げている。何から? ピエロから。ドンキに売ってるようなパーティグッズのピエロ衣装を着たおばはんから。俺は裸足で逃げている。すぐ後ろからピエロの息遣いが聞こえる。ろくでなし!叫び声とともに俺の後頭部に小さな何かが当たった。落ちる寸前に掴んでみたそれはピーナッツだ。こんどは笛だ、笛が鳴っている。俺はもうすぐピエロに掴まって食い殺されるのだ。笛が……。

 ガバッと上体を起こす。
 息が荒い。
 全身に汗をかいている。
 よかった……。
 いま感じていた地獄が夢であったことを悟った。
 スマホを確認すると、午前2:41。
 画面下にLINEのメッセージがあることに気づいた。
 これの着信音だったのか、ピエロの笛と思ったのは。

カンナ:ひーちゃんと連絡とれました。今日11時、立川のビックカメラ内サイゼリヤ。

 必要にして最低限の内容がカンナらしい。
 とりあえず今月いっぱいは、出社せずクロタン再結成および契約更新のための仕事に専念していいとのお達しが出ている。
 二度寝している余裕があることを確認し、ひとまずカンナに返信をした。

どばし:遅い時間にありがとう。アドバイスがあったら教えてくれないかな。

 送信して大きなあくびをしている最中に返信がきた。

カンナ:ひーちゃんは超がつくドルオタだから、美城のアイドルの話したらヨダレ垂らして喜ぶよ。

どばし:そっか、参考になるわ。ありがと。

カンナ:どういたしまして。ねえ土橋さん。

どばし:なんだ?

カンナ:なんでもない。おやすみ。

 何だ、この会話。俺は独身とはいえ50過ぎたおっさんだからさすがに変な誤解はしないけれど、昨夜のライブでカンナが気になることをMC中に言ってたことを思い出した。
「いなくなってしまったボクの相棒」とか何とか。
 特典会やマックの会話のときに聞くチャンスはあったけれど、あの時にはそんな余裕がなかった。
『プロミスザスター』を歌っていたときのカンナの表情、目線の先にあるもの、そこに相棒がいるのだろうか。
 カンナはどんな過去を背負って生きているのだろうか。

どばし:いい夢見ろよ、おやすみ。

 バスルームの洗面台で顔を洗った。
 水が冷たく感じる。
 秋が来たのだ。
 しばらく眠れそうにないので、美城から受け取った書類に改めて目を通してみる。
 今日会うことになるひーちゃんは、芸名を犬神ひなというらしい。
 出身:岡山県、と書いてあるのだが、明日のミーティングが立川であることを考えると、今の住まいはその近辺ということなのだろう。
 クロタンのフライヤーを眺める。
 そこには全員が横並びになった写真が使われていた。
 ひーちゃんは左端、メンバーの中でいちばん背が低い。
 童顔で丸顔、5人の中で最も話しやすい雰囲気を感じる子だ。

 眠れないと思っていたのに、意外にすぐ睡魔が訪れた。
 ベッドに移動し、横になったとたん意識が遠のいた。

 次に目覚めたのは朝の8時すぎだった。
 ビリーバンバンのお兄さん、菅原孝さんの訃報が流れてきた。
 美城グループとは浅からぬつながりがある弟の進さんがコメントを出していた。進さんは弊社アイドル、小早川紗枝の「薄紅」をカバーしてくれているのだ。

