黒い胆汁 #9 茂木澄人(後編)
2025年9月30日(火)
名称:都立虎ノ門総合病院(Toranomon Metropolitan General Hospital)
所在地:東京都港区虎ノ門二丁目
開設者:東京都
病床数:300床(一般病床270、緩和ケア20、感染症10)
標榜科:内科/外科/整形外科/脳神経外科/心臓血管外科/小児科/産婦人科/精神科/耳鼻咽喉科/眼科/皮膚科/泌尿器科/リハビリテーション科/救急科
特殊部門:がん診療センター、移植医療センター、臨床研究部門
開設年:1968年(昭和43年)、東京都による都立病院再編で開設。
沿革
1968年:港区虎ノ門の官庁街・ビジネス街の医療需要に応えるため「都立虎ノ門総合病院」開設。
1975年:救急告示病院に指定。交通事故・急病患者を中心に受け入れ強化。
1988年:臨床研究部門を設立、肝疾患・造血器疾患の研究で知られる。
2002年:がん診療センターを新設、地域の拠点病院となる。
2015年:老朽化に伴い新棟を建設、全病室を個室化。
2023年:都立病院再編により「都立医療センター」群に組み込まれる。
建物にパソコンの放熱フィンを付けたような外観。
一見したところ病院とは思えない、巨大な建築物だ。
オフィス街というか公官庁というか、とにかく「ビジネス」の香りがプンプン漂ってくる虎の門という街は、俺みたいな社会のつま弾き者にとって、少し居心地が悪い。
薄雲がちらほらと見えるけれど、ほぼ晴れといっていい天気だ。
俺の気持ちとは裏腹に、おそろしいほど気持ちがいい気候だった。
考えてみたらこのミッションが始まった先週から一度も雨が降っていない。俺は晴れ男なんだろうか、そんな疑問が湧くほどだ。
昨日と同様、東京メトロを使って渋谷から虎ノ門に来た。
昨日と同様の道を通って、昨日みんなで集まったスターバックスの前で立ち止まる。
謎を解いたつもりが、より大きな謎が顔を出してしまった。
昨夜は寝つきが悪かった。
仕事部屋に内線がきた8日前を思い返す。
これまでの4年間、いろんな業務をこなしてきた。
アイドル絡みの火消し案件から、単なる人数合わせのライブ補助業務。
その他ほとんどの時間は、誰がやっても変わらないような事務仕事だった。
だから、今回の依頼はとびぬけて異様だ。
人探し、説得、グループ再結成、契約更新。
しかも自分の事務所ではない子たちを相手にだ。
ここに来る途中で、美城の仕事部屋に寄ってみた。
まるまる一週間不在にしていたが、主がいてもいなくても大して変わりはない。俺ひとりの部署だし、荷物が多いわけでもない。
窓でもあれば開けて空気の入れ替えでもするのだが、地下の物置みたいな部屋だ。やらないよりはマシだろうと、入り口のドアを開け放ってデスクに戻り椅子にすわった。
両手を頭の後ろに組んで背中をのばす。
頭の中をいろんな思いが去来する。
初対面のアイドルたちと話をして、悩みを聞いて、あちこち歩きまわって、泣いたり笑ったりした。
たった1週間だったが、彼女たちとの思い出がとてもかけがえのないものに感じられはじめたところだった。
その関係も、今日で終わる。
柄にもなく感傷的になってうっすら涙が滲みそうになったとき、廊下から声が聞こえた。
「やっほー!」
懐かしき双葉杏の声だ。
足で床を蹴り、回転椅子を180度まわしたところで視界に入った杏は、目の覚めるような派手な色の衣装を着ていた。
黒を基調にオレンジの差し色の入った衣装には、お化けやかぼちゃ、杖やガイコツなどのモチーフが随所に散りばめられている。
「そっか、来月は……」
「じゃーん、ハロウィンだよ! ねえ、どうこの衣装?」
杏はその場で回ってみせた。
「いいんじゃない、てか何でその格好でここにいるの」
「え、撮影の合間だよ。本館のスタジオでやってるんだけど、昼休憩になってスタッフさん外にご飯食べに行っちゃった。ウチの偉いさんも一緒だから長くなるね。再開は15時って言ってたから杏もヒマになっちゃってさ」
売れっ子も大変だ。やりたくない仕事だって多かろう。
しかし、俺が子供の頃はハロウィンなんてものは存在しなかった。
「俺さ、ハロウィンについて何も知らないんだけど、何なの? お祭り?」
「ほんとドМさんってなんとなく生きてるんだね。しょうがないなぁ、杏が教えてあげよう」
ハロウィンについてのレクチャーが始まった。
ケルトの祭りが起源であること、死者と生者が交わる境界の日であること、かぼちゃの「ジャック・オー・ランタン」は死者の魂を導く火であること。
それを聞いて黒い胆汁のことを連想した。
茂木さんはクロタンに何を仮託したのだろう。
臓器をメンバーに割り当てることに、何の意味がある?
