【読書メモ】『役に立たない読書』(著:林望)
現在は、メディアにのせられて、読む必然性のない人たちまでは読むことによって、ある種の本がベストセラーになっている。ひと言でいえば、こうした現代の「作られたベストセラー」を読む必要はないと私は考えます。
地元図書館をブラウジングしていて手に取った一冊。ここ最近、図書館の利用頻度が上がっているのですが、いわゆる「最新」の書籍を追わなくなってきているのも影響しているかなと、個人的には思っています。
書評を読んで、もしも食指が動いたのなら、読めばいい、ただそれだけのことです。
食指が動かない本は、自分にとって縁のない本、とそう思っています。
少し前までは「本屋大賞」などの各種文学賞で取り上げられている作品なども気にしていたのですが、そうして手に取った本に対して「のめり込む」ような体験をすることが減っている、と感じる事が増えています。
自分は今までにどんな本を読み、何を思い、どのように考えてきたのか、そんな「自分史の象徴」としての書棚・書庫ができ上がっていくのです。
ようは「食指が動く」きっかけが変わってきているのかな、と見立てていますが、書棚をブラウジングして引っかけてくるとの「出会い方の主流」は変わらずと思うので、それだけ「自分の中での基準」が定まってきているのかなとも。
あとはまぁ、10年、20年前と比べて残された時間の方が少なくなってきているのをより実感しているので、リソース配分に対する意識も変わってきているのかもしれませんが、、年を取るとは(略
読みたいものをじっくり精読する、読みたくないものは読まない、読んでみてつまらないと思ったら、さっさと読むのをやめる、これが私の読書法です。
くだらないと思うなら取り上げなければいい、単に黙殺すればいいのです。
これは確かにそうで、必要がないのに無理に読むコトもないかな、と思います。その上で「途中で止めた書籍」に対してもグダグダ言わずに「黙殺」すればいいとのお話も、全くその通り、と。
歴史の本であれ昆虫の研究書であれ、自分の興味のある分野の本をまず一冊手に取ってみる。
(中略)
良い読書とはこのように、内的な契機から発展して、生きた知識が上積みされて好循環をなしていくものなのです。
どうせ同じ"時間"を使うなら自分にとって楽しい方に振り分けたいもの。それこそ自分の知識を知恵として昇華していく方がはるかに楽しいですし、有益でしょうしね、顔も見えないモノに罵詈雑言を重ねたところで欠片も糧にはならんです。
人生はできるだけ楽しく、豊かに送りたい。
その豊かに楽しく生きることの秘鍵が、すなわち自由な読書ということなのだ、強制された読書でなくて。
「読書に貴賤なし」とはまさしくそうで、スルッと肚落ちしてきました。自分自身が楽しいと思うものは、結局のところは自分で見つけて「読もうと自らで判断する」しかなく、他者に押し付けられるものではないでしょうし、また、他者に押し付けるものでもないよなぁ、とあらためて。
日本人はこの、文字を「グラフィック情報として味わいながら、テキスト情報として理解する」という特異な文化を、千年以上続けてきました。
ちなみに個人的に印象的だったのはこちらの一節。さすが国文学者との解釈。実は日本語って、ものすごく恵まれている表現手法なのではないでしょうか、なんて思ってみたりも。
『源氏物語』は紫式部の娘時代に父親が越後勤めとなった時に同行、その頃から書き始めたという説がある。『源氏物語』はダンテの『神曲』よりも300年前に書かれており、しかも、『神曲』とは異なり、本物の小説であった。
さらに重要なことは、この膨大な小説が世界で最初の小説であることである。それを女性が書いていることで、しかもそこに使われている膨大なる言葉の中に漢語がほとんどないということである。
(「PRESIDENT Online(渡部昇一)」2023年11月5日)
漱石の言語環境とほぼ同じであることから、自然にその呼吸が感得できるというか、自分の言葉のように感じられるのです。おそらく誰にもそういうところがあると思います。
1000年も昔から母国語で「小説」が読めるとの環境、よくよく考えてみれば、相当に幸せなんでしょうねぇ、これは、大切にしていきたいよなぁ、なんて風にも思いながら。
余談ですが、「世界最古の小説は日本でしかも女流ってのをどう思われます?」ってのを、とある界隈の方にもうかがってみたいですねぇ、、欧米のアレな集団も含めてですが。