 しみじみとした気持ちになりながらも、ひーちゃんとのミーティングに遅れてはいけないと思い、身支度をはじめた。

 渋谷駅まで歩いて、渋谷から新宿までは埼京線、新宿から立川は中央線だ。9:55渋谷発、立川着10:41。
 改札を出て自由通路を北口に出ると、右前方に目指すビックカメラが見えた。
 エレベータで8階にあがる。扉が開くと正面にサイゼリヤがあった。
 一人だけど、あとからもう一人来ると伝え、店員に案内されて進んでいくと、左の方から声が聞こえた。
「あのー、土橋さんですか?」
 振り向くと、クロタンのフライヤーで見た顔だった。
「あ、ひーちゃん?」
「そうです!」
「あ、店員さん、俺あの子と待ち合わせなんで」と案内を断り、ひーちゃんのテーブルに合流する。
 カバンを置き、椅子に座りながら「よく分かったね」と聞くと、「カンナから聞いてますから」とひーちゃんは笑った。
「ふーん。ちなみにどんな人って聞いた?」
「え、もじゃもじゃ頭の眠たそうな業界人ぽいひと」
「なっ……まあ当たってなくもないか」
 テーブルには水の入ったグラスが2つ。気を利かせてひーちゃんが俺の分も用意してくれたようだ。
「あ、今日は俺のおごりね」
「やっぱり『交際費』で落ちるんですか?」
「いや、今回の件に関してはちょっと厳しいのよ。でも、今日は遠慮せずどんどん頼んでいいよ」
「ヤッター!」無邪気にひーちゃんは笑う。
「とりあえず注文しようか」
「はい! じゃわたしに任せてもらっていいですか?」
 言うなりスマホを操作しはじめた。
 素早い手さばきで次々と注文していくひーちゃんを、俺は頼もしく思いながら見ていた。
「注文終わり! さっそくドリンクバー行きましょ」
 俺が席を立つ前にそそくさと飲み物を取りにいくひーちゃんを追いかける形になった俺は、ドリンクバーの前で立ち止まった。
 こういうとき、何を飲んだらいいか無駄に時間をかけてしまう悪い癖がある。
「悩んでるんですか? そんなときはわたしに任せてください! 作って持っていくから、土橋さんは席に戻って!」
 言われるがままに席に戻る。しばらく経って戻ってきたひーちゃんは、俺に薄く茶色がかった炭酸風のグラスを寄こした。
「え、キミは何を飲むの?」
「わたしはブラックコーヒー派です」
「で、コレは?」
「とりあえず飲んでみてくださいよ」
 刺さっていたストローでひと口飲んでみた。
「ぶほっ」
 何だこれは、51年の人生で初めて経験した味だ。
「なにこれ」
「ひーちゃん特製『たそがれメロンソーダ』です!」
「何が入ってんのよ」
「えっと、アイスティと、メロンソーダかな」
 正体がわかって安心したせいか、それほど悪くない味に思えて、さらに一口飲んでみた。

