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母の最期の愛を、しかと受け止める

戻ったとて、その先の未来は何ら変わらない。そうだとしても、私は再び訪れたい過去があります。母と話したあのひと時へ、声を、思いをしかと受け止めに行きたい。いまも強く思ってます。

母は数年前に亡くなりました。享年61歳。半年に満たない治療期間でした。原因となる病気が分かったのは、年の瀬も迫った、まさに私が仕事納めだった日。まさかそんなことを言われるとも思わず、母からのラインを読んで息をのみました。

「『がんの可能性がある』て言われた」
この一文から、怒涛の日々が始まったのです。

いろんな検査を経たのち、病気は悪性胸膜中皮腫だと分かりました。中皮腫とは肺がんと似てます。違いは患者数が少なく、治療法も限られてること。想定しないまさかの病気であったがゆえ、発見が遅れました。そして重ねるように、末期の状態で発覚したレアケースともなってしまいました。

判明した途端、家族一同パニックです。昨日まで自転車を漕いでた人が、まさかそんな、そんなバカな。だって今までなんとも無かったやん。

確かに多少は痛がってたけど。どこの診療科に行ったとて、これっちゅう原因は分からず、「気のせい」ぐらいの診断だったし。それに、だって、たとえガンとて年単位で移り変わるのに、母の病状では数ヶ月、ないしは週単位での覚悟もせえってどういうことよ。

わたしは病院勤めの薬剤師。がん患者さんはじめ、多くの患者さんへ薬の指導をしてきました。そうして日々吸収してきた生きた知識だったはずなのに、母の身に起こってる現実は、今までと全然違う。もはやどんどん乖離してく。ウソ、ウソ、ウソだ。全くもって理解が追いつきません。

でもそんなこと言ってる場合じゃない。わたし、しっかりしなきゃ。家族で唯一の医療者で、長女で、母が治療をすることになった病院の職員だ。そして何より、母さんの娘なんだ。往復ビンタで叱咤するがごとく、己を駆り立てました。

でもどうやっても、頭が追いつかない。自分がもどかしく、なんてパッパラパーだと、これほど自覚したことはなかった。中皮腫て何よ。どうすりゃいいのよ。医師へお任せしてるとはいえ、その診断の説明にもついていけないほど、知識に乏しい私。

うだうだ言うとらんと、今こそ歯を食いしばれ。ここでやらなくてどうする。攻め立てるように自分へ檄を飛ばし、お風呂場で泣くことが唯一のストレス発散でした。

思えば、母さんには全てお見通しで。なんなら私だけでなく、父や弟たちのそれぞれが抱えてる葛藤も、その全部に気づいてた。

抗がん剤での治療はもう望めず、家で療養してたある日のこと。母は途切れ途切れに、声を発しました。いわく、痛みがどんどん強くなってきてると言うのです。

もはや元気だった頃のように喋ることができなかった。でも母は話を続けました。一音、一音に、命を賭すように、力を込めて、わたしへ伝えようとしてくれた。

「でも、これは必要な痛み」
「○○ちゃんも、お父さんも『もう限界』て顔をしてる。だからこれは必要な痛み」

痛みが強くなるとは、母にとっては死を意識するということ。死することで、わたしたち家族を楽にするってどういうことよ。母さん、いつからそんな恐怖と対峙してたんだ。家族のために、どうしてそのどデカい恐怖をも受け入れようとしてんのよ。

わたしはかける言葉を持ち合わせず、ただただ泣きました。どんなセリフも違うと思った。母さん、母さんと、繰り返しつぶやくように言うのが精一杯で。伝えたいことは、ありがとうでも、ごめんねでもない。わたしは何も言えなかった。

この後の未来を生きてる今となっても、わたしは未だ何も思いつかない。母が決死の覚悟で言った思いへ応えられる言葉を、やっぱり持ち合わせてない。

そんなわたしだけど、あの瞬間に戻れるなら戻りたい。ただそばにいて、母の思いをしっかり受け止めたい。一緒にいることで、ちょっとでも恐怖がやわらぐのであれば、ただそばにいたい。

たぶん、だけど。母の死を通して、多くのものを受け取ったわたしだから。いまのわたしとて、気の利いたことは何も言えないけれど。でも過去よりもちょっとだけ、受け止められる器は大きくなってるはずだから。

母が少しでも穏やかに、やわらいだ気持ちから私へ伝えられるように。今のわたしが駆けつけられるものなら、駆けつけたい。強く願うのでした。

では また

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