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妻に煽られ、女子大生に刺され、美容部員に救われる


うちの妻は、ときどき夫を雑に煽る。

ある日、夕飯を食べながら何の流れだったか忘れたけれど年齢の話になった。
若い頃はどうだったとか、今はもう完全に中年だとか、そういう家庭内でしか許されない会話である。

そのとき妻が、味噌汁を飲みながら言った。

「まぁでも、せめて若い子からはモテるくらいにならないとね」

せめて若い子からはモテるくらいにならないとね。

ずいぶん乱暴な励ましである。
励ましなのかどうかも怪しい。
たぶん半分は冗談で、半分は「最近ちょっと気を抜きすぎでは」という生活指導だったのだと思う。

言われたこちらはそうはいかない。
男はどうでもいい一言をポケットに入れて持ち帰り、あとで勝手に育てる生き物である。

若い頃はありがたいことにモテた。商業出版で恋愛本まで出した。こう書くと、マウント取りの感じの悪い中年に見えるが、本当だから仕方ない。

もう昔の話だ。過去の栄光モテ話を握りしめたまま生きる男は、だいたい会話のどこかがカビ臭い。古い武勇伝は抜かなくていい刀みたいなものだ。見せた瞬間にまわりの空気が「はいはい」になる。

だからこそ、少し本気で思ってしまった。
昔じゃなくて、今どうなのか、と。
妻もそう思ったのだろう。

いや、変な意味ではない。若い女性に恋愛対象として見られたいとか、そういう話ではないのだ。ただ、好意は持たれたほうがいいのではないか。

なのに現実の私は、アラフォーどころではなかった。さっきまでアラフォーのつもりでいたが、よく考えたらアラフィフだった。
よく考えなくてもアラフィフだった。
自意識だけが30代に居座っていて、肉体と戸籍がだいぶ先に行っている。



