黒い胆汁 #7 ココロ
2025年9月28日
昨日の長野弾丸ツアーで俺の体はボロボロだった。
起きたときに背骨と腰がギシギシ音を立てていたのには笑うことしかできなかった。
今日は栃木行きだ。
軽井沢もそうだけれど、初めての土地に行くのは若干の緊張が伴う。
乗換案内で調べてみると片道で2時間くらいかかるようだ。
往復で約¥3、000。飲食が伴うとしたら軍資金は確実に底をつく。
死活問題だった。
いくらか残った軍資金を生活費の足しにしようと思っていたが、夢物語に終わりそうなのが悔しい。
ひょっとしていくらか余ったら、ちょっとした贅沢をしようと画策していたのだけれど。
渋谷から栃木に電車で行くのにはいくつかのルートがある。
東京メトロで浅草もしくは北千住で東武日光線に乗り換えて行くか、JRで湘南新宿ラインに乗り、栗橋で東武日光線に乗り換える。
もしくは乗り換えを小山にして両毛線で栃木というルートもある。
少しでも安く済ませるため、渋谷から地下鉄を乗り継ぎ北千住へ。そこから東武日光線で栃木へ向かった。
栃木駅から岩下の新生姜ミュージアムは徒歩13分。
集合が13時だから、30分前に栃木駅に到着していれば大丈夫だろう。
2回の乗り換えは面倒だけれど仕方ない。
寮を9:30に出て、ゆっくり渋谷駅まで歩く。
駅に着く寸前にカンナからLINEが来た。
カンナ:集合場所変更。栃木駅北口徒歩3分「カフェしもつかれ」ね。
なんだ? 最初の集合場所である「岩下の新生姜ミュージアム」が気になっていたけれど、何か不都合があったのだろうか。しもつかれ?
とりあえず新しい集合場所を調べ、東京メトロ銀座線に乗った。
うっかり寝過ごしたら大変だから乗り換えが多いと気が抜けない。
昨日の長野行きが絶対に肉体的ダメージに直結しているはずなのだ。俺は自分の老いに抗わないことにしている。
スマホのタイマーをセットした。
その効果があったのか、居眠りすることなく2回の乗り継ぎを成功させ、定刻通りの12:11に栃木駅に到着した。
待ち合わせよりだいぶ早い時間だ。
運動がてら、当初の集合場所まで行ってみることにした。
北口を出て駅前の交差点を右折、しばらく歩くとピンク色の看板が多くなってくる。
そのうち左側に出てきたのが「岩下の新生姜ミュージアム」だった。
門の近くにポスターが掲示してある。
今日の日付だ。「なんちゃらアイドル主催 岩下の新生姜ミュージアム10周年記念フェス!」とある。数組のアイドルやアーティストが出るようだ。人が多い。
知らずにココロはここを待ち合わせに設定して、ライブの存在を知って変更したのか。
入場無料と書いてはあるが、時間がないから今回は諦めよう。
訂正された今日の待ち合わせ場所に向かう。
駅の方に戻り、駅前の交差点を駅とは反対の右に曲がるとすぐその喫茶店があった。
古そうな店だ。
時刻は12:51。
ココロはいるだろうか。
店に入ると左奥のテーブルに座っていた。こちらを向いている。
近づきながら挨拶しようと思ったら、ココロが立ち上がって先に口を開いた。
「土橋さんですか、ココロです」
「あ、どうも。座りましょうか」
4人掛けのテーブルに、俺はココロの斜向かいの席に座った。
ココロの前には水だけが置いてある。
「あ、好きなもの頼んでいいよ。経費で落ちるから」
「さすが大きなプロダクションは違いますね」
羨望とも嘲笑ともつかぬため息とともにココロは言った。
アイスコーヒーを二つ注文した。
「近くに住んでるの?」
「はい、この店までは徒歩圏内です」
「そっか。急に驚いただろうね。プロデューサーの件で連絡なんて」
「わたしはてっきりプロデューサーが亡くなったのかと……」
淡々と話すココロに違和感があった。
「カンナから聞いてないのか? プロデューサーは無事だよ」
「そうなんだ」
ココロの表情にはどんな感情も伺えない。
「ずいぶん他人事なんだな」
「薄情と思われたのかな……わたしは冷静なだけです。行方不明になって3か月ですよ、わたしたちを見捨てて飛んだとしたら今さら姿を現すはずもないし、いちばん可能性が高いのは……そういう事かなって思っただけ」
「無事は確認できたって話は聞いたけど、俺も茂木さんの安否というか、何があって今どんな状態なのか知らないんだよな」
「なによそれ」ココロはコップの水を一気に飲み干した。
