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「思ってたのと違う」に振り回されない - "仮説"を普段使いするための3つの打ち手

"仮説"を普段使いした方がよい理由

"仮説"というと、なんだかいけすかないコンサルタントという虚業の輩が、無駄に誇らしげに自分たちの専売特許のように扱っているツール というイメージがあるかもしれない。

自分もコンサルティング会社で働く会社員なわけだが、実際に仮説の扱いというのは、コンサルタントの基本スキルの一つではある。
また、ただただお客さんの言う通りにするのではなくて、仮説を持ってこちらから提案するというのがコンサルタントとしての価値だと叩き込まれるのも事実ではある。

ちなみに自分は、コンサルタントといってもITを専門領域にしているので、いわゆる経営コンサルタントとか戦略コンサルタントではないわけだが、それでも仮説が必要な技術であることは変わらない。
お客さんのことや、お客さんがやりたい事も全部わかるわけじゃないし、ましてや未来が確実に読めるわけじゃないのだから、仮説を置かないと「こうした方が良いですよ」なんて言えるわけがないのだ。

その意味で、仮説というのは、提案が嘘にならないための「あらかじめ置いておく言い訳」とも取れるし、「誠実な事前の条件説明」とも取れる。
どっちに転ぶかは、仮説の精度、その場の説明の丁寧さやお客さんとの関係性、提案して実行した結果による。大体は、うまくいかなかったら「言い訳」だし、うまくいったら「仮説通りになって良かったね」である。

話が逸れてしまったが、ここで言いたいのは"仮説"は確かにコンサルタントで良く使われる道具的なものではあるが、そんなコンサルタントの商売道具として閉ざされて良いようなせせこましい技術じゃないという事である。

いや、お前らコンサルタントが勝手に自分たちのモノのように言ってるだけだろうという声があるかもしれない。
もし、そう見えていたのだとすれば、コンサルタント業界を代表できるような立場では全く無い私が言ったところで意味がないかもしれないが、全力でそれについては謝るしかない。

とにかく、"仮説"というのは、本来、誰にとっても、コンサルティングどころか、ビジネス世界にも限定されない、日常の全ての生活シーンでめちゃくちゃに有用な、それこそ多くの人が普段使いをした方が良い技術なのだ。

"仮説"を普段使いするための3つの打ち手

では、"仮説"は何に有用なのか。
端的に言うと、「思い込みを剥がしやすくしておく」ための超有効な予備動作なのである。そんなのたいして意味があるのかと思うかもしれないが、生きていて発生する悩みは、ほぼほぼ思い込みに起因すると言っても過言ではない。

思い込み、つまり、「思っていたのと違う」というやつである。

仕事のミスもそうだし、誰かに怒られるのもそう。
人間関係の悩みも、相手の考えている事が自分が思っていたのと違う、つまり「相手の人はこうしたらこうするだろうという思い込み」から発生する。自分の中ではこうだと思ってたコトと現実のモノゴトとのギャップ、こいつが全ての悩みや不安の源泉なのだ。

仏教でも三毒という言葉があるが、解説本によっては、「痴」つまり物事を知らない事が毒であり、他二つの毒(貪欲さ・憎しみ)の根本原因だと説明をされていたりする。
最初にこれを聴いた時、「いやモノゴト知らないなんて過失というか、しょうがない事もあるじゃん。厳しすぎるだろ。」と思ったが、これをモノゴトを知らないのに何か勝手に決めつける思い込みのことなのだと解釈すると、納得できなくもない。

つまりは、思い込みとは太古の昔から色んな悩みを産み出し続けている厄介モノであり、こいつをどうにかするというのは生きていくにあたって誰にとっても大事なテーマなのだ。

話が戻って"仮説"が思い込みを剥がすのに効くという話である。

どう効くのかという理屈という点については、特段ひねりはない。
要するに、よく分からんことは、こうだときめつけて思い込む前に、仮説として明確にフラグを立てるという事を普段からすれば良いというだけである。これをするだけで、「思っていたのと違う」にぶつかった時の切り替えスピードが爆速化する。

