チャーチルの戦時執務室を訪ねて 英国滞在10日目
今日は、ウィンストン・チャーチル卿(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill)(1874 - 1965)が、第2次世界大戦中、首相・戦争司令官として指揮をとり、英国を勝利へと導いた戦時執務室を訪れます。
2024年はチャーチル生誕150周年にあたり、来年は没後60年になります。世界で繰り広げられている戦争・紛争に懸念の声が高まる今、チャーチルの指導力や思想が注目を集めています。
チャーチルの戦時執務室
チャーチルの戦時執務室(Churchill War Rooms)は、多くの観光客が通りかかったことがある場所のすぐ近くにあります。ウェストミンスター橋を通ってバッキンガム宮殿に向かう途中にあるのです。

大蔵省(the Treasury)の地下室というか、むしろ地下街といった方がいい施設が、戦時執務室です。入場料は大人£32.00、シニア£28.80と少しお高めですが、これだけのものを管理維持するには経費がかかります。オーディオガイドも料金に含まれていますが、残念ながら、日本語は入っていませんでした。

この地下街には70以上の部屋があり、多い時は500人を超える人が各執務室で働いていたそうですが、当時、外務省や大蔵省などの官庁に勤めていた人でも、ほとんどの人は、その存在も場所も知らなかったそうです。

ホワイト・ホールと呼ばれる英国官庁街にあって、ビックベンの国会議事堂とバッキンガム宮殿のほぼ中間地点に位置しています。首相官邸であるダウニング街10番地に帰るのも、バッキンガム宮殿に当時の国王ジョージ6世を訪ねるのも、絶好の場所でした。
戦時執務室の順路は、チャーチル博物館とつながっています。貴重な遺品や資料の数々が展示され、チャーチルの生涯と業績がよく分かります。

赤い部分は、併設のチャーチル博物館
入口から地下への階段を降りると、いきなりダウニング街10番地(英国首相官邸)の黒光りのするドアが目に入ります。これは、実際に使われていたオーク材製の玄関ドアで、1991年のIRA(アイルランド共和国軍)による官邸爆撃事件の後、現在のものに取って代わられたそうです。
このドアは外からは開けることができません。歴代の首相は、このドアのカギを持たされていないそうです。セキュリティ・ガードが内側から開けることになっています。

まずは、チャーチルのボディガードの部屋がありました。6畳より少し狭い広さです。

ボディガードは相部屋ですね。

この戦時執務室は、英国がドイツに宣戦布告する1週間前の1939年8月27日に使われ始めました。まるで、ナチスドイツによるロンドンへの空爆が激しくなることを予想していたかのうようです。
地下室にあった日めくりカレンダーは、1945年8月16日で止まっていました。日本が降伏するまでに、チャーチル内閣はここで115回の会議を行なったそうです。

ノルマンディー上陸作戦(D-Day)の日、チャーチルは1日中この部屋にいたと言われています
色分けした電話があり、アメリカ大統領とのホットライン(直通電話)もありました


第2次世界大戦の重要な決定はここでなされたそうです
赤い箱は機密書類入れ、その向こう側の椅子にはチャーチル
チャーチルに向かい合うように、陸軍、海軍、空軍の首脳が座る椅子があります

当時の国王ジョージ6世が、チャーチルを訪ねたことがあり、下の写真の部屋で会ったそうです。

このチャーチルの寝室は、作戦司令室(Map Room)の隣に位置しています

2017年公開の映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』 (原題:Darkest Hour)では、当然、地下戦時執務室の場面が数多く出てきますが、スタジオのセットで撮影したものでしょう。でも本物の雰囲気がよく出ていました。
映画で、リリー・ジェイムズが演じていたチャーチル専属のタイピスト エリザベス・レイトンは、おそらく、下の写真にある ”P.M’s Typists”と表示のある部屋で働いていたのでしょう。