ある日、職場にいる20代の女子大生バイトの子を見て、ふと思った。

確かめてみたい。

今思えば、その「確かめてみたい」が、だいぶ危ない。たいていの事故は、ここから始まる。

職場のバイトの子に言った。

「ねえ、おれとデートできる?」

「え、ヤスさんとですか? え、私が? あ、仕事あるんで行ってきますね」

きれいに逃げられた。
防災訓練の避難レベルだった。

職場の私はかなり冴えない。
よれよれスーツに、ぼさぼさの髪。
プライベートでは発信してたり、コミュニティを主宰したり、講演していることも、ここでは誰も知らない。

知らなくていい気もする。仮に知ったところで目の前にいるのは、少し疲れている中年男性だからだ。

トークには少し自信があった。でもそのトークにたどり着く前にガラガラ閉店した。

勝負は始まる前から決まっている。

いきなり素手で行って、何とかなるわけがない。相手は20代で、こちらは気を抜くとただの「ちょっと距離感の危ないおじさん」だ。

必要なのは会話力じゃなかった。
配慮と導線である。

なので、コンビニに行くついでに聞いてみた。

「何か食べたいものある?」

「え、いいんですか? お父さんみたい」

お父さん。

言葉としてはやわらかい。
やわらかいのに、腹に入ると重い。
マシュマロの顔をした鉄球みたいな言葉だ。

「お父さんって何歳くらいなの?」

「45か46くらいだったと思います」

年下だった。

一瞬、職場の床がすこし沈んだ気がした。
そうか。
私は「年上の男」ですらなく、もう「父親の棚」に置かれる年齢なのか。

長男は高2だし何もおかしくない。おかしくないのに心だけがまだ勝手に30代を名乗っていた。心というやつは住民票を見ない。

恥ずかしくなった。
何をやっているんだろうと思った。
何も起きていないのに、ひとりで未遂セクハラみたいな顔をしている。

ところが、そのあと彼女が言った。

「でも、奢ってくれるならデートくらいできますよ」

まさかのOKである。
もちろん社交辞令だ。
そんなことはわかる。
わかるのだが、人は自分に都合のいい社交辞令だけは一度きちんと受け取る生き物でもある。

「え、ほんとですか。嬉しいです」

私は敬語になっていた。うれしい時の中年は少し丁寧になる。

「でも、おっさんっぽい人と並んで歩くのはキツいっすね」

完璧だった。
上げて、落とす。
正論で、壊す。

「そりゃそうだよね。友だちに見られたらまずいよね」

「変なバイトしてるって思われそうですもん」

それは本当にそう。

私はその日、自分が若くないことを知ったわけではない。そんなものとっくに知っていた。ただ自分の年齢って、鏡で見るより他人の一言で知るんだなと思った。

帰り道、メンズコスメを調べた。
アンチエイジングとか、スキンケアとか、そういう美容単語を必死に摂取した。

モテたいというより。
もう少しだけ、ちゃんとして見られたい。

清潔で、話しかけやすくて、できれば「キツい」とまでは思われたくない。

若い頃みたいなモテ方は、たぶんもうしない。でも年齢には年齢の見え方がある。仕様変更だ。

とりあえず私は百貨店のコスメ売り場に向かった。中年はお金ならある。

人生はときどき、化粧水から始まる。



コスメ売り場は、どうしてあんなに光っているのだろう。床も、棚も、人も光っている。何なら「毛穴」という単語すら、あの空間に入ると少し輝いてすらいる。

さっきまで職場で「お父さんみたい」と言われていた男が来る場所ではない。場違いもここまでくると立派な観光である。

入口で一度ひるんだ。
帰ろうかなと思った。
ドラッグストアでニベアでも買って帰れば、それはそれでいい人生なのではないかと。

今日は違う。
今日の私は女子大生に「おっさんと並んで歩くのはキツい」と言われた男である。

覚悟を決めて足を踏み入れた瞬間、すぐに来た。

「いらっしゃいませ。本日は何かお探しですか?」

美容部員さんだった。

白い。
いや、肌の話ではない。存在が、白い。
清潔感が服を着て、その上からさらに清潔感を羽織っている。顔のパーツが全部「ちゃんとしてます」という方向を向いている。
こちらはちょっと油断すると「昨日、床で寝ました?」と言われそうな顔である。

「ええと、その……」

ここで見栄を張るのは危険だ。プロに中途半端な嘘は通じない。野球未経験者が甲子園の監督にフォームの話をするくらい無理がある。

「若返りたいんです」

美容部員さんは一瞬も笑わなかった。それどころか医師が問診票を受け取る時みたいな落ち着いた顔でうなずいた。

「かしこまりました。どういった点がお気になられますか?」

どういった点。
すごい質問である。
全部です、と言いたい。

人生の後半に差しかかった男の「気になる点」を一項目で済ませるのは乱暴すぎる。
顔、首、髪、姿勢、疲れ、諦め。
どこからが美容で、どこからが哲学なのかもわからない。

「ええと……こう……全体的に……“おっさん”が出てまして」

私はもう少しマシな言い方ができないのか。
noteで鍛えた語彙力は、なす術もなく迷子だ。

美容部員さんは、またしても笑わなかった。この人、相当に訓練されている。百貨店に配属された特殊部隊である。

「乾燥やハリ感の低下、くすみ感などでしょうか」

翻訳してくれた。
ありがたい。
こちらの雑な絶望を変換してくれた。
これがプロである。

「たぶん、それです。あと、こう……女子大生から見て“なんかキツい”感じを、少しでも薄めたくて」

美容部員さんのまつ毛が、ほんのわずかに揺れた。たぶん動揺ではなく情報処理である。
この客はいったい、誰と、何が、あったのか。
そして、なぜこんなに正直なのか。

「普段、スキンケアは何かされていますか?」

基礎問診だ。
ここで「洗顔くらいですかね」と軽く答えると、たぶん向こうは「ああ……」となる。
しかし事実は事実である。プロを前に嘘はつけない。

「顔は洗ってます」
「はい」
「お風呂で」
「はい」
「ボディソープで」

その瞬間。
美容部員さんの顔に、ほんのわずかだけ人間が出た。
0.2秒くらい、「えっ」が見えた。
すぐ消えたけど、私は見逃さなかった。
今のは確実に「えっ」だった。

