知恵という優しさに包まれたなら、きっと

今日は楽しかったな。
足取り軽く、家路に向かう私。
何が楽しかったのだろう。今日あった出来事を思い返してみる。


えっと。前から気になってたカフェへチーズケーキを食べに行ったでしょ。そこで、「どうしてチーズケーキに黒コショウを合わせようと思ったんですか?」と尋ねたんだよね。
聞こうか聞くまいか、散々心の中で葛藤して。やっと尋ねると決めても、言い出すタイミングが計れなかった。もだもだすること数回。やっとこさ尋ねることが出来た。

そしたら、とてもいっぱい話してくれて、嬉しかったな。スパイス好きゆえの発想で、チーズケーキに黒コショウを思いついたこと。合わせる黒コショウも厳選していること。万人好みか、通好みかでスパイスを選んだこと。他の食べ物と意外に合うスパイスの話。
いっぱい、いっぱい話してくれた。教えて下さる知識もさることながら、話してくれる店員さんの考え方、悩みながら決めた過程、「これだ!」に出会った瞬間の嬉しさを聞いたとき、私も本当に嬉しかった。


ああ。そうか。自分の大切にしているところが、ぽんと浮き上がってきた。私が欲しているのは知識ではない。知恵だ。

私は「チーズケーキと黒コショウがいかに合うか」という知識よりも、いかにしてその発見に辿り着いたかという、その人の辿り着いた知恵に興味があるんだ。
知識が欲しいだけなら、ネット全盛期のこの時代、さくっと調べて終われる。それをお店に行って、尋ねてる。
自分の心が満たされたと思ったから、今日は楽しかったと思ったんだ。
知恵にその人の実感が伴っていれば伴っているほど、とてもキラキラした素敵なものと感じる。

ふと、普段の自分にて、仲間の輪に入りたいのに入れない、意気消沈していることを思い出した。
印象的なこと言わなくちゃ。相手の気を惹かなきゃ。この場を盛り上げたい。だから正しいことを言えば大丈夫。
自分の奥の方にある欲望だ。欲望から自分の導いてきた答えは、「正しいことを言えば大丈夫」だ。

でも実際は、その場にあった正しい会話探しをしてる間に話題は流れるし、私は何も言えない。なんか私ってダメだな。ちゅーんて落ち込んでゆく、私のよくあることだ。

ふと疑問が湧いた。
正しいことって何なんだ。自分へ問うてみた。


正しいこととは、私は知識だと思った。知識ならネットでぽんだ。
膨大な絶対解である知識を相手が知りたいのなら、相手が自分で検索すればいい。
私が何を感じたか、何を思ったか。自分の実感、感触を言う。正しい知識に固執するんじゃなく、私にとっての知恵を言えばいいんじゃないか。閃いた。でもいざ知恵を言わんと想像したら、怖いと感じた。何で怖いのだろう。

知識を相手に言うよりも、知恵を言って相手が受け取ってくれなかい方が、私は寂しい。傷つく。だから怖いと感じたのか。だから知識へ私はこだわってたのか。
傷つきたくなかった自分へ気づいた。

さて、実際に知恵を言うことは、知識を言うよりも傷つくのだろうか。それはその場次第だろう。自分の思いを込めて言った知恵が素通りされれば、そりゃ傷つくと思う。
でも私は思う。知恵を聞きたくて、カフェに出向いた私は、稀有な存在だろうか。カフェに出向くかはさて置き。相手の話を聞きたい、知りたいという好奇心は、みんなの心に大なり小なりある。人は知りたい存在だと思う。何を知りたいかは、個性があると思っている。

正しい知識にこだわらず、自分の実感から育てた知恵を私は言ってみようと思う。
少なくとも私は、相手の知恵を聞きたい存在のひとりだ。私の知恵を聞きたい人も世の中にはいるはず。
自分の存在が、知恵を発してみようとする自分へ、勇気をくれる。

さて、どうなるかしら。まずはやってみようと思う。

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