「そんなはずない!」「おかしい!」から「あぁ、仮説、間違ってたんか…」になる。実際のモノゴトがそうなんだったら、仮説はこう置き直せば良いかと受け身が取れる。

・・・取れるはずである。理屈上は。

いきなり曖昧にしてどういう事だと思っただろうが、説明させてほしい。
もし、仮説を適切に使えれば効果があるのは、前述した通りであり、それは、まぁ、そうなんでしょうねという感じであろう。しかし、実際やってみるとそんなに簡単ではないのも、きっと想像できるのではないだろうか。

仮説なのだと心の中でつぶやいたとて、いつの間にかその仮説自体に執着してしまう。つまり、実質"仮説"ではなくなってしまう。
また、そもそも仮説を置かなきゃマズイという事すら気付かずに思い込みに突入してしまう。
結局、実際の運用としてはこういったところに難所がある。心の中の自分の声は、コントロールできるようで実際には直接的にコントロールできない。

じゃあ、結局役に立たないという事じゃないかと言うと、そうではない。
仮説が「思い込みを剥がしやすく」するために超有能なスキルなのは間違いないのだ。
この難所を克服し、仮説を普段使いして思い込みを遠ざけて、「思っていたのと違う」に振り回されない生活を送るための打ち手がある。以下に、その3つの打ち手を紹介していきたいと思う。

打ち手1:意識がどう成り立つか、なんとなくでもイメージを持つ

まず、最初の打ち手は、人間の「意識世界」がどんな仕組みで成立しているのかざっくりレベルででも把握するということだ。いきなり何を言ってるんだという話ではあるが、意識している事がそのまま現実のはずであるという考えでいる場合、まずそれをほぐすところから行う必要がある。

だから、まず言葉として、個々の人間の意識できる世界を「意識世界」と、実在していると推定される「現実世界」を一旦分けて表現してみるところから始めよう。

この「意識世界」の成り立つ仕組みについては、これまでに色んな分野で様々なカットで解説がされている。科学もあるし、西洋哲学もある。古くは仏教も詳細な検討を行っている。もちろん、確からしさの水準はまるで違う。科学は現実世界の検証と反証の手続きを精緻に積み上げてきたものである。

だったら、科学だけあれば充分だろうという人が多いだろうが、どの立場から出発しても、「人間が認識している世界は、外界がそのまま入ってきたものではなく、かなりの加工を経た結果である」—この一点だけは、共通して指摘されている。

まずはイメージつかむのが大事だというポイントに立脚して、ここでは、これらの数あるアプローチを私の方で超訳した形で簡単に「意識世界」がどう成立するか、ちょっとアホっぽいが簡単な例を使って説明してみよう。

図1

論理的に考える とわざわざ書いたのは、実際の意識には映像だったり音楽だったり、直感的で理屈を飛び越えて感情に影響を与える情報も確実に含まれるからだ。ここでは、あくまで言葉や記号で論理的に考えるという部分にフォーカスをしている。

ポイントは、記号化も推測も評価も、それなりにブレ幅がありえるステップであるということだ。
我々がロジカルシンキングだーなどと言っている意識世界も、そもそも論理的に考える元ネタになるそれぞれの要素が曖昧に曖昧を重ねた変換処理の結果で成立している。

打ち手2:真理なんてものはめちゃくちゃレアなんだと思うようにする

打ち手1で「意識世界」が、「現実世界」からどのようにインプットを得て処理が行われて構成されていくのか ある程度ざっくりイメージが持てたと仮定して次の打ち手に入る。

まず、打ち手1で説明したステップで構成された「意識世界」の情報を、「現実世界」での真理性と、「意識世界」での確信度でマップするというコトから始める。

真理性という言葉に胡散臭さを感じた人がいるかと思うが、先に言っておくと、その直感は正しい。この用語はそういう人の味方である。以下、図で表現すると以下になる。

この図2では、いつでもどこでもどんな状況でも成立するモノゴトを真理と定義したとして、それにどれだけ近いかを真理性という縦軸で表現している。これは現実世界のモノゴトにおける客観の評価指標である。

