【映画レビュー】 「エイリアン2」はなぜ最高傑作なのか
タイトルに「2」のつく映画のうち、最高傑作は「ターミネーター2」か、はたまた「エイリアン2」か、というのは映画好きにとってある種古典的な議論だ。
私は残念ながら今日に至るまで「エイリアン2」を見たことがなかったので、この議論に参戦したことなかった。強いて言えば、そして正直に言えば、「ターミネーター2」に比肩するような「2映画」などあるはずないのではないか、とそんな風に思っていた。
しかし、「エイリアン2」の鑑賞を終えた今、この古典的な議論に対して、全く異なる感想を抱いている。
すなわち━━、
この議論の目的は、両者に白黒つけることではない。この議論は、大ヒット映画の続編におけるコケ率の高さを見事に跳ね返した稀有な例外を称賛するところに、あるいは、端的に巨匠ジェームズ・キャメロンを盛大に讃えることに真の意図がある。(どっちも監督同じ)
そう思っている。それほどまでに、両作品は完成度が高く甲乙つけ難い。"至高の領域"といっていい。
今日は、特に「エイリアン2」について、どのあたりを指して最高傑作なのか考察してみたい。(もう40年前の映画だ。ネタバレも何もないだろうが、一応ネタバレ記事の警告はしている)
ちなみにだが、邦題では「エイリアン2」のところ、洋題は「ALIENS」である。複数形の「S」を付けただけ。これが、内容と伴って非常にスバラシイ。最高の映画は、タイトルひとつとっても最高なものだ。

概要
概要をダラダラ説明する気はない。以下を参照されたい。というか、内容を把握していないなら、今すぐ観ることをお勧めする。「エイリアン2」の記憶を失っていること、それは、非常に幸福なことだ。今ならアマプラで追加課金なしで見ることができます。
❶モンスター映画の宿命と、その克服
「エイリアン2」は、当たり前だが、モンスターパニックモノである。アナコンダとかジョーズとかトレマーズとか、そういう系統に属する。
これらモンスターパニック映画(長いので以下「モンパニ」という)の、最大のストロングポイントにして、ウィークポイントは何か。
それは、モンスターの醸し出す恐怖感、ハラハラ感、ドキドキ感、つまり、スリルの総体である。
観客が最低限モンパニに期待していること、それはスリル感である。極論すれば、「いつ来るのか」「誰が死ぬのか」「どんな風に襲ってくるのか」というスリル感が終始漂っており、その感覚に没入できれば、観客は満足する。
これこそモンパニの最大のストロングポイントである。顧客の期待は単純明快で、モンスターが醸すそのスリルの純度さえ担保できれば”良作”ということになる。
そして、このノルマこそがモンパニの最大の弱点でもある。観客がモンスターへの”慣れ”を感じた瞬間、期待は果たされなくなる。モンスターの陳腐化は、恐怖感の薄まりを誘発し、ひいては映画そのものを壊す。
モンスターが最後まで映画を牽引するためには、観客に慣れや予測可能性や恐怖への抵抗を与えてはならない。これがモンパニの鉄則である。モンパニの続編が特に難しいのは、ここに原因がある。(アナコンダとか見事にこけたもんね)
一般的に、モンスターの出現回数が多ければ多いほど、観客はモンスターに慣れる。一方で、モンスターはちゃんと出現して一定の活躍をしなければならない。
つまり、モンパニは、モンスターを登場させれば観客の期待に応えることができるが、登場させ過ぎれば、映画全体が壊れる、というジレンマを構造的に抱えている。
さて、「エイリアン2」の話に戻ろう。結論から言えば、この映画、ここのバランスが絶妙なのである。完璧なのだ。
この映画、全体で137分だが、実は、最初の60分は一度もエイリアンが登場しない。そこにいるかもしれない、という予感だったり、主人公リプリーの記憶(トラウマ)だったり、と最大級の存在感を放ってはいるが、実際には姿を見せない。この序盤が秀逸という他ない。一切の慣れを許さず、しかし存在感だけは、画面中にひしめかせて、物語を進めていく。これぞモンパニ続編のお手本だろう。
序盤、モンスターの存在感を最大化させるために、ものすごい計算が働いていると思われる。カメラワークや音楽はもちろんのこと、それは、物語の伏線の少なさ、目的の明確さ、のようなストーリーラインにも伺える。
失敗している多くの続編モンパニを考えてみてほしい。続編はえてして、複雑になっていないだろうか。人間関係を複雑にし、人物の動機を複雑にし、設定を複雑にする。心当たりがあるだろう。
