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【つながる旅行記#388】『礼文町郷土資料館』で、最北の縄文人に思いを馳せる【北枕】

前回は利尻島を離れて礼文島へと渡り、まさかの縄文人に出迎えられた。

それではさっそく博物館に向かうとしよう。

きっと博物館に行けば、礼文島の縄文人の情報も色々手に入るぞ……!

そんなことを思いつつおもむろにフェリーの方を見ると、なにやらパチパチと手を叩きながら盛大に送り出している姿を発見した。

パチパチ!!

ふふっ、きっと相当に仲の良い人達なんだろうな……☺️


だがここで急に、脳の奥底に眠っていた単語が引き出された


(”桃岩荘”…?)


そう、礼文島には桃岩荘というちょっと普通ではない宿が存在するのだ。

自分がそれを知ったのは10年以上前のニートジョンさんの動画だったわけだが、動画内の桃岩荘情報から察するに、すっごくあんな感じの見送り方をしそう……!!


……まあいい。とりあえず今自分が目指すべきは博物館である。

彼らが誰なのかという回答は、きっと自分が島を出るときに明かされることだろう……!!


礼文町郷土資料館

というわけで、フェリーターミナルから速攻で来れる『礼文町郷土資料館』へ到着した。

冗談抜きで近かったので本当に助かる。

フェリーターミナルからすぐそこ
パァァ…!

中に入ると、日光を盛大に取り込んだ広い空間がお出迎え。

なんかこう……とても気分が良いぞ……!

それではさっそく中の展示を見ていくとしよう。

礼文島

ところで礼文島の観光は本日のみの予定なのだが、一体どう観光したものだろうか。

例によって自分はなんの旅程も考えていないのに礼文島にふらっと来てしまったのだ。

(利尻岳に登ることが最重要目標だったので、あとはノリで動いている)

最北にあるスコトン岬

ふむ……どうやら礼文島の最北にはスコトン岬という場所があり、晴れた日には樺太が見えるらしい。

だが島の最北限だけあって、ここからは25kmと結構な距離である。

自転車だと1時間半

まあバスを使うという手もあるにはあるのだが、正直自分はバスというものがどうも苦手だ。

思えば利尻島でも、危うくバスの最終便に乗れずに宿へ帰れなくなるところだったりしたし。


なので自分としては今回もレンタサイクルでいこうかなと思っている。

でもレンタサイクルで往復50kmというのはあんまり想像したくないんだよな……。

そんなことを考えつつ現在地のあたりを見てみると、『桃岩』という場所があった。

桃岩

そう、先ほどフェリーで見かけた桃岩荘の人たち(たぶん)は、この桃岩の近くにある『桃岩荘ユースホステル』から来ているのだ。

……ふむ。

思えばこれも巡り合わせかもしれない。

あのとき何気なくフェリーの方を見たことや過去に見た動画で衝撃を受けたことは、ここに結実するのだ。

どうやらマップアプリによると桃岩には展望台もあるらしいし、島を眺めるならここに行くのは正解な気もする。


まあ利尻島だって何日もかけて巡ったわけだし、たった1日で島中を巡るなんて端から無理なのである。

なので今回の礼文島観光は南側を楽しんで、いつかまた訪れたときに北側を目指せば良いんじゃないか?

……よし。

なんとなくだが今日の方針が定まった気がするぞ。

トドら

そしてまたトドである。

スコトン岬の北には海驢(トド)島があるそうなので、やはりトドの剥製は外せないということなのだろう。

(なんだか北海道中の博物館で見ている気がする)

口の中
トドは前後ともに5本指
体格の割に小さい尻尾
オオワシ
つよそう

そして礼文島にある遺跡についての展示が始まった。

北海道の続縄文時代は本州でいうと弥生時代〜古墳時代にあたるようで、その後の擦文時代は本州でいうと飛鳥時代〜平安時代だそうだ。

おぉ……! これが礼文島の土器……!!

ちなみに自分は岡本太郎の影響で『縄文中期の中部地方の縄文土器』が好きなのだが、礼文島のものはこれはこれで興味深い造形である。

一体この4本のラインや、4つ並んだ注ぎ口みたいな部分にはどんな意図があるのだろうか……?


ちなみに自分たちが縄文土器縄文土偶と聞いて頭に思い浮かぶものは縄文中期に作られたものが多いのだが、礼文島では中期の後半辺りの遺跡が見つかっているそうだ。

そのため、北海道での縄文時代の始まりは約1万2000年前だが、礼文島に人が定住し始めたのは約4000年前と考えられている。

(やはりわざわざリスクを負って海を渡るという決断をするには、長い時間を要するのかもしれない)

石器類
埋葬の様子

そして壁一面に、埋葬された人の写真が貼ってあった。

写真の説明書きを見ると、年齢性別装飾品に関する情報以外にも、「頭を北に向けていた」というような頭の向きについての記述が含まれている。

自分にはそんな情報を記録するという発想自体が存在しなかったわけだが、確かに考えてみれば『頭の向き』には意味が込められているかもしれない。


少し調べた感じでは、古代エジプトでも時代や場所によって変化はあるものの、埋葬時の体の軸は『東西』で、頭は『西向き』という形式が7割以上だったりするそうなのだ。

参考:【古代エジプト、末期王朝時代から プトレマイオス朝時代の単純埋葬に関する一考察 ─ジェセル王階段ピラミッド西側を例として─ 米山 由夏】
http://jswaa.org/wp/wp-content/uploads/2019/06/JWAA20_69_Yoneyama.pdf

太陽信仰がある古代エジプトなので、やはり太陽が昇ったり沈んだりする方角は重要視していたのかもしれない。


そういえば日本でも「北枕は死んだ人がするものだから」と、生きた人間が北に枕を向けることを忌避する文化がある。

その由来は「お釈迦様が亡くなったときに頭を北に向けていたから」という仏教の説話から来ているらしいが、確かに自分の祖父母が亡くなったときも北枕で寝かせていた。

(なお間取りの関係で無理なときは、浄土の方向ということで西が採用されることもあるらしい)


なんにせよ、世界のあらゆる国々で死者の頭を向ける方角には何かしらの意味を込められるものなのだ。

ちなみに写真の解説を見ると、礼文島の縄文人たちは頭を北に向けて埋葬されることが多かったようである。

果たしてそこに込められた意味はどんなものだったのか……?


うーむ、歴史のロマンを感じるね!!


そしてなにやら礼文島の遺跡からは新潟のヒスイを使ったアクセサリーが見つかったりもしているらしく、縄文人の交易規模の凄さにこれまた衝撃である。

新潟の姫川で採れたヒスイ
姫川から礼文島までは直線距離で1000km

果たしてこのヒスイはどんな経路を辿って礼文島までやってきたのだろう。

新潟から遥か遠くの礼文島に至るまでに、一体どれだけの人の手を介して、そこにはどんな物語があったのか。

現代のような大量生産&素早い輸送では得られない感動が、当時の交易では味わえていたのかもしれないな……。


そんなわけで、『礼文町郷土資料館』の展示はまだまだ盛り沢山。

このあと更にどんな知識が得られるのか……!

次回へ続く!!


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