ふいに思いついて聞いてみた。
「なあ、前ここにいた茂木さんってプロデューサー、杏は知ってる?」
「ああ茂木さんね、知ってるよ」
「どんな人?」
「結構有能な人だったよね。美城常務の右腕として活躍してた。プロジェクトクローネは茂木さんの最高傑作だったよね」
マジか。美城のアイドルを選抜した伝説の10人組のユニットだ。
「そっか、ドМさんの今回のトラブルシュートはその案件だったか」
「そう。これから病院に行ってくる」
「よろしく言っといてね、その節はお世話になりました、新しい衣装めっちゃ素敵ですねって伝えといて」
「待て、どういうことだ?」
「え?」
「茂木さんがいまどんな状態なのか知ってるのか? 衣装ってなんだ? 俺は病院に集合って聞いただけなんだぞ」
「し、知らないよ、この件に関しては緘口令が敷かれてるから杏は何も知らないし、何も言ってないからね。ドМさん疲れすぎて幻聴が聞こえたんじゃない? あ、そういえばきらりとランチ一緒に食べる約束してたんだ、こんな所で無駄話してる場合じゃなかった。じゃあね!」
杏は逃げるように部屋を出ていった。
一人残された俺は呆然とするしかなかった。
そして今。
虎ノ門のスタバ前で、俺は立ち尽くしていた。
先ほど話した杏の口から出た謎めいたワード。
新しい衣装。
そしてハロウィンの話から浮かび上がった死者と生者のモチーフ。
このあと訪問する病院で、いったい何が起きるのだろうか。
* * *
巨大なエントランスを入ったときには感じなかったけれど、エレベータで2階に降り立ったとたん、病院特有のツンとしたにおいが俺の鼻を刺激した。
壁に掲示してあるフロアマップを見てデイルームに進む。
そこは南側に面して大きく窓をとった、広々とした空間だった。テーブルと椅子が余裕を持って配置されている。
一番奥の6人掛けテーブルにクロタンのメンバーは既に座っていた。
今日もカンナとココロが隣り合わせに座っていることに、なんとなくいじましさを感じてしまう。
「おはようございます」全員が次々と起立し、俺に挨拶をしてくる。
「やめてくれよ、俺はきみたちのプロデューサーじゃないんだから」
「それもそっかー、挨拶して損した」
「お前な……」
ひーちゃんとカンナを見る。二人ともニヤニヤしている。ふざけているのだ。
他のメンバーはこのやりとりを笑顔で見つめていた。
俺はこの子たちがステージに立っている姿をまだ見ていない。
だが、活動休止前よりもきっと今の方がまとまりがあるんじゃないか、そんなことを夢想した。
現在時刻は14:55。
あと5分で約束の時間だ。
窓の外は青空だ。
ビルに切り取られてはいるが、上空は大きく開けている。
秋の空は、この時間になるとすでに夕方の予感を帯び始めていた。
メンバーの雑談に耳を傾けるでもなくぼんやりしていると、気になる言葉が俺を覚醒させた。
「……たぶんね。だってこのフロア、回復期病棟だよ。ここから移動するのが別のフロアじゃなければ、プロデューサーはきっと大丈夫だよ」
ココロがこの場の主導権を握っている。
「でもちょっと遅くない? もう10分過ぎたよ」
心配そうなカンナを安心させるようにココロは言った。
「ドクターは忙しいんだよ。午前中の診察がこの時間にずれ込むことだってあるし」
「ココロ、やけに詳しいんだね」ハイハイが頬杖をつきながら言った。
「まあ、ちょっとね、おじいちゃんが入院してた時、結構病院通いしたからさ」
「ふーん」
静けさがデイルームを覆った。
廊下から聞こえてくるのは、看護師が何か言いながら廊下を往来する音、面会に来た家族の発する声、掃除のパートさんたちの控え目な話し声。
そのうちに俺たちにお呼びがかかった。
「面会の土橋さま、いらっしゃいますか?」
デイルームの入り口で40代くらいの女性看護師が呼びかけた。
手を上げると看護師がやってきた。
「えー、土橋さまとそのお連れさまですね。ご案内します」
看護師のあとについて、デイルームを出る。
フロアの中心にあるナースステーションの2つ隣の個室が目的地だった。
ドアの横にある入室者表示には「血液内科患者 様」とあった。
