黒い胆汁 #5 ハイハイ
2025年9月26日(金)
昨日のミッションは拍子抜けするほどあっけなく終わった。
「やります!」とひーちゃんが宣言した直後に大量の料理がテーブルに届き、食べては飲み、飲んでは話し、話しては食べた。
サイゼリヤの会計で¥3,000を超えていたことに驚いた。
二人で飲み食いしたとはいえ、酒を飲んだわけでもない。
ひーちゃんの食欲に刺激されて、俺も普段以上の大食いをしたことも関係しているけれど。
大食いをしたあとは無性に体を動かしたくなる。
陽の高いうちに寮へ戻るなんてことは経験がなかった俺は、無性に嬉しくなってしまったのだ。
帰ってスポーティな服装に着替え(といっても短パンとTシャツになっただけだが)、自転車にまたがって昼間の渋谷をゆっくりと漕いでいった。
渋谷は文字通り「谷」になっており、街なかのアップダウンが激しい。
特に駅付近がいちばんの低地になっているから、下手にルートを間違えると上り坂が苦しいということになりかねない。
なるべく坂道に遭遇しないで済むようなルート取りをして、近所の風景を眺ながらペダルを踏む。
馴染みのある不動産屋の前を通りかかった。
ここでは以前、物件を紹介してもらったことがある。
破格の家賃の部屋があったのだ。
いまの社員寮の寮費よりも安かったから、引っ越ししようと真剣に思った。
間取りは1DK。
図面で見ると窓は南向きだし、職場までの距離も遠くない。同レベルの部屋と比べて、その部屋は格段に安かった。しかも敷金礼金がそれぞれ0.5か月。1年住めば元が取れる計算だったのだ。
ここに越せば生活費に心ばかりの余裕ができる!
なにより社員寮で年下の上司と顔を合わせて皮肉を言われることもなくなるのだ!!
そんな淡い夢を見てこの店のドアをくぐった。
例の物件の話をすると、店員はサッと表情を曇らせた。
案の定、開口一番に「こちらの物件は、いわゆる『心理的瑕疵物件』なんですよ。それでもよければ……」と説明してきた。
「いいのいいの、わたし鈍感なタチなんで大丈夫大丈夫」
薄ら寒さを感じながらも店員と一緒にその物件に足を運んだ。
外観は普通のアパートだ。書類によれば築12年。それほど古い物件ではない。
該当の部屋は2階の突き当りだった。
階段をあがっていく途中から自分の異変を感じてはいたが、あえて知らんぷりをして進んでいった。
しかし、部屋に近づくにつれ耳鳴りが増幅していく。
ほとんど気が遠くなりかけたとき、店員が鍵をまわしドアを開けた。
その瞬間、心臓を掴まれたような動悸が俺を襲った。
鼓動が耳元でドラムの乱打のようにうるさい。
あ、これは本当にヤバいやつかも……
必死に店員のワイシャツの袖を引っ張り「ごめん、やっぱ無理」と泣き言を漏らしてしまった。
そんな記憶が蘇った。
あの部屋には今、誰か住んでいるのだろうか。
気になってあの部屋の外観を見てみた。
ドアポストが養生テープでふさがれている。
ということは、今もまだ空室なのだ。
あの部屋で過去、何があったのだろう。
昨日に続いて今日も「秋晴れ!」といった風情の、とても気持ちのよい日和だった。
調子に乗ってもう少しサイクリングを楽しむことも考えたが、冷静になってみれば説得が必要な4人のうち、完了したのはまだ1人だ。体力は温存しておくに越したことはない。早めに切り上げることにした。
帰宅して夕方までだらだら過ごし、日報がてらの電話連絡を千川ちひろ宛てに入れた。
「5人のうち、カンナとひーちゃんは了承済みです。明日はハイハイと面談の予定ですね」
「お疲れさまです土橋さん。最後までがんばってくださいね!」
いつもながら、暖かく包容力のある声だ。
だが、この声に騙され苦汁を飲まされた同僚を、俺は何人も知っている。
頑張る、か。
誰のために俺は頑張るのだろう。
クロタンのメンバーか。
顔も知らない先輩プロデューサーの茂木さんか。
いまのところ、よくわからない。
そんな時は自分のために頑張る。
まあ、そういうことにしよう。
夜が来て、朝になった。
昨日までの数日と違って、今日は暑さがぶり返すとの予報だった。
集合は13時に国立西洋美術館の「地獄の門」の前だ。
何か象徴的な意味があるのだろうか。
JRの上野駅が集合場所にいちばん近い。
俺は渋谷から山手線で上野に向かった。
公園口改札から見える景色はなかなかのものだ。
正面には上野動物園の入り口が見える。そこに至る通路は広場と言ってもいいレベルの広さだ。改札を出て動物園に向かっていくと、すぐに国立西洋美術館が右手に見える。