「失踪するしばらく前から、プロデューサーが体調を崩してるのは知ってた。茂木さん本人は何も言わなかったけど」
「え、そうなの? どんな感じだった?」
「オーディションで会ったときから疲れやすい人だなって思ってはいたんだけど、それからも息切れとか鼻出血とかあったし、常に『しんどい』が口癖だったよね。何回も勧めたの、病院で検査受けたら? って。でも『いま俺がこれをやめる訳にはいかない』って。やけに熱い人だなって思ってたけど、ひょっとすると血液系の病気だったりして」
「やけに詳しいな」
「一般的な知識だと思うけど」
俺は疑問を聞いてみた。
「なあ、おかしいと思わないか? 茂木さんが無事ならどうして君たちに連絡してこない」
「失踪の原因がわかんないから何とも言えないよね。今回の依頼も美城の上から来た案件なんでしょ? そっちが何かを握ってるとしたら、こっちは待つしかないじゃん」
冷静かつ正確な分析だ。
「なるほどな、一理あるわ。んでさ……」
「わたしは乗らないから」
いきなりココロのドアが閉まった。
覚悟はしていたけれど、こちらが口を開く前にこのひと言でシャットアウトされるのは精神的につらい。
「ひとまずこっちの言い分を聞いてくれないか」
「まあいいですけど」
なんとなく取りつく島がない。
「カンナからは何て聞いてる?」
「美城のプロデューサーが、茂木さんの無事の報告と、再結成、契約更新について話しに行くから、ってだけ」
「茂木澄人さんは無事だ。ただ、今はまだ動ける状態じゃないらしい」
「らしい、ってどういうこと?」
「別に情報の出し惜しみをしてるわけじゃない。俺はただの使い走りだよ。茂木さんとは面識もない。そして君たちのこともほとんど知らない。だから善意の第三者だと思ってくれたらいいよ」
「なんか複雑」
ココロは不服そうだった。
ジンジンの話ではカンナとうまくいってないらしい。
カンナがココロをどう思っているかは別として、ココロの側にわだかまりがあるのだろう。
「遅くなったけど、とりあえずこういう者です」
俺は名刺をココロに差し出した。
「頂戴します」
文面にゆっくりと目を通すココロは、間を置かず言った。
「え、プロデューサー『補』ってどういうことですか?」
「ま、駆け出しだと思ってもらっていいよ」
「庶務課特別室って何人ぐらいいる部署なんですか?」
「俺ひとり」
「え……」
「そんなに質問攻めにしないでくれよ。俺だってそっちに聞きたいこといっぱいあるんだから」
「え、そうだよね、ごめんなさい。せっかく遠くまで来てくれたんだから、何でも聞いてください」
流れが変わった。戦法を変えて俺は正面突破することにした。
「ねえココロさん、あなたカンナと仲悪いの?」
一瞬のためらいがココロの目元をよぎる。
「そうですね。私が一方的に苦手意識持ってるだけかもしれないけど」
言い渋るかと思ったが、最初に本音を言った方がいいと判断したのだろうか。
「何が原因なんだ?」
「ズバズバ聞きますね、そんな洞察力があるならもっと出世してもよさそうなのに」
「お褒めの言葉、恐れ入るね」
「土橋さんって、職場でなにかあだ名で呼ばれてます?」
「あ、あるよ。『ドM』っていうんだ」
「なるほど……で? 本当にドMなんですか?」
「あ……そんなことはない……こともない、かな」
堪りかねたココロは大声を出した。
「どっちなのよ!」
「ハイ、ドMです!」
北関東の駅前の地味な喫茶店、総席数20くらいの店で、俺はドM宣言をさせられていた。
(あ……これは……ひょっとして……)
ひとつ大きな咳払いをして俺は続けた。
「なあ、俺も恥ずかしい告白したところでさ、ココロさんも正直なところを聞かせてくれよ」
「ねえ」
「なんだ?」
「ココロさん、って気持ち悪い」
「じゃあ何て呼べば?」
「ココロ、でいいよ」
「わかった、ココロ。改めて聞きたいことがある。キミがカンナと不仲だっていう噂はメンバーから聞いた。そこでだ、キミは再結成と契約更新について、どんな気持ちでいるのか教えてほしい」
聞こえるか聞こえないかくらいのうっすらとしたため息をついて、両手で抱えたコーヒーカップの液面を見つめながら、ココロは話しはじめた。
「わたしがアイドルの資質としてカンナより劣っていることは認める。わたしだって懸命に努力してるけど、ちっとも追いつく気がしないんだよね。あ、ごめん、いつの間にかタメ口になってたね」
「いいよいいよ、慣れてるから」