一方、横軸はそれぞれの人間がそのモノゴトをどの程度信じているのか?を確信度という言葉で表している。左から「知ってはいるが、信じてはいない」段階を経て、「半信半疑」から「確信」している状態になっていくと定義したもので、右に行く程に確信度が高いとするものである。

毎回新しいインプットをこの表を使ってマップする習慣をつけるようという話ではなく、ただ、まずはこの表の考え方や特性を把握してもらえれば良いというのが打ち手2となる。把握頂くべきポイントは以下2点だ。

一点目は、縦軸の真理性の厳格さである。分かりやすい点で言うと、科学的に証明されたことでさえ、「いつでもどこでも例外なく」を保証するものではない。とある条件下で、事象が再現されると観察された、ということだからだ。だからこそ科学は、新しい観察が出れば書き換わる。ここでいう「真理」- いつでもどこでも成立するもの という基準に照らせば、それは限りなく近づいていく営みであって、到達したと宣言できる類のものではない

当然だが、統計のデータも対象となったタイミング・母集団が区切られるという点から少なくとも普遍性・永続性の点で真理にはなりえない。客観の「現実世界」におけるモノゴトは、真理には到達する事がないグラデーションであるというイメージを持つことが、地味にそして非常に大切なポイントだ。

そして、もう一点は、厳格な縦軸の真理性に比して、横軸の確信度はたやすく最大値である「確信」に振り切れるリスクが高いということである。

心理学的本質主義という研究もあるが、人間には、モノゴトの背後に「本質」といった真理があるものとして捉えやすい傾向があるらしい。しかし、真理などというのはそうそう無い。ここにギャップが産まれやすい構図が存在している。

現実のモノゴトはもっとバラバラで、ちょっとずつ違うし、常に変わっていく。その確信とのギャップがそのまま「思い込み」へと化けていく。例えば、主語が大きいというのもそれで、世の中をシンプルに考えようとするあまり、雑な概念を確信してしまう。そして、確信してるが故に、それをいろんな場面の推測で応用する。結果としての現実は推測から外れ、「思っていたのと違う」になる。

「現実世界」の真理が希少なのに対して、「意識世界」では簡単に真理としての確信に振り切れるため、そのギャップに思い込みが発生し、そのギャップが「思っていたのと違う」を呼び込むという構図である。

打ち手3:  筋が良くても悪くても良い - 分からないコトは"仮説"にしておく

ここまで「現実世界」と「意識世界」にはギャップが産まれるものであり、そのギャップが思い込みになり、思い込みが「思っていたのと違う」の源泉となるという構図を説明してきた。最後の打ち手となるのは、このマップにおける"仮説"の位置付けと使い方である。

"仮説"の話に入る前に、思い込みが発生する典型的なパターンをいくつか整理をしてみよう。

  1. よく分かってないデタラメをそのまま信じてしまう

  2. 個別の事象の普遍性と永続性を拡大解釈してしまう

  3. 断片的な事実の切り取りから、残りの見えてない部分に誤った推測をしてしまう

  4. 分からないのに、分かったふりして進めなければいけなくなって、後戻りができなくなったその状況を正当化してしまう

  5. その時、その場所、その物語だから成立した過去の成功を、真理として解釈してしまう(まぁ、これは#2とほとんど同じだが…)

これらだけ聴くとそりゃダメだと思うかもしれないが、これらの思考パターン自体を止める事はおそらく誰にとっても難しいし、そんな事をコントロールしようと思わなくて良い。出来ないのだから、コントロールしようとするだけ無駄である。

これらの問題は、このふと湧いた言葉に執着してしまう点にある。一度執着するとエコーチェンバーさながら、それを証明するのに都合の良い情報のみに目を向けて耳を傾け、より執着を深める。

確信度を高めるには、本来インプットによる裏付けを重ねていく事が必要だ。
高い解像度で裏付けを重ねれば、正しい理解のまま高い確信度を得る - つまり「知恵」を積み上げることができる。
逆に解像度が低いインプットで裏付けがされると、どんどんノイズが混じり、結果的に真理性が下がっているにも関わらず確信度が高まって「思い込み」になる。