黒い格子状の柵に囲まれて美術館の前庭がある。
敷地の中で駅にいちばん近い南東部分に「地獄の門」が鎮座している。
昔から知っていた「考える人」は巨大なブロンズ像の上部中央に付いているのだ。全体からすると、かなり小さい。
白のブラウス、黒の膝下までのスカート、頭には黒いフェルト地のベレー帽をかぶった少女が、その巨大な作品を前に立ちすくんでいた。
なぜか声をかけることもためらわれ、俺はしばらくその姿を後ろから眺めていた。
いま彼女が感じているのは何だろう。
絶望か、悲嘆か、はたまた希望だろうか。
そんなことを夢想していると、不意に彼女が振り向いた。
モノトーン衣装の彼女と、背後のブロンズ像が一幅の絵に見えた。
「あ! 土橋さんですか?」
驚いた彼女は大きく目を見開き、開いた口を隠すためか右手で口を覆った。
「あ、ども。ハイハイさん?」
「そうです。はじめまして」言いながら彼女はペコリとおじぎをした。
「そんなにかしこまらなくてもいいよ、歩きながら話そうか」
「はい!」
美術館から離れ、上野公園をゆっくりと南に向かう。
平日の昼間だが、人が多い。半分以上が外国人だ。時代は変わった。
「カンナから話は聞いてると思うけど」
「ええ、とりあえずプロデューサーは無事だって聞いてホッとしてます」
ここまでの印象は、事前のそれとだいぶかけ離れている。
変顔をするハイテンション娘だと聞いていた。
予習のため観たライブ映像でも、ハイハイはきびきびとしたダンス、合間に見せる変顔、MCでの突き抜けた狂騒、大きな笑い声が印象的だった。
それがどうだ。目の前にいるのはまるで別人ではないか。
「あのさ、ライブ映像を見てきたんだけど、だいぶ違うんだね、アイドルと私生活では」
ジンジンは寂しそうに笑った。
「そりゃそうですよ。素のままアイドルやってる子もいっぱいいますけど、私は演じてる部分が大きいかな」
「ふーん、そんなもんかな」
「ねえ土橋さん、プロデューサーの容態についてはどの程度知ってるんですか?」
ん? 俺は茂木氏が入院してるなんてひと言も口にしてないよな? っていうかそんな情報は俺も知らないし。
「容態って……、ハイハイは何か知ってるの?」
「え? いや、なんとなく……入院してるのかな、って」
この話題は深堀りしない方がいい。俺の予感がそう告げていた。本題に入ろう。
「ハイハイは、再結成と契約更新についてはどう思ってる?」
「このまま何となくフェイドアウトしていくのは、イヤだなって思ってました」
「じゃあ」
「土橋さん、聞いてくれますか?」
「いいよ、何でも話しな」
「あのね、わたし出身が宮城なんですよ。ちっちゃい頃に震災を経験してるんです」
「そっか。いくつのとき?」
「まだ小学校に入る前。5歳か6歳。実家はそれほど海に近くはなかったんですけど、それでも知り合いや親戚に亡くなった人がいるんです。あ! こんな話ちょっとヘビーですよね」
「いや、聞かせて」
「すいません。でね、震災をきっかけに私の家族は東京に引っ越すことになったんです」
ハイハイは表情から感情らしきものを消している。
どこか遠くを見るような眼差しで前方を見ていた。
「アイドルになりたいって思ったきっかけは何なの?」
気づまりになった訳ではなかったけれど、少し方向を修正してみた。
「ありきたりかもしれないけど、プリキュアですね」
アニメに疎い俺が魔法少女ものの話題についていけるわけもない。聞き役に徹しようと思い、続きを促した。
「生存者のジレンマ、っていうんですかね。何もしないでいることが、とても悪いことのように思えてしまって。せっかくなら誰かを笑顔にできる仕事がしたいな、って思って。最終的にたどり着いた結論が、アイドルでした」
なるほど、陽気なキャラは他者を笑顔にするための仮面ということか。
「まだこれから、って時にプロデューサーがいなくなっちゃったから、途方に暮れてたんですけど、今回活動再開の話が出てきたんで、なんか嬉しくなっちゃって」
ひと息に話し切ったハイハイは、さっきより少し表情が和らいだように見える。
陽射しが肌を焼いていく。
9月下旬にこんな感覚をおぼえるのも珍しい。
「ねえ土橋さん。初対面の方にこんなこと聞くの失礼かもしれないけど、土橋さんにはどんな夢があるんですか?」
振り向いたハイハイは、思いつめたような表情で俺の目を射抜いてきた。