「美城でも冷遇されてるの?」
「ん……否定はしない、というか事実だそれは」
「ごめん」
「謝るなよ、惨めになる」
「わかった。でね、わたしが気に入らないのは……って、こんな話したの初めてだわ、自分でびっくりしてる。つまり、このグループはカンナで成り立ってるの。ライブのパフォーマンスだってカンナが飛び抜けてるし、特典会だってカンナには長蛇の列。でもリーダーのはずなのに私たちメンバーにはいまひとつよそよそしいのが余計にイライラする、っていうか」
「あるあるだよな。俺も一応プロデューサーの端くれだからさ、なんとなくわかる」
「そう言ってもらえると少し血圧が下がる気がする」
「で、あれだろ? カンナとの仲が修復できなければ再結成したくないとか何とか言い出すんだろ?」
「わたしも最年長だし、女だらけの職場も経験してきたから、今さら表面上の関係を円滑にしたいとは思わないよ」
「じゃあ何が希望なんだよ」
「なんだろ」
急にココロは天井を見上げ、それから目を瞑った。
「相手を変えたいと思ったら、まず自分が変わらなきゃダメなんだよね」
「よく分かってらっしゃる。世の中の全員がそういう気持ちでいればいいのにな」
「ホントだよね」
「あ、思い出した。昨日ジンジンにオーディションの話を聞いたんだけどさ」
「え、ジンジン東京に来てんの?」
「いや、俺が長野に行ってきた。で、今ココ」
「マジで? あんた体力すごいな。うちのプロデューサーより歳いってる感じだけど」
「51だよ」
「やっぱ業界の人は一般人より若く見えるよね」
「ありがとうって言えばいいのかな」
「別に何も言わなくていいよ、わたしはお世辞言わないから」
「ありがとな。でさ、オーディションの書類審査で大半が落ちたって聞いたとき、なんかすごい違和感が」
「あーそれね。わたしも引っかかりを感じてる。そして、全然関係ないかもしれないけど、新曲の歌詞にも別の違和感があるんだ」
「どんな? 俺聞いたことないし、歌詞も知らない」
「じゃあこれ見て」
ココロはバッグから折りたたんだA4のコピー用紙を出してきた。

紅蓮の炎
闇に溶けた声は 誰にも届かない
記憶の底でまだ 赤い影が笑う
憎しみも 祈りさえも
同じ色に燃えて
手のひらから零れ落ちる
Tear my spleen,
let the kidneys’ river flow,
still I blaze in crimson fire.
壊れた時計針が 未来を刻めずに
静かな絶望だけ 指先を染める
やさしさも 裏切りさえ
同じ夜を裂いて
痛みだけが残される
Break my lungs,
a trembling heart won’t lie,
still I blaze in crimson fire.
名もなき夢は散り
名もなき歌は枯れ
それでもまだ熱を
抱いて生きていた
虚無を裂く 激情だけ
最後の場所で
ひとつの命を灯す
From my liver,
the final flame is born,
I blaze forever—crimson fire.
詞曲:茂木澄人
「なんかしっくり来ないんだよね、この曲」
「なにが」
「サビが英語なんだけどさ、歌ってて違和感があるのよ。妙に字余りだったり、ライムがおかしかったり。これまでの曲はみんなすんなり頭に入ってきたのに」
「何が違うんだろう」
「ま、プロデューサーも名曲ばっかり書ける訳じゃないってことかもしれないけど」
「曲は全部プロデューサーが書いてんの?」
「そ。昔バンドやってて、そこでも書いてたって言ってた」
「この曲については何か言ってた?」
「渾身の一曲だって。俺のやりたかったことはこの曲で完成する、とかなんとか」
「なにかしらの想いを込めて作ったんだろうな、詩とか曲とかと違ったベクトルで」
「そうかもね。結局プロデューサーこの曲聞けずに消息不明になっちゃったけどね」
「そうなの?」
「そ。レコーディングも終わって練習もして、いざライブで初披露って直前にいなくなっちゃったから」
「そりゃ無念だったろうな」
「だろうね。で? ドMさんは知ってるの? プロデューサーのこと」
「知らない。俺は前世はフリーターだからね。美城に入ったのは4年前だよ。茂木さんとはすれ違いだと思う」
「そっか」
「ちょっと話を戻していいか? オーディションの書類審査で落とされた大半の子と合格したキミたちとの違いは何だ?」
