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【小説】極光回路~二つの一等星~プロローグ:舞鶴の海、嘘の鎖

2月21日。
母の命日だった。

この家で、その日を覚えている者は私のほかにいない。

前の日が沙羅の誕生日で、騒ぎは朝方まで続いていた。

広間に残された花とリボン、手のつけられなかった料理、口紅のついたグラス。

その後片づけは昼を過ぎても終わらず、夜になってもまだ片づいていなかった。

私はいつも、勝手口と屋根裏の間だけを行き来して暮らしている。

あの女と沙羅が入ってきてからは、それ以外の場所に長くいる理由がなかった。
顔を合わせずに済むなら、それがいちばんよかった。

けれどその夜は、片づけが終わらないからお前が来い、と使用人に呼び出された。

__母の命日に、よりによって。

広間へ降りると、甘く饐えた匂いがまだ残っていた。
乾いたクリームが皿の縁にこびりつき、金色の紙片が床に貼りついている。 私は膝をつき、それを1枚ずつ拾い集めた。
指先に、洗剤の匂いが移っていく。

奥では、あの女が萎れた花を抜いていた。
私が皿を重ねると、片づけたばかりのそれをわざと1枚、卓の端へ寄せる。 「あなたが触ると、また汚れるじゃない」
沙羅はソファに浅く腰かけ、昨日のままの華やかな服で爪を見ていた。
床にしゃがむ私を見下ろし、口の端だけで笑う。
「そういうの、似合ってる」

——誰も、母の名を口にしない

今日が何の日かを、この家で言う人もいない。
それで都合の悪い人間がいるのだろうとだけ思った。

最後に、あいつが来た。
広間の入口で足を止め、私ではなく、床に散らばったものを見ている。
私を呼び止めたわけではない。
呼び止める価値も、あいつの中ではもう私にはなかった。

母がいなくなってから、私はこの家の厄介者でそれ以上の何かであったことはない。
あいつは通りすがりに、床の私を見下ろして言った。
「藤原の家で、みっともない真似はするな」

——みっともない。
その言葉だけが残った。
その言葉は、私が拾っていた紙片よりも軽かった。

——胸の奥で何かが軋む。
あいつの口から聞きたくない言葉だった。

——その瞬間だった。
うなじの奥に冷たい線が下り、背を伝って胸の奥で熱に変わった。
首の後ろの1点だけ、すうっと熱が抜けていく。
胸元の鎖が重くなり、服の下のルビーが皮膚に沈むように熱を持ちはじめた。
私は布を置いてその場を離れた。

背中に声が触れたけれど、振り返らない。
言葉になる前に切り捨てた。
裏階段を上り天井の低い梯子段をのぼる。
屋根裏の戸を閉めると広間の甘い匂いがようやく遠のいた。
それでも、うなじの冷えは消えず、胸だけが熱いままだった。

窓へ向かい、鍵を外す。
冷えた潮風が、部屋に染みついた紙の匂いを押し戻した。

外は、屋敷中の室外機を配しただけの、殺風景なルーフバルコニーだった。 表からは見えない、歪な場所。
それでも、屋根裏の中よりは空に近かった。
窓枠を越える。
金属の床が、足の裏から冷たさを返した。
手すりに指をかける。
舞鶴の夜が、目の前にひらけていた。
海は暗い。
けれど、湾の上だけが暗くなかった。

__赤かった

日はとうに落ちている。
夕焼けの方角でもない。
街の灯りでも、雲でもない。
海の向こう、空の底から滲み出すように、
紅がゆっくりと広がっていた。

私は動けなかった。
うなじは冷たいのに、胸だけが熱い。
服の下のルビーが、はっきりと熱を持っている。
目を離せないまま、赤がゆっくり厚みを増していくのを見ていた。