「で、今日の話なんですけど、プロデューサーが無事だったとか」
「えっと、どこまでカンナから聞いてるかわからないけど、いちおう説明しておくね」
 俺は昨日カンナに話したとおりに今回のミッションの条件を伝えた。
「期限までに全員の再結成と契約更新の同意があればいいんですね」
「そういうこと。で、ひーちゃんとしては、どうなの?」
「っていうか、プロデューサーは何があったんですか?」
「それはさっきも言ったけど、俺も知らされてないのよ。その茂木さん、だっけ? 俺も面識ないし」
「そういえば土橋さん、美城のプロデューサーなんですよね!」
 こころなしか、ひーちゃんの瞳が輝きだしたような気がした。
「あ、ああ。一応ね」
 言いながら名刺を取り出し、ひーちゃんのコーヒーカップの前に置く。
「うわ!うわ!美城プロダクションだー!すげー」
 言いながら名刺を裏・表・裏・表とひっくり返しながら舐めるように見つめている。
「この名刺、悪用してもいいですか?」
「ダメに決まってんだろ! ちなみにどんな悪用しようとしてる?」
「渋谷とかでスカウトに声かけられたときこの名刺見せながら『ごめんなさーい先約済みなんですぅ。ちょっと遅かったですね☆』って言ってやりたい」
「なおさらダメだ。返しなさい!」
「やだ! でも、いいなぁ土橋さん。仕事でアイドルとお話できるんでしょ?」
「ひーちゃんだってアイドルやってんだから他のアイドルとも繋がれるだろうよ」
「ま、そうなんですけどね。でもやっぱり美城さんのアイドルは粒ぞろいで……ヨダレが止まらない……」
 やっと理解できた。
 ひと口に「ドルオタアイドル」といっても、これが真正のマジモンのやつなのだ。
「そっか、ひーちゃんドルオタなんだっけ」
「そうです!」
 テーブルをバン!とたたき、まわりの客を驚かせておいて更につづけた。
「わたし岡山にいた頃に地元のアイドルグループにハマって、それで自分もアイドル始めたんですよね。そっからずっと生粋のドルオタです!」
 鼻息荒くまくし立てるひーちゃんをクールダウンさせようと口を挟んだ。
「えっと、ドルオタになったきっかけのグループって、どんなの?」
「土橋さんきっと知らないだろうけど、『ChamJam』って7人組のグループなんですよね。今は一人抜けちゃったけど、東京に来ても動向はちゃんと今でもチェックしてます!」
 火に油を注いでしまったが、ここまで来たら乗りかかった船だ。
「推しメンいたの?」
「もちろん!緑担当の横田文推しです!あーやはね、自虐ネタとボケが目立つんですけど、人知れず練習してすごく向上心もあって、それでいて特典会ではめっちゃ優しくてほんと大好き!」
「今のひーちゃんは、そのあーやから影響受けてるところあったりするわけ?」
「たぶん知らないところでかなり影響受けてますよね」
 しかし、これ以上知らないアイドルの話題で盛り上がれるほど俺の社会人スキルは高くない。
 申し訳ないけれど、本題に戻らせてもらおう。
「なるほどね。それでだ。ひーちゃんは今回の話、どう? またやってみるつもり、ある?」
「それなんですけどね、今回の活動休止をうけて、わたし考えちゃったんです」
「何を?」
「わたし、今のクロタンで3回目のアイドル人生なんですよね」
「え、そうなの?」
「生まれ故郷の岡山で最初のアイドル、引っ越し先の名古屋で2回目、そしてまた引っ越し先の東京で3回目。どれも中途半端に終わっちゃってるんですよ。ま、今回は終わったわけじゃなさそうだけど」
「そうなのか」
 知らなかった。
 明るく無邪気に見えるひーちゃんにも鬱屈や忸怩たる想いがあるということか。
「それより土橋さん! 美城の誰を担当してるんですか? 奏? しぶりん? あ、ひょっとして楓さんだったりして?」
「んなわけないだろ、名刺を良く見てみろよ、『プロデューサー補』だぞ。俺はアイドルの尻ぬぐい専門の部署」
「え!え!てことは、所属アイドルの不祥事を巨大企業の力でねじ伏せたり、逆に相手方にハニトラを仕掛けて脅迫したり、そんな裏社会の縮図みたいなお仕事をする部署なんですか⁉」
「おいおい、芸能プロダクションにずいぶんな偏見をお持ちのようだけど、そんな黒いことはやってないから安心していいよ。あ、そうだ。今回の件に同意してくれたら、裏話を教えてあげてもいいかな」
「やります! はい決まり!」
 ひーちゃんはその場で立ち上がり、右手を高々と掲げた。

 ということで、ひーちゃんこと犬神ひなの同意を得ることができたのであった。

 ホッとひと安心しながらひーちゃんの右手を見上げていると、俺のスマホに着信音が鳴った。
 確認するとカンナからだ。

カンナ:ひーちゃんの説得、簡単だったでしょ。次はハイハイ、明日9/26 13:00 上野の国立西洋美術館 地獄の門の前で待ち合わせ。

 よりによって地獄の門……厭な予感が背中を駆け上がった。

 再結成期限まで、残り4日。
 軍資金、残り¥23,090

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