「え、わたしは不合格の子たちを知らないから何とも言えないな」
「だよなぁ」
言いながらメンバーの経歴書を取り出した。
本名も載っている、取り扱い厳重注意の個人情報だ。
5人分を取り出し、トランプのババ抜きのように扇状に広げてみる。
あだ名 本名 芸名
カンナ (中村 朧 : カンナ【kanna】)
ココロ (大豆生田 望 : 朝倉 心)
ひーちゃん(一柳 梢 : 犬神 ひな)
ハイハイ (白川 郁 : 拝島 香澄)
ジンジン (黒澤 朋 : 黒澤 仁美)
確かに何かの引っかかりを感じる。
この5人のプロフィールに何か共通点があるのではないか。
その違和感はココロと同じものとは限らないけれど。
たとえばこの違和感が払拭されたところで、何がどうなるわけでもない。
俺の今のところの使命はクロタンを再結成させ契約更新をさせることなのだ。
そのためにはまず、目の前のココロを説得しなくてはならない。
「なあ、明日のことなんだけど……」
「さっき言ったけどさ、カンナと一緒にやっていくってのが、わたしには無理っぽいんだよね」
「カンナに会ったとき、『リーダーとして自分はメンバーをまとめ切れてなかった』って反省してたよ」
「ふーん、自覚はあるんだ」
「なあココロさんよ」
「何よ」
「とりあえずさ、明日の顔合わせだけには出てもらえないかな」
「うーん……」さっきから浮かない表情だ。
「そういえば誰かが言ってたな。ココロはプライベートの話はほとんどしない、って」
「悪い?」
「年齢非公表なのはどうして?」
「アンタね、女性に年齢って」
「いやいや、アイドルはほとんど明かしてるでしょ。俺の体感では7割は公表してる」
「公表組だって詐称してるやつも多いじゃん」
「いや、それはそれとして」
「ほら……ちょっとわたしだけアレでしょ?」
「他のメンバーより年齢が浮いちゃってるって?」
「うん、まあ」
「そこに引け目を感じてるのかい?」
「いやそういう訳じゃ……」
「逆にさ、プライベートをガンガンに明かしてる子、クロタンにいる?」
「そうだな、ひーちゃんあたりは何聞いても明け透けに答えてくれる……ねえドMさん、ひょっとしてわたしのカウンセリングしようとしてる?」
「そういうつもりはないんだけどさ、少しでも前向きな気持ちで明日のミーティングに出席してほしいと思って」
「ちょっと気分変えない? 散歩でもしてさ」
昨日から座ってばかりいたせいで背中が固まっている。俺は同意した。
「連れて行きたいところがあるんだ」
会計して外に出る。
今日は青空は見えるものの、白っぽい雲が空の大半を占めている。
気温は暑くも寒くもない。秋本番を直前にした心地よい気候だ。
この一週間は気温のアップダウンが激しい。
ココロの後をついていく。
どうやら北に向かっているようだ。
左手に大きなスターバックスを見ながら先にある交差点を左折する。
5分も歩くと街なかを流れる川が見えてきた。
「巴波川(うずまがわ)っていうんだ」
橋の上から下流を見る。川幅は5メートルくらいか。コンクリートで護岸されているけれど、結構古そうな感じだ。
客を乗せた遊覧船が目を惹いた。
木製の船に、一本竿を持った船頭が船を漕いでいる。
「歴史のある街なんだよね。わたしこの街が好き」
欄干に両手を置いて下流を眺めるココロは表情をゆるめた。
「わたしが勝手にメンバーに対して壁を作ってたのかもしれない」
「どうしたよ急に」
「さっきドMさんに言われたじゃん、歳のこと。やっぱどうしても気になるのよ。二十歳そこそこの子ばっかりのグループに一人だけ年齢が飛び出たやつがいるって違和感に」
「そうやって逃げてきたんか」
「え?」
「俺ごときが言えることじゃないけどさ、ココロってそれを言い訳にして逃げようとしてるんじゃないの?」
怒るかと思ったら逆にしんみりしてしまった。
「……確かにそれはあるね。振り返ったら逃げてばっかだったかも」
「人間の性格がそんなに簡単に変わらないことは、俺だって知ってる。でもさ」
遊覧船に乗っている子供が橋の上の俺たちに向かって手を振っている。
「アイドル見て楽しんでる側からしたら、年齢なんて関係ねえんじゃねえかな」
言葉を切ってココロを見ると、右手を軽く振って船上の客に応えていた。
「今のこれもファンサみたいなもんかな。アイドルのときのレスみたいに自然に手ふってた」
ココロは俺に向き直った。