看護師がドアをノックする。
返事も待たずにドアを開け、我々を室内に案内した。
「先生は間もなくいらっしゃいますから、それまでお待ちください」
そそくさと出ていった看護師を見送り、あらためて室内を見た。
個室だった。
左の壁に頭を付けた状態のベッドに横たわっているのは、まぎれもない茂木澄人。黒い胆汁のプロデューサーだった。
枕もとの名札にも名前が表示されている。
やせ細った顔に、この部屋には不釣り合いなニット帽。
透明な液体の入った点滴チューブが右腕に伸びている。
体のあちこちから出ている細いコードが繋がっている先は、ベッド手前にあるモニターだった。ピッピッと規則的な電子音が聞こえる。
ココロは真っ先にモニターの近くに移動し、画面を凝視していた。
「プロデューサー生きてたね」「こら」「顔色は悪くないよ」「お話しできるのかな」小声でメンバーが会話している。
小さく鋭いノックが2回。
ドアが開かれて白衣の男性が入ってきた。
「主治医の村久保です。患者本人の強い希望で、あなたたちに病状説明をしてほしいとのことですので、手短に」
首に聴診器をかけ、ノートパソコンを右手に抱えている。
「えと、土橋さんは……」
「はい」軽く手を上げ、俺は村久保に近づいた。
村久保は近くにあった移動式の小さく細長い机にノートPCを置き、画面を開いた。
「患者の……茂木さんから、すべて説明してかまわないとの同意をもらっています。身寄りがいないとのことで、あなたたちに知っておいてほしいと」
全員が固唾を飲むのが雰囲気でわかった。
「では説明します。まず初めに、茂木さんが自分の入院をあなたたちに伝えられなかったことの理由。それは入院時の茂木さんの状態でした」
医師は立て続けに説明をした。
ライブの帰りに病態が急変して意識を失ったこと。救急隊員との受け答えで、若い頃に使っていた芸名と、今は住んでいない子供のころの住所を伝えたため、身元確認ができなかったこと。
これを聞いてメンバーは口々に感想を述べた。
「マジかよ」「そんなことだったのか」「そりゃ連絡できないのも無理ないわ」
現在の病名は急性骨髄性白血病であること。
7月に骨髄のドナーが見つかり無事に移植ができたこと。
医師の口から「骨髄」の単語が出たとき、俺は腰のうずきを感じた。
やっぱり病院は苦手だ。
現在は回復期にあること、順調に快復していけば徐々に社会生活に戻れるであろうことも語られた。
ここまで聞いたメンバーは大きなため息をついた。
「予断は許しませんが、大きな山は越えました。これは我々だけの力ではなく、茂木さん本人の生きたいという強い意志があったからこそだと思います。ただ、今回の事態に陥る2年前に、茂木さんはMDSの診断を受けていまして」
ココロが息を呑んだ音が聞こえた。
振り返ると、目を見開いたココロが「マジか」と小さく言っていた。
「あの……MDSって何ですか?」
ひーちゃんが素直な感想を口にする。
「あっと失礼。MDSは骨髄異形成症候群の略で、骨髄がちゃんと血球を作れなくなる病気のことです。病態としては貧血・血小板減少・白血球減少がじわじわ進行するんですが、茂木さんはそのとき何の治療も受けなかったらしい。その結果が今回の急性骨髄性白血病を引き起こしたといってもいいと思います」
「茂木さん、最初に会ったころからけっこう辛そうにしてたもんな」
カンナがしみじみと口にした。
「ただ、先ほども述べたように、今回の連絡遅延は茂木さんの責任ではありません。また、我々も身元確認より救命を優先しましたのでこのような状況になってしまったことはお含みおきください。ここまで一通りのご説明はしましたが、何かお聞きになりたいことは?」
「プロデューサーはいつごろ退院できるんですか?」
ひーちゃんが無邪気に質問した。
医師は軽く頭を掻きながら「そうですね、順調にいけばあと半月から一か月で退院できる可能性はあります。ただ、社会復帰に向けて外来通院でこの病気が管理できると判断できたら、の話ですが」
「そうなんだ、意外と早いんだね」
「ここで少し医師の肩書を外させてもらいますけど」