「お顔は専用の洗顔料をお使いいただいた方がいいですね」

やさしい。
言い方がやさしい。
初夏の蝶々みたいな口調で注意してくれる。

「やっぱり違うんですか」
「かなり違います」
「そんなに」
「かなりです」

「かなり」を2回言われた。
ボディソープ洗顔は、かなりなのだ。
これまでの顔面人生がかなりで処理された。

ショックだけど、学びもある。
人はかなりの後にしか進歩しない。

美容部員さんは棚から何本か持ってきて並べた。
洗顔。化粧水。美容液。乳液。
急にパーティメンバーが増えた。

「まずは洗顔と化粧水、乳液からで十分ですよ」
「十分?」
「はい。最初から全部やろうとすると続かないので」

見抜かれている。
私が3日で飽きる男だと見抜かれている。
客の毛穴を見る前に、性格を見ている。

「ちなみに、どれくらいで変わりますか」

中年男性が美容に求めるものは、だいたい魔法である。
半年かけて丁寧に整える、ではない。
3日で何とかしてほしいのである。
無茶である。

「肌は今日からでも手触りは少し変わります。ただ、見た目として実感しやすいのは数週間からですね」

誠実。
ここで「明日には別人です」と言わないのが信頼できる。夢を売りつけるのではなく現実を磨いてくれる人だ。

「数週間」
「はい。あと、睡眠と食事も大事です」
「出た」
「はい?」
「いや、美容の話って最終的にいつも生活習慣に戻ってくるなと思って」
「戻ってきますね」
「ですよね」
「肌は正直なので」
「つらいですね」
「つらいですね」

初めて共犯関係が生まれた気がした。
この人は敵ではない。ただしプロである。

「あと、可能であれば日焼け止めも」
「男もですか」
「男もです」
「毎日ですか」
「毎日です」

毎日だった。
紫外線は男女平等なのだ。
太陽、そこだけ律儀にフェアである。

私は売り場の小さな鏡を見た。そこには少し疲れた男がいた。

若くはない。
でも、別に終わってもいない。
ただ、今まで“何もしてこなかった顔”をしていた。

「じゃあ、その……日焼け止めは今度にして、最初の初心者パーティみたいなやつで」
「かしこまりました」

美容部員さんが商品を包みながら聞いた。

「きっかけ、何かあったんですか?」

一瞬だけ迷ったが、ここまで来たら隠しても仕方ない。プロを前に嘘はつけない。

「職場の大学生に、お父さんみたいって言われまして」
「なるほど」
「そのあと、おっさんっぽい人と歩くのキツいって」
「……なるほど」

この「なるほど」には、たくさんの意味が入っていた。同情。理解。少しの気の毒。そして「それは堪えますね」である。

会計のあと紙袋を受け取る。
そこに少しだけ未来が入っている感じがした。

帰り際、美容部員さんが言った。

「無理に若く見せるより、清潔感があるだけで印象はすごく変わりますよ」

その言葉はやけに静かに素直に刺さった。
若返るんじゃない。ちゃんとする、でよかったのだ。

店を出てガラスに映った自分を見る。
見た目はまだ何も変わっていない。
ただ紙袋を持っているだけで、少しだけ“あがいている人”に見えた。

その夜、化粧水を手に取った。
適量、と書いてある。

私はこの年まで、適量という言葉からずっと逃げて生きてきた。お酒も努力も愛情も、だいたい多すぎるか少なすぎるかだった。

とりあえず、少し多めに出した。
もうこの時点で前途はあやしい。
顔につける。
ぺたぺたする。
鏡の中の私は、昨日と同じ顔で、昨日より少しだけ本気だった。その日はアンチエイジングというより反省会に近かった。



翌朝。
洗顔をする。美容部員さんに教わった通り、もうボディソープは使わない。
あれは顔に対して、ずいぶんかなりだったらしい。

長年いっしょに風呂へ入り、何の疑いもなく顔面まで任せていたが、あいつはどうやら体の人だった。部署が違ったのである。

洗顔料を泡立てる。
泡というものはあれだけでもう自分を大事にしている感じが出る。昨日までの私は顔を洗っていたというより、顔を処理していた。
今日は、いたわっている。

化粧水をつける。
乳液もつける。
鏡を見る。

……わからん。

正直、まださっぱりわからん。
肌が変わったのか、ただ顔が少し湿っているだけなのか判別不能である。

でも、手触りは少し違う気がする。
気のせいかもしれない。

こういうときの中年男性は変化を見つけたいあまり、身体のどこかが「効いてる」と思いがちだ。耳たぶの様子まで探る。
それでもいい。
美容の最初の一歩なんて、だいたい思い込みから始まる。