どこかで見た、と思う。
そう思った次の瞬間に、思い出した。

——また 9歳の夜。 母がいなくなった、
あの夜。
あのときも、空はこんな色をしていた。

写真に撮り、言葉を添えて流しているのだろう。
けれど私には、

——ただ恐ろしかった。

胸の熱は、いつのまにか引いていた。
空の紅も薄れていく。

私はそれを最後まで見届けた。

——見て、覚えておくこと

8年のあいだ、私にできたのは、それだけだった。

部屋へ戻り、窓を閉める。
冷えた指先がまだ震えていた。
服の上から鎖を押さえると、ルビーの熱がまだ残っている。
木箱を開けると、折れた望遠鏡があった。
レンズの裏側にカビがこびりついて、もう星を見る道具には使えない。

それでも、捨てられなかった。
その隣に、母の手帳がある。
古い革のカバー、中は緑の表紙。
私はそれを胸に抱えた。
そうすると少しだけ息が通る。

ページを開くと、母の字が並んでいた。
その文字を見ると、いつも同じ夜を思い出す。
「天音、見える?」
望遠鏡を覗いたあの夜、私は必死に空を探していた。
「どこ?」
「もう少し上。あの十字」
母の指が夜空をたどる。
私は何度も覗き直した。
小さな星が、黒い空の中でつながっていた。
「白鳥座」
母の声は、夜に溶けても消えなかった。
「代々の女たちが、ずっと見上げてきた星だと聞いたことがあるの」

——代々の女たち その意味は分からなかった。
けれど、母が大事な何かを渡そうとしていることだけは分かった。

「お母さん、私、大きくなったら天文学者になる」
母は笑った。
「そうね。私の、可愛い将来の天文学者さん」
「そしたら、一緒に陸別へ行こうね」
「ええ。きっと、あそこならもっと深く見えるわ」

——陸別 遠い場所。
母が行けなかった場所。
私が、行くと約束した場所。
望遠鏡は折れている。

母はもういない。
それでも、

——約束だけは折れていない

手帳に視線を落とし、ペンを取る。
見たことを書く。
感じたことを消さない。
すぐに名前をつけない。
壊れそうなときは、名前をつける前に止まる。

——母が残した、4本の柱。
8年もの間空白だった、母の字の続きに私を書いた。

2月21日。
夜なのに、湾の上だけが赤い。
夕焼けではない。
お母さんが亡くなった日と同じ色。
うなじが冷えた。
胸が熱い。
ルビーが熱を持った。
理由は分からない。
そこまで書いて、 手が止まった。

__怖い。

その言葉は、書かなかった。
代わりに窓の方を見る。
閉めたガラスの向こうで、湾の上はまだ赤かった。

赤は、私の知らない場所で起きている。
私は何もしていない——
そう書こうとして、やめた。
書けなかった。

手帳の上で、インクだけが乾いていく。


同じ夜、京都。
俺はNSRを流していた。

研究室へは向かわず、マンションまでのいちばん遠い道を選んでいた。

ヘルメットの内側で、胸の奥に覚えのない圧があった。
目の奥で、青いものが一度だけ脈を打つ。

俺は速度を落とした。
理由は分からない。

第1章へつづく__


※この小説の裏話 本作は23年前の構想をベースとしているため、一部設定や描写に当時の社会背景が残る部分がございます。その旨、何卒ご容赦いただけますと幸いです。

これ以降の『極光回路』の章、そしてこれから楽器となっていく私の音楽の創作活動を通じて、将来的には困難な環境にある子どもたち、そして男女関係なく性被害の経験を持ち、生活困難に直面されている方々を支える活動へと繋げていきたいと考えています。

本作は、毎週金曜日の夜に更新予定です。 今後は有料記事およびメンバーシップ限定での配信とさせていただきますが、賜りましたご支援は、創作活動費を除いた全額を、上記の支援金として大切に活用させていただきます。

私の志にご賛同いただけましたら幸甚に存じます。何卒よろしくお願い申し上げます。

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