経験がなぜ重要かというと、それは経験を通して得られる情報の解像度が非常に高いからである。その時、その場所、その物語で得た情報を、身体の感覚を通して得て整合性を確認できるという考えうる限り最高の解像度、それが経験なのだ。

解像度が高いとは、抽象度が低い - 具体個別に近づいていくことでもある。打ち手2で説明した知恵が得難く、思い込みに流れやすい構図の理由はここにある。

この思い込みに流れ込むことへの有効な先手となる技術が"仮説"である。仮説を持つとは、具体で言うと「もし、xxであれば、xxである。」という構文で情報を整理していく事である。ぱっと聴くと簡単なようだが、言葉でいうならこれだけで良い。ポイントは「xxであれば」という前提条件を明確にする事である。

本来、全ての仮説には前提があるはずだ。この「xxという場合なら」という前提を抜きにして、ただただ「これは仮説である」とラベル付けだけしたとしても、それは「仮説と呼んでいる思い込み」にすぎないので注意が必要だ。

この場合、前提は簡単で柔らかいもので良い。「例えば、自分の知っている事に近しい状況なのだとすれば・・・」という条件を仮置きすることで、自分の中の知恵の世界に持ち込むのである。

やらなければいけない事は、分からない事、不確実な事に対して、時間や空間、またコンテキストを前提として区切る事で「条件付きの真理」を作るという事である。

さて、ここで最初に提示をした難所を振り返ってみよう。

仮説なのだと心の中でつぶやいたとて、いつの間にかその仮説自体に執着してしまう。つまり、実質"仮説"ではなくなってしまう。
また、そもそも仮説を置かなきゃマズイという事すら気付かずに思い込みに突入してしまう。

当記事 - "仮説"を普段使いするための3つの打ち手

仮説自体に執着をするとは、解像度が低いインプットに基づいて、徐々に「前提条件」を削り込み、純粋な真理に近づけるのと同義である。また、仮説を置かなきゃマズイとも気づかない というこの2点に共通するのは、「真理」に到達できたと安易に思い至る慢心にある。

というと、偉そうに聴こえるかもしれないのだが、自分を当然に含む身体を持ち時間と空間が有限な人類にとって、真理とはどう考えても得難いものなのだ。人類の叡智と言ったところで、己の知恵として正しい解像度で裏打ちできる情報は物理的に限定的だ。打ち手1と2で段階的に説明をしてきた事は、この慢心の抑制に効果を発揮する。

もちろん、仮説だから前提が崩れて結局「思っていたのと違う」にぶつかることは多々あるだろうが、仮説の主たる効能は思っていたのと違うへの遭遇を避けることではなく、そこからのいち早い離脱なのだ。

先読みして制御をしようなどと考える時点で、自分は真理を知っているはずだという思い込みに足を踏み入れている。我々にできる事は、前提を明らかにした仮説を立て、間違っていたら修正することなのである。これが"仮説"を普段使いするための最後の打ち手である。

なんとなく納得できない部分がある方に

今回は、"思っていたのと違う"を減らしていくための、入り口として"仮説"の効果と普段使いをするためのコツ的なものを打ち手として紹介してみた。

しかし、これだけを読んで「意識している世界と現実世界が異なる」「世界を不可解でコントロールできないもの」として捉える事に対して、漠然とした不安を持ったり、何なら嫌な気分になる人もいるだろう。

それは、「世界はコントロールをしていくべきもの」という世界観に合わせて醸成してきた価値観に基づいている可能性がある。そちらに軸足があると、どこかで引っ掛かりがあるだけで、ここで展開した議論は受け入れられないものになるかもしれない。

ただ、そこも含めてもうちょっと踏み込んでみたいという方に向けて、次はどう価値観を設計すると良いのかを書いてみたいと思う。ポイントは、「思っていたのと違う」を減らす事を第一義に考えた場合、何を大事とするのが都合が良いか という事である。


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