「あたし胸張れる人間じゃないし、技術もまだまだだし、でもやっぱり中途半端は気持ち悪い」
「ああ」
「とりあえず明日、行くだけは行くわ。それでみんなと話して、続けるか辞めるか、その時きっぱり決める」
「そっか」
ココロの目はある種の決意を秘めているように見えた。
ひとまず全員の説得は終わった。態度保留のメンバーがいることも含め、千川ちひろに報告の電話を入れる。
「お疲れさまです土橋さん。明日の集合場所はスターバックスコーヒー虎ノ門ヒルズステーションタワーでお願いします。時間は13時。これを全員に伝えていただければ、明日の段取りは私から土橋さんにお伝えします」
「え、ちょっと待って、集合場所もう一回言ってもらえます?」
ちひろに復唱してもらい、それをココロにメモしてもらった。
LINEでカンナに集合時間と場所を送った。ココロ以外のメンバーに送ってほしいとの説明も入れて。
やっと大きな荷物を下ろしたような、晴れやかな気分になった。
明日何があろうと、俺の出る幕は少ないだろう。
メンバー間の話し合いがメインになるはずだ。
「ありがとな、ココロ。俺は君たちのグループを知らない。だから続けろとも辞めろとも言わないよ。アイドルより自分の人生を大切にしたほうがいい」
「わたしは……どうしたいのか、よくわかんない。久しぶりにみんなの顔を見てどんな気持ちになるか。ねえ、こんなんでいいのかな」
「いいんじゃないか? アイドル人生に命を賭ける子もいるし、それは端から見てても尊いもんだよ」
「だよね。わたしも一年半のアイドル人生で、周りのグループとか、カンナとか、いろんな輝きを見てきた」
ココロは必死に泣くまいとしているかのように口元に力を入れている。
「ねえ、隣に立ってるカンナが眩しすぎて手が届かないって思った時の絶望、ドMさんに想像できる?」
声を震わせてココロは言った。目が潤んでいる。
「年下でリーダーで、わたしなんか絶対に真似できないような歌声を持ってて、いくらレッスンしてもカンナの足下にも及ばない。わたしはカンナの足を引っ張るだけの存在なんじゃないかって、ずっと思ってた。今でも思ってるんだ」
ココロは顔を伏せてしまった。
垂れた前髪が邪魔をして表情は見えなかったが、橋の手すりに雫が落ちた。
「ねえドMさん、明日……行きたくないよ」
最後は消え入るような声になった。
「なあココロ。一般論として聞いてほしいんだけどさ、人はおっきな目標を目の前にすると、それを目指して発憤する場合と、自分には無理だと諦める場合と、そのどっちかだと思うんだ」
「うん」
「ココロはこれまでどっちのタイプだった?」
「諦めてたと思う。だってさ、ステージに立ってふと横を見ると、まるで女神みたいな人がパフォーマンスしてるんだよ。それなのにカンナは自分の努力と才能を誰にも自慢しない。そんなのってある? ちょっとは傲慢になってよ! 早くボクと同じレベルに上がってきなよって言ってよ! カンナはいつも冷静なの。歌もダンスも、メンバーが悩んでるとちゃんと話を聞いて原因を探って一緒に考えてくれる。それでも、それ参考にしてどんだけ頑張っても、カンナとの差はちっとも縮まらないんだよ? はは、笑えるよね」
ちっとも笑えなかった。
「その気持ち、これまで誰かに伝えたことあるのか?」
「……ない。いまが初めて」
「そっか」
しばらくはココロの鼻を啜る音だけが間断的に聞こえていた。
俺は黙って待った。
うん。小さくそう言ってココロは顔を上げた。
「ねえドMさん。わたしさ、いまの気持ち、明日カンナに伝えようと思うんだ。どうかな」
「カンナだったらきっと受け止めてくれる。もし言葉が出なくなったら俺がアシストするから」
「ありがと……ありがと……」
ココロは泣き笑いの顔になった。
「俺、そろそろ東京に帰るわ」
先ほどまでとは別人のようにスッキリした表情になったココロは頷いた。
「わかった。明日、また会おうね。近くにいてね」
「オッケー。寝坊すんなよ」
「わかってるよ。それよりドMさんの方が心配だな、昨日も今日も遠征じゃん。年寄りが無理するとあとが大変だよ」
「うるせえよ!」
「あはは」
口を開けて笑うココロを見て、俺も胸のつかえが外れた気がした。
とても魅力的な笑顔だった。
ココロとは駅に向かう途中の交差点で別れた。
雲間から差し込む陽射しが、意外なほど熱く感じた。
再結成期限まで、残り1日。
軍資金、残り¥4,880