服も少しだけ気をつかった。
新しめのシャツを選び、髪も整える。
整えると言っても、爆発を鎮圧した程度だが、明らかにマシである。少なくとも「ちょっと海風の強い岸壁から来ました?」みたいな頭ではない。

家を出る頃には、私は少し期待していた。

何を、とは言わない。
いや、言う。
言われたかったのだ。

「え、ヤスさん、なんか今日つやつやしてません?」

この一言を。

別に大げさでなくていい。
「なんか雰囲気ちがいますね」でもよかった。
「よく寝ました?」でもいい。
要するに肌の変化に気づいてほしかったのである。

男という生き物は他人にあれだけ鈍感なくせに、自分の努力だけはすぐ見つけてほしがる。じつに勝手だ。

職場に着く。
バイトの女子大生がいた。

いた。

なるべく自然を装った。
おはようございます。
向こうも、おはようございます。
ここまでは普通だ。
問題は、このあとである。

相手の目線が一瞬こちらに来る。
来た。
来ましたよ。
見た。今、見た。
これは来る。
来るぞ。

「今日、整備する所が多いらしいです」

業務連絡だった。

ちがう。
そうじゃない。
整備の話ではない。
私は今、肌の話をしているのだ。
こっちは顔面整備に新しい予算を投下している。そっちは施設整備の話をしている。会話のレイヤーが違う。

「そうなんだ」

仕事の話を無視するわけにはいかない。

だが内心では、まだ終わっていなかった。
まだ一言目だ。
あとから本題へ入ることもある。
きっとそうだ。

しばらくして、事務所で二人きりになる瞬間があった。
好機である。
顔がよく見える距離だ。
自然光ではないがオフィスの照明も悪くない。

彼女がこちらを見て言った。

「ヤスさん、これシール貼っといてもらっていいですか?」

シールだった。

今日の私は、つやつやではなくぺたぺたシールだった。

それでもまだ諦めなかった。人間、期待しているときだけ希望に対して異常な執着を見せる。

数時間経過しても、誰も何も言わない。
誰一人、私の肌のうるおい革命に触れない。
昨日までと同じ男として扱われる。
実際、ほぼ同じなのだろう。
一晩で中年男性の印象が劇的に変わるなら、美容業界はもっと奇跡の布教をしている。

しかし私は何を期待しているのだろう。
二十数年まともに何もしてこなかった顔面が、たった一晩で「おっ」となるわけがない。炊飯器ですら早炊きに限界があるのに。

終業間際、女子大生バイトが、ふとこちらを見て言った。

「ヤスさん、今日なんか……」

来た。

来た来た来た来た。
遅かったが来た。
ついに来た。
人は本当に嬉しいとき、一瞬だけ呼吸を止める。

「今日なんか、機嫌いいですね」

肌ではなかった。
つやでもなかった。
私はご機嫌だったらしい。

見た目が一日で変わらなくても、何かを始めた人間は少しだけ機嫌がよくなる。昨日まで諦めていたことに手をつけた人間には、うっすら前向き微粒子が出る。
あれを、彼女は見ていたのだ。

「そう?」

「なんか、昨日より話しかけやすいです」

その一言はなんだか効いた。

結局、モテるとか若返るとか、そういう派手な話ではなかったのだ。

肌を整えると顔が変わる前に態度が変わる。態度が変わると空気が少し変わる。人が見ているのは案外そこなのかもしれない。

まぁそれでも、鏡を見た私は思った。

いや、でも、
ちょっとはつやつやしてない?



手応えを感じた私は調子に乗ってあの店へ2回目の相談に行った。

いや、手応えと言っても大したものではない。
「今日なんか機嫌いいですね」
「昨日より話しかけやすいです」
たったそれだけだ。

たったそれだけなのに、中年男性には十分すぎた。砂漠で小さな水溜まりを見つけたラクダくらいには元気になれる。人は希望が少ないほど、小さな変化を大事に抱く。

私は、その日かなり浮かれていた。

先日までは「女子大生から見てキツいおっさん」だった男が、「昨日より話しかけやすい人」になったのである。
大進歩である。
ゼロと1の差は大きい。人類だって最初の一歩はたぶんそんなものだ。大志を抱こう。

