見出し画像

“ウォーカブル”の次に来る論点——仙台市長町で実務に関わる中で考える、運用と財源の設計


長町で実務に関わる中で考える、運用と財源の設計

歩道を広げれば、街は本当に変わるのでしょうか。
ベンチを置けば、人は自然と滞在するのでしょうか。
広場をつくれば、にぎわいは日常になるのでしょうか。

長町で実務に関わる中で、最近よく考えるのは、そうした整備の“その先”です。

「ウォーカブル」という言葉は、この数年でかなり広がりました。

国土交通省のウォーカブル推進都市は、2019年12月時点の207団体から、2026年2月時点で401団体まで増えています。

制度面でも、まちなかウォーカブル推進事業や税制、官民連携の支援メニューが並び、全国で「歩きたくなるまちなか」を目指す動きが広がっています。

人中心の空間、歩きたくなるまち、車中心から人中心へ。
人口減少の時代、考え方として、とても大切だと思いますし、私自身も強く共感しています。

ただ、現場に入れば入るほど感じるのは、ウォーカブルの本当の勝負は整備の後に始まるということです。

歩道を広げる。
舗装を整える。
滞留空間をつくる。

もちろん、どれも重要です。
しかし、それだけで街が変わるわけではありません。

本当に問われるのは、その空間を誰がどう使い、どう支え、何の財源で続けていくのかだと思っています。

長町で気になった「道路の切り下げ」

長町で道路の再構成を考える中で、私が強く気になったものがあります。
それが、道路の切り下げです。

駐車場や敷地への出入りのために、歩道が下がっている場所。
街を歩いていると、この出入口の多さが想像以上に気になります。

一つひとつは小さな話に見えるかもしれません。
けれど、歩く側に立つと、これは決して小さな問題ではありません。

歩いている途中で、何度も
「ここから車が出てくるかもしれない」
という感覚が差し込んでくるからです。

つまり、車が出入りする場所は、
人にとっては安心して立ち止まれない場所でもあります。

長町のように、駅があり、住宅があり、商業があり、日常的な人の流れが重なっている場所では、この感覚はとても重要です。

ただ通れるだけではなく、
少し止まれるか。
安心して歩けるか。
歩くこと自体がストレスにならないか。

ウォーカブルというと、どうしても「広い歩道」や「きれいな広場」の話になりやすいですが、現場で感じるのは、こうした細かなディテールの積み重ねが、街の居心地を大きく左右しているということです。

長町には、もともと「日常の力」がある

私が長町の面白さだと感じているのは、この街にはすでに日常の力があることです。

駅を使う人がいる。
買い物をする人がいる。
住宅地から駅へ向かう人がいる。
子ども連れの方もいれば、高齢の方もいる。
行政と商店街、住民が密接な関係にある。

つまり長町は、イベントの日だけ人が集まる街ではありません。
もともと、人の動きがある街です。

これはとても大きな可能性だと思っています。

街をゼロからつくるのではなく、すでにある日常の流れをどう受け止めるか。

通勤の途中で少し止まれる。
買い物の帰りに少し座れる。
子どもを待ちながら立ち話ができる。

そうした小さな滞在が積み重なることで、街の風景は少しずつ変わっていきます。

だから長町で必要なのは、何か特別なものを外から持ち込むことだけではないのだと思います。
むしろ、すでにある日常を、もっと街の中で受け止められるようにすることのほうが大切なのではないかと感じています。

けれど、空間を変えるだけでは足らない

ここで難しいのは、空間を整えればそれで終わりではない、ということです。

仮に歩道が広がったとして、
そこに椅子を出すのは誰なのか。
掃除をするのは誰なのか。
植栽を整えるのは誰なのか。
沿道の事業者と話しながら、日常の使い方を調整するのは誰なのか。

こうしたことは、図面の中にはなかなか描けません。
しかし、実際にはここが最も重要だったりします。

長町のように、道路、沿道、商業、住宅、駅利用が重なり合う場所では、行政だけでも難しいですし、民間だけでも難しい。
誰か一人が頑張れば回る、という構造にはなりにくいのです。

だからこそ必要なのは、空間をどうつくるかの次に、
それをどう運用するかを設計することだと思っています。

誰が日常を支えるのか。
誰が小さな調整を引き受けるのか。
誰が継続の責任を持つのか。

この問いに答えない限り、ウォーカブルは「きれいな整備」で止まってしまいます。

社会実験の成功だけでは、街は変わらない

長町でも、これから先、小さな実験はいろいろできると思いますし、続けていこうと思ってます。

椅子を置いてみる。
道路空間の使い方を変えてみる。
人の歩き方や止まり方を観察してみる。

こうした実験は、とても大切です。
私自身も、いきなり完成形を目指すより、小さく試しながら考えるほうが街には合っていると思っています。

ただ、現場にいると、社会実験の“その先”の問いのほうが、ずっと重いと感じます。

その日だけ盛り上がったあと、誰が続けるのか。
翌週も、来月も、その風景を残せるのか。
一部の熱量に依存せず、日常に埋め込めるのか。

私が長町で本当に考えたいのは、イベントの成功ではなく、日常の更新です。

一回のにぎわいではなく、
何もない平日の午後に、少しだけ居心地が良くなっていること。
そこに人が少し止まっていること。
街の人にとって、その空間が少し自然なものになっていること。

その状態をつくれなければ、街の風景は本当の意味では変わらないのだと思います。

だからこそ、財源の話を避けて通れない

そして、この話を本気で進めようとすると、必ず財源の話になります。

ここは正直、きれいごとでは済みません。

椅子を置くにもお金がかかります。
維持管理にもお金がかかります。
運営する人にもコストがかかります。
調整役を置くにも、当然、人件費が必要です。

けれど、こうした話は整備の議論の中では後回しにされがちです。
デザインの話はしやすい。
しかし、運用費や維持費の話になると、途端に難しくなります。
人によっては行政任せの意見を言う方もいます。

ただ、長町のようにポテンシャルのあるエリアだからこそ、ここを曖昧にしてはいけないと思っています。

街の価値が上がる。
沿道の魅力が高まる。
人の流れが変わる。
結果として便益を受ける人や事業者も出てくる。

一方で、歩きやすさや安心感のように、広く公共として支えるべき価値もあります。

だから財源は、
「行政が出すか、民間が出すか」
という単純な二択ではありません。

公的資金。
受益者負担。
利用収入。
協賛。
小さな事業収益。

そうしたものをどう重ねるのか。
長町で本当に必要なのは、たぶんこの財布の重ね方の設計なのだと思います。

いま必要なのは、平面図の先にある設計

長町に関わる中で、最近ますます思います。

これからの都市計画は、平面図や断面図だけでは足りません。

もちろん、それらは必要です。
しかし、それと同じ熱量で、

誰が鍵を開けるのか。
誰が掃除をするのか。
誰が苦情を受けるのか。
誰が沿道と話すのか。
どこまでを公共が担い、どこからを民間が支えるのか。
どうなったらこの場所は「うまくいっている」と言えるのか。

そこまで描かなければ、本当の意味で街は変わらないのだと思います。

私が長町で考えているのは、まさにそこです。

“ウォーカブル”の次に来る論点は、もっと地味です。
けれど、確実に本質的です。

それは、運用と財源の設計です。

居心地はデザインできます。
しかし、持続性はデザインだけでは生まれません。

長町のように、すでに日常の力を持っている街だからこそ、
その日常を支える仕組みまで設計しなければならない。

いま私は、そのことを長町という現場から強く学んでいます。

いいなと思ったら応援しよう!