村久保はぎこちない笑顔を浮かべた。
「茂木さんはアイドルグループのプロデューサーだとお聞きしています。私の知っている限り、この仕事は激務だ。それがこなせるまでの回復となると、少し時間がかかるかもしれませんね」
急にジンジンが真顔で質問した。
「先生のお好きなアイドルグループは?」
不意打ちをくらった村久保だったが、恥ずかしそうに顔を赤らめながら言った。
「えっと……もも……クロ……」
「えー! 先生モノノフなんだ! で? 誰推し?」
ひーちゃんが食いついた。獲物を見つけた獣の目つきだ。
「恥ずかしいなら私から言うね! はい! 私はれにちゃん推しです! 一生推す!」
「ちょっとうるさい!」ココロが注意する。
「えと、私は…夏菜子……」小声で村久保が言った。
「フーッ! かなこぉ↑↑ 先生もわかってらっしゃるぅ!」
「実は……12月20日と21日はもう休み希望入れてまして」
「先生! SSAですね! 私も両日行きたい! スーパーアリーナに住みたい! 住みます今日から引っ越します路上生活者になってもいい!」
「ちょっとアンタたち! 先生もいいかげんにして!」ココロは軽く発狂した。
素に戻った村久保は咳ばらいをしながら話題を戻した。
「取り乱しました。……え、他に質問がなければ、私はこれで失礼します。私が言うのもなんですが、なるべくお静かにお願いしますね」
そそくさと去っていく村久保を、俺は唖然と見送ることしかできなかった。
先ほどまでと打って変わって、急激に沈黙が部屋を支配した。
モニターの発する音は規則的だ。
「……ざけやがって」
カンナが小声で言った。
「勝手なことばっかりしやがって」
見るとカンナは両手のこぶしを強く握り、なにかを堪えているように歯を食いしばっていた。
「どんな思いでボクがこれまで頑張ってきたと思ってんだよ」
誰に言うでもなく、床をにらみつけてカンナは言葉をつづけた。
「一回くらい連絡寄こせよな……毎日どんだけアンタのことを心配してたと思ってんだよ!」
カンナは右の拳で茂木のベッドの柵を殴り始めた。
「アンタに拾ってもらえなかったらボクはたぶん生きていけなかった。だいじな人を失って目の前が真っ暗になって、もうアイドル辞めようって決めた日にアンタに声かけてもらったんだよ」
初耳の情報ばかりだ。
見回すと他のメンバーも驚いた表情をしている。
だが、誰もいまのカンナに声を掛けられない。
ドン、ドン。
ベッド柵を叩く勢いは強くなってくる。
「一日でも早くアンタが見つかるといいと思って、一人でアイドル続けてきたんだよ! 関係者に声かけて、少しでも情報持ってる人がいないかって、聞いてまわってたんだよ! ふざけんなよ!」
カンナは人目も気にせず嗚咽を漏らしはじめた。
「リーダーなんて柄じゃないんだよボクは……いきなり5人組のリーダーになれって言われて、自分のことで精いっぱいなのに、みんなはボクに頼ってくるし、年上もいればボクより芸歴長い子もいるし、そんな中でみんなをまとめるなんて重荷でしょうがなかったんだよ!」
モニターの発する音が早くなってきた。
ついにカンナは座り込んでしまった。
顔をうつむけ、両手でベッド柵を握っている。
「アンタに頼ろうとしたけど、いつでもめっちゃ調子悪そうだったじゃん……自分で何とかするしかなかったんだよ」
両手で握った柵を全身の力を込めて揺すり始めた。
ベッド上の茂木も小刻みに揺れている。
「なんで勝手に倒れてんだよ! もっと自分のこと大切にしろよ! 病気隠して勝手に頑張ってんじゃねえよ! ふざけんなよ!!!」
カンナは子供のように泣きじゃくっていた。
誰も口を開けない。
異常を検知したのだろう、モニターのアラートが鳴った。画面が赤く光っている。
廊下を走ってくる足音。
看護師が入ってきた。
モニターを見て茂木の顔を見る。
俺には理解不能な確認作業をした看護師は俺たちを振り返り「あまり興奮させないでくださいね」と言って去っていった。
通夜の席のような沈黙が落ちた。
カンナの鼻をすする音だけが聞こえている。
いたたまれない。