例の店へ向かった。先日、私の顔面の歴史に「洗顔料」という文明をもたらしてくれた美容部員さんのいる店である。

前と同じあの人がいた。
白い。やっぱり白い。

私は少しスキンケアをしたくらいで、なぜか少し仲間みたいな顔をしている。図々しさにも保湿が必要だと思った。

こちらに気づいたようで、にこやかに会釈した。私は告げた。

「先日はありがとうございました」

すでに一回この人に「若返りたいんです」と告白している。美容売り場において、あれはほぼ半裸である。
だから2回目は少し気が楽だった。
恥は一度かくと通行証になる。

「いえ、とんでもないです。その後いかがですか?」

病院の再診みたいだ。
経過観察である。

「それがですね」

ここで私は少し声を落とした。
なぜか報告会の感じが出る。

「職場の若い子に“昨日より話しかけやすい”って言われまして」

美容部員さんはきれいな笑顔でうなずいた。

「すごくいい変化ですね」

すごくいい変化。
言われてみればそうである。
私は内心「つやつやしてません?」待ちだったが、第三者の口から整えてもらうと話が急にちゃんとして見える。
この人はすごい。
私の雑な感情をずっと翻訳してくれている。

「まぁ、本当は見た目の変化を期待してたんですけど」
「お気持ちはとてもわかります」
「でも、機嫌がよく見えたらしいです」
「スキンケアを始めると、気持ちが前向きになって表情が変わる方、多いですよ」

またしてもこちらのしょうもない浮かれを正しい話に着地させてくる。
この人、美容部員というより半分カウンセラーではないか。

私はちょっと気をよくしてしまった。人は自分の変化を肯定されると、すぐに次へ行きたくなる。
筋トレ初日の男がプロテインに拘るのと同じである。まだ腕立て8回しただけなのに、気持ちは湘南の海へ行っている。

「それで、今日はもう一段階いきたくて」
「はい」
「もう少しこう……“ちゃんとしてる感”を足したいんです」
「なるほど」

美容部員さんは少し考えてから、視線を私の顔に置いた。
職人の目だった。
私の顔を見ているのに責めている感じがまったくしない。
ありがたい。
中年男性は女性に顔を観察されるだけで少し反省した気持ちになる生き物なのである。

「もし続けられそうでしたら、やはり次は日焼け止めですね」
「日焼け止めですか」
「はい。これからの紫外線対策は、かなり大事です」
「でも私、基本インドアで」
「通勤でも当たりますし、窓からも入ります」
「窓から?」
「はい」
「紫外線って、タケコプターを付けたドラえもんみたいに来るんですね」

美容部員さんが少しだけ笑った。
勝った。
いや別に戦ってはいないのだが、この人の笑いを取れるとちょっとうれしい。でもここは、よしもと漫才劇場ではなく、しっとり保湿聖地である。

「あと、可能なら眉も少し整えると印象変わりますよ」

来た。
新しい扉だ。

「眉って、整えるもんなんですか」
「はい。眉がぼんやりしていると、疲れて見えやすいので」
「何もしなくても疲れてるのに、眉まで加担してくるんですね」
「見た目は、わりと正直です」

眉というものを私はこれまで完全に“生えてくるもの”としてしか認識していなかった。雑草の扱いである。
たしかに若い人って眉がちゃんとしている。ちゃんとしている人は、眉もちゃんとしている。あれは偶然ではなかったのだ。

「自分でできますかね」
「最初は難しいので、サロンやカウンターで見てもらう方も多いです」
「眉を、見てもらう世界……」

人生にはまだまだ知らない業界がある。
最近まで私は顔をボディソープで洗っていた男なのだ。眉の相談窓口が存在する社会にまだ気持ちが追いついていない。

美容部員さんは棚から日焼け止めをいくつか出して説明してくれた。
ジェルタイプ。乳液タイプ。ベタつきにくいもの。すぐ落とせるもの。

美容の世界はふわっとしているようで案外かなり現実的だ。夢を売っているようで、実際は「続けられるか」「落としやすいか」「朝に面倒じゃないか」の話をしている。
こういうところに私は信頼を寄せる。