Typistsと複数形になっているので、専属タイピストが複数いたのでしょう


鏡台があり、花柄のソファがあります
1940年10月のナチスによる空爆で、ダウニング街10番地の首相官邸が爆撃の被害を受けると、妻クレメンタインと子どもたちは、この戦時執務室の上にある、No 10 Annexと呼ばれる住まいに引っ越してきました。さらに空襲が激しくなるにつれて、クレメンタインは、この部屋でかなりの時間を過ごしたとのことです。

チャーチルを支えた人物の一人
当時タイピストとして、この戦時執務室で働いていジョイ・ハンターさん(Joy Hunter)によると、扱う情報は最新のものであり、ほとんどが高度な機密情報だったので、トイレで席を離れている時間が少しでも長いと、すぐに上司から、「なぜ遅かったのだ」と詰問されたそうです。また、恋人が従軍している部隊が全滅したという情報を知ったタイピストもいたとのことです。
現在では、タイプライターは過去のものになってしまいましたが、チャーチルはとにかく、雑音で気が削がれるのを嫌ったそうです。そのため、タイプライターはアメリカから輸入した、Remington社製のNoiseless Typewriterを使っていました。
タイピストやスイッチボード室で働くスタッフは全員女性で、軍所属ではなく一般市民から選抜された人たちだったとのことです。大半は官庁で秘書として働いていた人たちでした。

地下室とはいえ、電話などの通信設備は、当時の最高の技術で整備されていました。電話も傍聴を恐れて、秘匿性の高いものになっていたようです。スイッチボード室という部屋があり、通信機器全般と外部との連絡管理を業務としていたそうです。

この他にも、スタッフの寝室、キッチン、チャーチルのスピーチをBBCでラジオ放送するための部屋などもありました。全部で70以上の部屋が使われていました。
見学者はほとんどが西洋系の人ばかりで、みなさん、オーディオガイドを聞きながら、かなり熱心に見学されていました。ですから、戦時執務室の各部屋と博物館まで全部見終わるのに2時間以上かかると思います。

下の写真を見て、この人は歴史上、重要な人物ですが、誰でしょうと、聞かれて正解できる人は、どのくらいいるでしょうか。騎兵連隊に入隊した時の20歳のチャーチルです。

彼は20代で自ら志願して、キューバで繰り広げられたスペイン軍との戦闘に参加しました。ゲリラの襲撃など、戦争の現実を初体験します。この時、キューバで葉巻の味も覚えてしまいます。

チャーチルは、ハバナ葉巻を一日8時間吸っていましたが、決して息を吸い込まなかったとあります。彼は90歳まで長生きしました。
見学者には、おそらく英国人もかなり含まれていたと思いますが、こんなにチャーチルは愛されているんだ、ということを見せつけられたような気がします。YouGovというサイトによると、英国歴代首相の中で最も人気のあるのは、チャーチルです。
チャーチルは生涯に43冊の著作を残していますが、1953年にはノーベル文学賞を受賞しています。さらには、「極めて困難な時期に、私を救ってくれたのは絵である」(“Painting came to my rescue in a most trying time”)という文を残していることでわかるように、鑑賞に耐えうる絵を数々残しています。政治家、軍人、文学者、画家と、こんなにマルチな才能を発揮した人物は、歴史上、かなり稀有な存在ではなかったでしょうか。
見学コースを全部見終わって、地上に出てきました。次の予定はバッキンガム宮殿です。宮殿内部に“潜入“します。完全予約制で、集合時間が迫っていたので、急いでセント・ジェームズ公園のわき道を通って、宮殿に急ぎました。ゆっくり公園も散歩したいところですが、後回しです。

この道、散歩していて気持ちが良かってですね。

バッキンガム宮殿への潜入の記事はこちらです。↓ 宮殿内部は写真撮影ができなかったのです。ワイト島のオズボーン・ハウスとフェルメールについても触れています。
前日の9日目の記事もよろしかったら、どうぞ。