早くこの部屋を辞去したいと思った瞬間だった。
声が聞こえた。
「ごめんな」
初めて聞く声だった。
声の主はベッドに横たわる茂木澄人だった。
全員が注目していた。
「ごめん」声が掠れてほとんど聞き取れない。
何度か咳ばらいをしたあと、ふたたび話し始めた。
「ごめんな、カンナ」茂木はうつろな目でカンナを見た。
「そして、ごめんな、みんな」他のメンバーをゆっくり見回しながら言った。
カンナは立ち上がった。
いちばん茂木に近い場所で対峙している。
俺からカンナの背中しか見えなかったが、表情は想像できた。
「なんでだよ」
小さな声だが、怒りが滲んでいる。
「なにが」
「なんでボクたちに連絡してこなかった」
「それは……キミたちに顔向けできなくて」
「いいじゃないか、恥ずかしくたって、顔向けできなくたって、アンタが作ったグループだろ、クロタンは」
茂木は無言だった。
カンナの背中越しに茂木の表情が見える。
苦悶に歪んでいた。
絞り出すように茂木は言った。
「どうしたら……許してもらえるかな」
「許す許さないじゃねえんだよ」
「もういいじゃん、カンナ」
口を開いたのはココロだった。
「プロデューサーも遊んでたわけじゃないんだ、必死に戦ってたんだよ」
「だって」
「さっきドクターも言ってたでしょ? 強い意志がなかったらここまで回復してないって」
カンナは再び興奮していた。髪を振り乱している。
「だってさ! 納得できないんだよ!」
「いつまでも我がまま言ってんじゃないの!」
破裂音が病室に響いた。
ココロがカンナの頬を張ったのだ。
カンナは呆けたような表情で立ち尽くしている。
「プロデューサーが命に代えて作ったグループなんだよ、クロタンは」
ココロが全員を見渡し、最後に茂木へ視線を固定した。
「わたしね、昨日必死に考えてひとつの結論を出したの。聞いてくれる? プロデューサー」
「そういえばお前らに何も話してこなかったよな、済まないと思ってる」
部屋に二つだけあった椅子に、泣き疲れたカンナと腰の重い俺が座った。
ココロは話をつづけた。
「きのうカンナのプロフィールを見たときにちょっと仮説じみたところまでは考え付いたんだけど、聞きながらプロデューサーが補足してくれると助かるな」
「わかった」
「まずプロデューサーがクロタンを作ろうと思ったきっかけ。それは2年前のMDSの告知ですよね」
「そうだ。このまま放っておいたら致命的だと聞いてはいたけれど、それよりも頭に降りてきた『黒い胆汁』ってワードに憑りつかれてしまった」
「そこです。プロデューサーはこのグループのことを、銃器の『短銃』の誤変換だって言ってたけど、それは嘘ですよね」
「これが一番苦しい嘘だったけどな」
「ここまではたどり着いたんですけど、その真意がわからない。誰か分かる?」
誰も反応しない。
茂木が続けた。
「俺が説明するよ。MDSが告知されたとき、俺は自分の臓器が真っ黒に侵されているイメージが湧いてきたんだ。いろいろ検索してるうちに、『黒い胆汁』ってワードに行きついた」
最初は声も絶え絶えに話していた人間とは思えないほど、今の茂木は活力を取り戻していた。
「中世ヨーロッパの画家、ドメニコ・フェッティが描いた『メランコリア』って油絵があるんだ」

「マグダラのマリアが座り込んで頭蓋骨を抱え込んで凝視してる絵だ。それを見たとき、俺はマリアに見つめられている頭蓋骨になった気分になった。たとえ俺自身は死んだとしても、それを見つめてくれている人がいるのだろうか。俺はマリアに見てもらえるだけの何かを残せているだろうか、って」
理解の範疇を超えていたが、気持ちは痛いほどよくわかる。
俺自身も、何かをこの世界に残せているのかと無力感に襲われることが多いから。
「俺の五臓六腑は病に侵されている。だから俺はこれから見つけるアイドルに自分の五臓の依代(よりしろ)になってもらう計画を立てた」
中世絵画の次はオカルトか。
ここまでくるともうお手上げだ。
茂木は狂人なのかもしれない、ほとんどそう思ったときにジンジンが口を開いた。