それらは全て、モンスターの新鮮味、存在感の低下を補うための技巧と取れる。しかし、エイリアン2が試みたのは、そっちの守りのベクトルではなかった。むしろそのその逆である。
エイリアンの新鮮味と存在感を、「1」から増加させようとしたわけだ。そこに注力するためには、なるべく枝葉は削ぎ落とした方が良い。だから、今作ではとにかく強そうな兵士たちがエイリアンと戦う、という非常にわかりやすいストーリーになっている。説明不要、小賢しい設定不要、とにかくエイリアンというモンスターを楽しんでもらう、そういうコンセプトだったと思う。
そしてそれは、見事に成功した。特に素晴らしいのは、エイリアンの初登場シーンである。ここが腕の見せ所である。今か今か、と焦らしておいて、巨匠はどんな方法を持ってきたか。
海兵隊たちがエイリアンの巣と思しきエリアに突入すると、そこには人間の遺体がエイリアンの巣に取り込まれている。ある女は、まだ意識があるようだ。彼女は、一心に「私を殺して!」と叫ぶ。その瞬間、彼女の腹部からエイリアンが飛び出てくる。そう、悪夢の再来である…
このワンシーン、人間繭というエイリアンの新習性の披露とトラウマの再来というダブルパンチで構成されている。観客のエイリアンイメージは、新旧統合される。新鮮さと嫌悪感を増幅させつつ、同時にレガシーを見せる。にくい演出である。最高かよ。
少しまとめよう。
「エイリアン2」がモンパニの続編として、素晴らしいことは疑う余地がない。エイリアンの魅力と存在感は、終始失われなかった。それどころか、クイーンの登場や新たな習性の披露など類稀なセンスのアップデートがなされ、かつ、リプリーと観客のトラウマであるチェストバスターや小型エイリアンの飛びかかりなども健在だった。とにかく、エイリアンは最後まで凶悪でスリリングなモンスターであった。
この成功には、ストーリーラインの不純物除去を筆頭に、序盤で徹底的にエイリアンを表に出さないための工夫が必要であった。結果的には、序盤60分間、一度も出現せず、しかし、観客の脳裏には絶えず、その恐怖をこびりつかせた。一切慣れさせず、油断させず、観客をスリリングな雰囲気に没入させた。そしてあの登場シーンに繋がる。
登場以降は、最終盤まで出し惜しみなく、その魅力の全てを解き放ったのだった。うーん、やっぱお手本。

❷傑作への昇華
単にモンパニのノルマをクリアすることだけで、傑作には至らない。この映画を良作から最高傑作にまで押し上げた要素は何か?
それこそ、皆さんご存じ?のヒーローズ・ジャーニーであり、「映画の黄金パターン」である。
私は再三、この物語モデルについて語ってきたが、初見の方は、以下の記事を読んでいただければ、そのコンセプトを理解いただけると思う。
とはいえ、上の記事も長いので、概略で進んでいこう。非常に凝縮してこの物語構造を言ってしまえば、”奪還の物語”であり、”英雄譚”である。典型的なストリーラインとしては、
【映画の黄金パターン】
①物理的、精神的な不在
②旅立ち
③出会い
④出会ったキャラの持つサブストーリーの紹介
⑤不在の深刻化
⑥出会った者の助け
⑦サブストーリーの終結がメインクライマックスに重なる
⑧エンディング(カタルシス)
と、こうなる。
リプリーが失っていたものはなんだろう。<不在>とはなんだったか。実は、2つある。
1つは、健全な精神である。リプリーは、「1」でのトラウマを抱えており、不眠症に悩まされている。エイリアンに心を侵食されている状態だ。2つ目は、娘、である。リプリーは、57年間も宇宙を彷徨い続けていた。「1」から数えると生涯のそのほとんどを宇宙で過ごしていることになる。この間に娘を老衰で失っている。
*ちなみに、映画「完全版」では、リプリーは実の娘アマンダを失った(57年のうちに)設定の描写があるが、私の見た「劇場公開版」ではその描写はなかった。ただし、娘を失ったというのはどうやら公式の設定である。
LV-426植民地には数十の家族が住んでいる、と知った時、彼女が「家族……」と意味深なつぶやきをするシーンがあるが、これは劇場公開版でもカットされていなかった。なんだか浮いているシーンだなと思ったが、「完全版」であれば、そういう感傷も理解できたわけだ。