「お、俺は……」
ここでお茶を濁したらこの子に失礼だ。
正直に言うことにした。
「俺はさ、人生の大半を根無し草で過ごしてきたんだよね。誰にも自慢できる人生じゃない。だけど今の事務所に入って、アイドルと関わるようになってさ、少しずつだけど自分が変わってきてるのを感じてる。正直言って夢なんて見たことなかった。何かになりたいって思ったこともない。それでも何とか生きてる。ぜんぜん答えになってないよな、申し訳ない」
ハイハイは口元に笑みを浮かべ、目元はなぜか泣きそうに歪んでいた。
「ありがとう……ございます」
「なんでよ! こんな話にお礼を言われるようなパートなかったでしょ」
「いえ、なんか少し肩の力が抜けたような気がします。ずっと使命感みたいなものだけでアイドル活動やってきてたんですよね」
「誰かのため、って動機も必要だけどさ、やっぱりいちばん強いのは自分のため、って場合もあると思うよ」
「スッキリしました。やります! 再結成したいし、そのあとも続けたいから契約更新もします。プロデューサーにも会いたいし」
ホッとしたのもつかの間、カンナからのLINEが飛び込んできた。
カンナ:次のアポ取れたよ。ジンジンとは軽井沢ショッピングプラザ入り口付近のロクシタンカフェで待ち合わせ、明日9/27 11時。遠いけどがんばってね。
か、軽井沢⁈
そういえばジンジンの出身は長野県って書いてあったけど……。
あ!
フライヤーのメンバー紹介に「高速バスのプリンセス」と書いてあったことを思い出した。
ジンジンは通いで長野から東京に来てたのか。
「ねえハイハイ、俺さ明日ジンジンに会いに行くことになった」
「え、長野行くの?」
「ジンジンってさ、いつも通いだったの?」
「そうだよ。金曜の夜中に向こうを出て、日曜の夜にこっちを出る。ほんとタフですよね」
「ねえ、ちょっと相談なんだけど、あっちのさ」動物園入り口近くを指さして言った。「スタバで作戦会議したいんだけど、付き合ってくれない?」
「もちろんいいですよ」今日いちばんの笑顔でハイハイは答えた。
見える距離にあったスターバックスに移動し、席を確保する。
外と同様、海外からの客が多い。
「なんでも好きなもの頼んでちょうだい」
「土橋さんは何にするんですか?」
「今日は暑いから、なんとかチーノじゃなくて、さっぱり系がいいな。ハイハイにお任せするから一緒に頼んでくれない?」
「ふふ、じゃ好きなもの頼んじゃいますよ?」
「ああ、頼む」
注文の難しい店は苦手だ。だから俺は二郎系のラーメン屋にもめったに行かない。
前で異国の言葉を話すハイハイにほとんど感動して見とれているうちに注文が終わったようだ。
ハイハイがエスプレッソ アフォガート フラペチーノ、俺が加賀棒ほうじ茶と白桃のムース ティー。飲み物2杯で¥1,630もした。アメイジング。
席に移動し、現況を説明する。
あと2日でジンジンとココロを説得しなくてはいけない。
俺はクロタンのフライヤーを読み込んでいなかったことを後悔した。
「最後のココロって今どこにいるか知ってる?」
「たぶん栃木の実家じゃないですかね」
最悪の答えではなかったことに安心したものの、予断は禁物だ。栃木といえどかなり広い。
さて、当面の課題は明日の長野行きだ。
「ぶっちゃけるけどさ、今回のミッションは軍資金があるんだ。あと残り……」さっきの会計と今日の交通費、明後日の栃木遠征費、ジンジン・ココロとの飲食代、それらを差し引いて使えそうなのはたぶん1万円に満たないだろう。
「ちょっと調べてみますね」
ハイハイは鼻の下に泡を付けながらなんとかチーノを飲んでいた。
「東京・軽井沢間、新幹線での往復で¥12,040ですね」
「これは却下か」
「それより土橋さん、明日の何時集合なんですか?」
「えっとね、軽井沢の駅前に11時」
「ジンジンみたいに高速バスってのはどうでしょう」
「それもいいかもしれないな。ジンジンの気持ちも少しはわかるかもしれないし」
「おお、高速バスなら便にもよりますけど、往復で¥5,000から¥8,000くらいの間ですね」
「はい決まり!」
ということで、明日の弾丸長野ツアーの旅程が決まった。
出発地は新宿ではなくなぜか立川なのだが、ちょうどいい時間の便がそれしかなかったのだ。
そして、明日のジンジンとの出会いが、数か月後に別の事件を引き起こすことにのだが……。
それはまた、別の話。
再結成期限まで、残り3日。
軍資金、残り¥21,040