「ちなみに、どのくらいで“ちゃんとしてる感”って出ますか」

また魔法みたいなことを聞いてしまった。
この悪い癖は直らない。努力は短期で回収したいし、成果は他人の口から聞きたい。

美容部員さんは困った顔をせず、静かに言った。

「大きく変えるというより、少しずつ“雑に見えない”方向に寄せていく感じですね」

雑に見えない。

若く見えるでもなく、イケオジになるでもなく、雑に見えない。

思えば私は、ずっとそこをサボっていた。
若い頃にちょっとモテたことがあるせいで、何もしなくても何とかなる気がどこかに残っていた。

でも今は違う。年齢を重ねた人間に必要なのは、輝きより整備なのだ。

中古車だってピカピカの新車にはなれないけど、きちんと手入れされていたら「お、いいですね」と言われる。たぶん人も同じだ。

「じゃあ、それください」
「ありがとうございます」

商品を包んでもらいながら、私は少し迷って聞いた。

「こういうの、急に始める男って、やっぱり多いんですか」

美容部員さんは微笑んだ。

「多いですよ。何かきっかけがあって来られる方が多いです」
「たとえば?」
「写真をみて驚いたとか、昔の自分との違いを感じたとか、誰かに言われたとか」
「誰かに言われた、は強いですね」
「強いですね」

やっぱりそうなのだ。
人はだいたい、自分では変わらない。
誰かの一言で鏡を見る。
私もそうだった。
妻の雑な煽りと、女子大生の正論。
あれがなければ、今も私はボディソープで顔を洗い、気持ちだけ30代を名乗っていたと思う。
店を出る前に言った。

「ありがとうございます。なんか……人生を少し立て直してる感じがします」
「それはよかったです」

店を出る。ガラスに映った自分は美容前と美容後で劇的には変わっていない。

でも、なんだか雑ではなかった。
それだけで少し足取りが軽い。

モテたい、なんて言葉で始まった話だったけれど、ほんとうは違ったのかもしれない。若い子にどう見られるかじゃなく、年齢に対して雑なままの自分が少しずつ恥ずかしくなってきたのだ。

ちゃんとする、は地味だ。
地味だけど、効く。

美容って顔を変える技術というより、生活の雑さを一個ずつ拾い上げる作業なのだろう。

新しく買った日焼け止めを棚に置き、しばらく眺めた。
白いチューブが一本あるだけなのに、ちゃんとした人生の入口みたいに見えた。

まぁ、明日の朝には
「どの順番で塗るんだっけ」
と混乱する気もしたけれど。



数日後、妻が言ってきた。

「なんか最近、ちゃんとしてきてて腹立つ」

褒めるなら褒めるで、もう少し祝いの空気を出してほしい。
人は見た目を整えたあと拍手に近いものを期待する。なのに返ってきたのは、ご立腹だった。

「いや、あなたが言ったんやん。せめて若い子からはモテるくらいにならないとって」

「だからって、ほんとにやる人いる?」

いるのである。
雑な一言を胸ポケットで発酵させて、本気にしてしまう中年男性が。ここに。

「で、どうなの。若い子にモテたの?」
「いや、別にそういうわけじゃ」
「じゃあ何」
「何っていうか……」

何なんだろう。
女子大生に話しかけて、父親世代だと知って、美容部員さんに教わって、眉の世界が存在して。

そんなことをしているうちに、だんだん話が変わってしまったのだ。

若い子にモテたいわけじゃなかった。
イケおじになりたいわけでもなかった。
年齢に対して雑にしたまま生きるのが、少し恥ずかしくなっただけだった。

いや、たぶん、それだけでもない。

毎日いっしょにいて、いちばん私の“雑さ”を見てきた人に「最近ちゃんとしてる」と気づいてもらうことだったのだと思う。

「……まぁ、誰かに喜んでほしかったのかも」

私がそう言うと、妻は一瞬だけ黙って味噌汁を飲んだ。この人はすぐ甘いことを言わない。言わないまま、ちょっとだけ口元がゆるむ。

「ふーん」
「何、その反応」
「いや、遅いなと思って」
「遅いって」
「もっと早く気づきなよ」

若い頃みたいにモテるかどうかなんて、そんなに大事じゃない。大事なのは、くたびれたまま雑に年を取らないこと。
目の前の人に、ちゃんと感じよくいること。
そういうことだったのだろう。

美容って若返るためのものじゃないのかもしれない。誰かに見せびらかすためでもない。暮らしの中で、もう一度ちゃんとするためのものなのだ。

私がほんとうにモテたかったのは、女子大生にではない。

ずっと前から家にいる、この人にだったのだ。

#創作大賞2026
#エッセイ部門

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