彼女は、2つの<不在>を抱え、そしてそのためにLV-426植民地という新世界へ<旅立つ>こととなる。そして、仲間(海兵隊)と出会い、ニュートと出会う。完全にヒーローズジャーニーなのだ。ちなみに、この映画におけるニュートは、言うまでもなく<擬似的な娘>である。(そのことは、ラストシーンでニュートがはじめてリプリーを「ママ」と呼ぶことからもわかる)
作中、<不在>が一気に深刻化するシーンもある。前者で言えば、バークの裏切りによるピンチである。これは船内に人間の裏切り者がいる、という手法によって「1」におけるトラウマを強烈にフラッシュバックさせた。さらには、終盤のニュートとの別離だ。脱出時にニュートとはぐれでしまう事件があるが、それだ。
こうしてリプリーは、この整然と並べられたジャーニーを進む。その彼女を支えた者は誰だったかといえば、旅立ち後に出会った者たち、である。
特にヒックスの働きは大きい。彼がリプリーに銃の使い方を教えるシーンがあるが、これはヒーローに知恵を与える賢者の働きに等しく、また、リプリーにとっては擬似的な夫(つまり精神的支え)という一面もある。

最終的な生存者が、
・リプリー(ヒーロー兼母親)
・ニュート(ヒロイン兼娘)
・ヒックス(賢者兼夫)
というのも、伝統的なヒーローズジャーニーの構図であり、神話の構造である。つまり、何があっても、どれだけ犠牲が出ても、”これからの始まり・ひろがり”を予感させるだけの人物は生き延びるわけだ。
リプリーが、切実な”奪還”を行うヒーローとなることで、この映画は、単なるモンパニから一線を画すこととなった。それはスリリングなアトラクションから神話への昇華といえる。傑作と言われるほとんどすべてのアクション映画には、この”不在”と”奪還”の要素が散りばめられている。姫がいて、賢者がいる。自らの手でトラウマを打ち砕く。<不在>が深刻であればあるほど、そして、<奪還>がセンセーショナルであればあるほど、カタルシスは強く生まれる。
この物語パターンを人間は本能的に好む。なぜかといえば、わからないが、どうもそういうものらしい。受け継がれてきたDNAが喜ぶストーリーなのだ。すべては、巨匠ジェームズ・キャメロンの手のひらの上で計算され尽くされている。
3.印象的なセリフたち
本作は、文字通り神作品だ。ということで、やはり細部まで研ぎ澄まされているような印象を受ける。特にセリフだ。かっこいい!!と痺れるセリフ、語り継がれるセリフが登場している。それを是非書きたい。
①"Not bad for a human."(人間にしては、悪くない)
「1」のトラウマには、ロボットが深く関係している。その点、ビショップは、最終的にリプリーのトラウマを解消する役目を担った。その彼が、最後の最後に放った言葉だ。"You did okay, Bishop."(よくやったわビショップ)に対しての返しである。ロボットの人間への客観的評価と人間らしい皮肉のどちらの色もあって、絶妙だ。スバラシイ!
②"Get away from her, you bitch!"(その子から離れろ、この化け物!)
まぁこれは外せない。映画史に残る伝説のセリフのような気がする。ここだけ字幕で聞きたかったくらい。普段は理性的で規律を重んじるリプリーが、感情を剥き出しにして "Bitch" という強い言葉を使うギャップが凄まじく、当時の劇場ではこのシーンで歓声が上がったとか。

これね、実は母VS母の異種族間の戦いなんですよ。クイーンもリプリーに卵を焼き払われているので。つまり、種族を超えた「子供を守る母親同士のプライドを懸けた戦い」の火蓋を切る宣言。燃えないわけがない。
③"Mommy! Mommy!"(ママ、ママ!)
これは、完全版か劇場公開版か、あるいは吹き替えと字幕で多少差があるかもしれない。吹き替え版だと、ニュートはたった一回だけ、リプリーを「ママ」と呼ぶ。それは、クイーンとの死闘の直後、全てが終わった瞬間だ。これまで母と娘の関係性を続けてはいたが、「ママ」と呼ぶ描写はなかった。「ママ」と呼ばれて、初めてリプリーは本当の母親になる。完全に<不在>から解放された。このセリフは、すべてが完結した、ということを雄弁に、そして最も純度高く教えてくれる。最高だ。
以上、ここまで読んでくださってありがとうございました。(こんなに長いの本当に読む人いるのかよ)
心に残った映画に出会えれば、その都度、感想や考察を書いていきます。引き続きよろしくお願いします。