「なるほど、民俗学的見地では理解できないこともありませんね。私たちの芸名とあだ名をプロデューサーが率先して決めたこと。それがこの五臓へのリンクだったんですね」
意外な理解者がいた。
「そこまで分かっていたとはな、素直に嬉しく思うよ」
茂木は感心を隠すことなく大げさに言った。
「死にゆく俺の臓器を5人のアイドルに仮託して、俺は生き延びようと思ったんだ。エゴだよ。完全な俺のエゴ」
乾いた笑いで茂木は言い放った。
「もっと詳しく言えば、俺の五臓を託した君たちが活躍することで、俺の臓器も元気を取り戻すんじゃないかって。マジナイみたいなもんだ」
ジンジンが推理を続行する。
「それが新曲『紅蓮の炎』に結実してたんですね」
「お披露目する前に倒れちまったから、それが残念でな」
「歌詞にもジャケットにも五臓を編み込んだ、入魂の一曲ですよね。きのうココロが解読しました」
「恐れ入ったな」
茂木はココロを称賛の眼差しで見た。
「これまで書いてきた5曲にはメンバーそれぞれのモチーフを入れてたんだけど」
「え、何それ、今知ったんですけど!」
ひーちゃんが驚く。他のメンバーも同様なようだ。
「新曲にはその集大成として、メンバー全員のモチーフを入れたんだ」
「やっぱ自己満足じゃん。完全な一人遊びじゃん。自分だけが生き延びたいってエゴじゃんか」
カンナの言葉は茂木を黙らせた。
「そのエゴに振り回された私たちは、いったい何なんでしょうね」
この部屋に入って初めてハイハイが発言した。落ち着いた口調だから非難がましく聞こえない。
「これまでの人生、ぜんぶ中途半端だった私がようやく見つけた居場所が、やっぱりまた途中でうやむやになっちゃったんですよ。クロタンやってるときは道化の仮面をかぶってやってきたけど、それもなんか中途半端で。そしたら途中でプロデューサーがいなくなっちゃった。このまま私は次の中途半端に向かってダラダラと人生を浪費するんだろうな、って思ってました」
話の行く先が見えない。
「でもね、プロデューサーがいなくなって、活動休止になって。契約期間がまだ残ってるあいだに、もし何か動きがあったら、それに賭けてみようって思ってたんです。そしたら土橋さんが来た。だからね、今のこの流れに乗ってみようと思ってるんです」
いきなり俺に話題が振られた。
それにつられて茂木も俺を見た。
はじめて茂木と目が合った。
「ああ、遅くなりました。お話は聞いていましたが、お顔を拝見するのは初めてですね。『黒い胆汁』プロデューサーの茂木です。ベッドの上から失礼します」
「あ、こちらこそ初めまして」
「今回はいろいろとお骨折りいただいて恐縮です」
「いえいえ、茂木さんの苦しみに比べれば屁でもないですよ」
「でも……なんか他人のような気がしないんだよな……土橋さん、前に会ったことありましたっけ?」
「いえ、ぼくは茂木さんが辞めたずっとあとに入社ですから」
「そうか」茂木は釈然としない表情を湛えている。
「ていうかさ、名前で選ばれたことに関して、みんなどう思ってるの?」
カンナが残りの疑問に切り込んだ。
茂木はと見ると、固唾を飲んでメンバーを見守っている。
自分のエゴがどう受け取られているのか、ここで初めて知ることになるのだ。
「わたしはドルオタだから、チャンスを逃さないことが一番大事だって知ってる。名前に月が付いててラッキーだったなって」
ひーちゃんは明け透けに言った。
「3回目のアイドルだからね、何があっても驚かないよ」
見た目と言動に反して、ひーちゃんは意外としっかり物を観察している。
次はジンジンだった。
「わたしなんか月ふたつの朋だから、プロデューサーも無条件で選んだんじゃないかって内心ほくそ笑んでます。ちゃんとギャラを出してくれるならこれからも頑張りますから」
さすがジンジンだ。そういえばあの件はどうなったんだろう。
「なあジンジン、あの物件はどうした?」
「明日にでも不動産屋に行ってみるつもりです」
茂木は初耳だろう。
驚いて問いただした。
「ひょっとしてこっちに住むのか?」
「はい。ま、今後の活動予定次第ですけどね」
それを聞いた茂木は口元に笑みを湛えた。
何かいい発表があるのだろう。
ハイハイはさきほどの演説と同じ、落ち着いた口調で言った。
「名前だろうが顔だろうがパフォーマンスだろうが、選んでもらったことには変わりないし、乗りかかった船には最後まで乗っていくつもりです。ま、さっきまで沈没寸前だったけど、これからは浮かんでいく一方だと思うから」
最後はココロだ。
「正直ふざけんなって思ってるよ、今だって。プロデューサーが祈りを込めて名前で寄せ集められたグループだけど、それがわかった今だからこそ、逆に気持ちをリセットして一から出直せるんじゃないかって思ってる」
そろそろ俺の出番だろう。
「茂木さん、これで全員の意思が改めて確認できました。俺の役目もここまでってことで……」
「ちょっと待ってくれ土橋さん」
茂木は自由になっている左手でスマホを操作した。
何度かのコールのあと、相手が出た。
スピーカーモードになっているのだろう、声が病室内に響く。
「はい、千川です」
「あ、茂木です。すべて順調です」
「わかりました。少々お待ちください」
保留音になった。
何が起きるのか、全員が固まったまま耳を澄ませた。
「茂木くん……いや、今は部下ではないのだから、茂木さん、だな。手術の成功、まずはおめでとう」
「美城さん、ありがとうございます。そしていろいろ手をまわしてもらって、いくら感謝しても足りないくらいです」
「礼はいい。本題に移ろう。おい土橋、そこにいるのか」
うわ、俺に振ってくるなよ。
「いるよ」不承不承答えた。
「相変わらずパッとしない男だな。ひとまずご苦労」
「へいへい」
「カンナくんはいるかな?」
「……はい」恐る恐るといった風情でカンナが答える。
「キミの実力は私の耳にも届いている。もしよかったらキミをウチにスカウトしたいと思っているのだが、どうだろうか」
ひーちゃんが悲鳴のような声を上げた。
「どういうことですか」カンナの声は固い。
「キミをウチの研修生として迎え入れてもいいと思っている」
「他のメンバーはどうなります?」
「それは考えていない。あくまでキミ一人だ」
「お断りします」カンナはきっぱりと言い切った。
「えーもったいないじゃん、ねえカンナ美城プロダクションだよ、こんなチャンス逃しちゃダメだって!」ひーちゃんは泣きそうになりながらカンナに訴えかけた。
ひーちゃんを見ながらも声は電話の主と対峙している。
カンナは続けた。
「わたしはこの仲間たちと5人で歩くことを決めてるんです。わたしだけ取り上げようとしても無駄ですよ」
「そうか、無理強いはすまい。だが、あとで後悔するなよ、あの時の誘いに乗っておけば……」
「結構です!」
意固地になったカンナは、ある種の美しさを放っていた。
「話を変えよう。実は少し前から水面下でキミたちの再出発の道筋をつけていたのだ。ここからは茂木さんが説明する」
満を持して茂木のターンが回ってきた。
「土橋さん、そのオーバーテーブルに乗ってる書類、封筒から出してみんなに見せてくれませんか」
「はいはい」
テーブルに近づき、A4用紙が入る茶封筒から中の書類を取り出す。
目を疑った。
メンバーも近づいてきてその書類を見る。
全員から歓声とも悲鳴ともつかぬ声が漏れた。
「なにこれ」カンナは目を丸くしている。
「これ合成だよね、こんなアー写撮ってないし。それにしても……」
よくある地下アイドルのフライヤーだった。
横長で5人のメンバーが横並びになっている。
グループ名と思しき文字と、新しい衣装。
よく見るとフライヤーの下にもう一枚の用紙があった。
それを全員に見えるように置きなおす。
新曲の歌詞、らしい。
「マジか」「ありえねー」「イメチェンも甚だしいね」「面白そう!」「知らない自分が出てきそうで怖いわ」
ひとしきりの騒ぎが収まったころ、電話の主が言った。
「どうかな、新生グループは。これはすべて茂木くんの発案だ。今回だけは特別にこちらで下準備をしておいた。衣装も発注済み、仮歌のレコーディングも済んでいる。お披露目ライブの日程も決めておいたぞ。では私はこれで。あとは千川に任せる」
あまりの抜け目のなさに、美城小百合という人物を、悔しいけれど再評価しないわけにはいかなかった。
「でもさ」
カンナが口にした言葉で、病室の空気が一変した。
「あと2週間くらいでしょ? マネージャーは誰がやるの? 実務がいなかったらライブもやれないじゃん。茂木さんはまだ無理だよね?」
「……」
全員の頭の上に三点リーダが浮かんだところで、スピーカから千川ちひろの声が聞こえてきた。
「みなさん、聞こえてますか。関係各所と協議した結果、茂木さんが現場復帰するまでは、土橋さんが現場マネージャを務めますので、よろしくお願いします」
「うわ」「マジか」「やったー」「ホントかよ」「楽しみー」
いろんな声がまわりから聞こえたけれど、俺はただ思考停止して立ちすくむことしかできなかった。
……いやダメだ。ここで黙っていたらいいように使われてしまう。
「ちょっと待った! え? あの、俺の本来の仕事は? 俺いないと大変でしょ美城だって」
「土橋さん、安心してください。土橋さんに振っていた事務作業は八神さんの手を借りてAIに一任しましたので、こちらの業務は心配ありませんから」
「待ってよ! え? 俺っていらない子なの?」
「はい、今のところは」
ちひろに対して殺意が湧いた。リストラ請負人かお前は!
仕方なく腹をくくった。
「え、期間は? いつまで?」
「常務からは無期限と言われています」
「おいおい……」
肩を落とした。
とんだ尻ぬぐいじゃねえか。
途方に暮れているうちに通話は切られていた。
茂木が口を開いた。
「土橋さん。私からも改めてお願いします。気持ちとしては明日からでも現場でバリバリ働きたいんですけど、もうちょっと療養して完全体に戻ってからこの子たちと向き合いたいので」
「はあ」
前を向けない。
茂木やメンバーの顔が見られない。
気が付けば外はだいぶ暗くなってきていた。
ふいに肩を叩かれた。
「ねえ土橋さん」
ココロだった。
「ボクは土橋さんと一緒にやりたい」
「そんな……俺、地下アイドルの実務経験ないよ?」
「そんなの何とかなるって」
「チェキだって撮ったことないし」
「メンバーの撮影技術、なめんなよ。みんなで協力するからさ」
「俺さ、今回のことで、何か役に立ってた?」
急に不安になった。
ずっと他人事のようにこの子たちと関わってきた。
それが今になって猛烈な罪悪感となって押し寄せてきている。
「土橋さんみたいなマネージャがいたら現場が楽しくなるよね」
ひーちゃんは四の五の言わずに再結成を即決してくれた。
「土橋さんと話して、変な義務感から解放された気がするんですよ」
ハイハイは震災経験から、他人を笑顔にしなきゃという気持ちが強かった。
「土橋さんのおかげで長時間の通勤から解放されそうです。読書量も増えそうだし」
ジンジンは俺が紹介した事故物件に引っ越すつもりでいる。
「カンナと腹割って話せるようになったの、土橋さんのおかげだよ。感謝してる」
ココロは巴波川の橋の上で涙をこぼした。俺がいないところでカンナと話し合って、ちゃんと和解した。
「ボクのライブ見てくれて、感動してくれた。ボクはそれだけでアンタを信用してる」
カンナの歌声があったから、あのライブを観たから、俺はここまで頑張れたような気がしている。
短い関わりだったけれど、みんなアイドルとして以前に人間としての魅力が詰まったメンバーだということが身に染みている。
ここで逃げる必要なんかないじゃないか。
こいつらと一緒にいたほうが楽しいに決まってる。
新たな決心とともに顔を上げたら、全員の笑顔に迎えられた。
俺はなんだか照れてしまった。
西側の窓から夕陽が差し込んでいる。
メンバーの顔がオレンジ色に照らされている。
みんな満足そうな表情を浮かべて俺を見ている。
「お前たち……いいグループになったな」
ぽつりと茂木が言った。
茂木の顔は陰になってよく見えなかったが、きっとその顔も満たされているに違いない。
この物語の幕が下りていく音が聞こえるようだった。
気になって南の窓際に移動した。
あった。
半分くらい欠けた白い月が、東の空に浮かんでいた。
【註】都立虎ノ門総合病院は架空の病院です。
