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ふ 藤枝静男「一家団欒」感想

1966.9「群像」ネタバレあり。

冒頭から変な感じはした。美しい情景描写の中を男が歩いている。だが、なにかスーっと歩く感じで、というか滑る感じで、なにか違和感があった。男は歩き続け、「累代之墓」まで、やってきて、その中に入っていく。
中には、父と兄、姉と妹が座っている。幼かった弟ともう一人の妹はスヤスヤと布団の中で眠っている。よくきた、と父は言う。父は七十で男は五十九。家族はそれぞれの死んだ年の姿のままで、四角いコンクリの部屋にいた。
 藤枝静男は私小説作家である。だから、当てはめてみれば、墓の中の者たちは、確かに死んでいった家族だとわかる。静男の父は結核に感染していて、また子供達の殆ども結核で死んでいる。一歳や七ヶ月のものもいた。十三で死んでいった者もいた。父の結核が皆に感染ったのかは知らない。
静男は勿論生きている。だが、小説中の男は死んでいる。だから当然私小説ではないのだけれど、私小説でも小説なのだから、これでいいと思う。
男は包帯だらけである。心配して父が尋ねると、あちこちの体の部位を献体してきたと言う。
悪いことばかりしたから、と男は言う。
それから男は生前の悪事を語る。万引きしてそれが友達にバレたこと。自分の性欲を呪い陰茎に刃をたてたこと。父から学資にもらった金を使い込んだこと。悪事というより、父に心配をかけたことを語る。子供時代のことを語る。
父は、「はあええによ。何でもないによ」と全てを許す。「ダキニ天によく謝っておいた」とも言う。「お前はええ子だによ」とも言う。家族も、それよりも再会が嬉しい。男も気持ちが柔らかくなって、十三で亡くなった姉に自分のことを覚えているかしきりに訊く。暖かな一家団欒の雰囲気である。
 尋ねた日は、ちょうどヒヨンドリ(火踊り)の日だった。男は家族とともにそれを見にいく。
その単純で卑猥な踊りを見ながら、男は、ああこれだ。この無邪気で単純なものが自分の中に入ると、羞恥と罪に満ちた陰気な塊になるんだ、と思う。それが自分を苦しめた、と。
 私小説を読むのに、ここが難しいところで、この羞恥と罪に満ちた陰気な塊が何を指すのかわからない。恐らく他の小説でそれは語られているのだろう。こうまで家族に申し訳ない気持ちになっているのも、ここに語られていること以外に何かあるのだろう。そこは、この小説だけではわからない。わからないが、男が自分の生を激しく悔いていることだけはわかる。
もういい。もう済んでしまった。と男は思う。自分はもう死んでしまったのだから。
「お前もはあくたぶれつら(お前もさぞ、くたびれただろう)」
と父は言う。
「くたぶれつら」
兄も言う。
三人は甘酒を飲み、ヒョンドリの太鼓の音に包まれる。
恐らく、たぶん、三人は、この家族は、ここで成仏する。
美しいラストだと思った。

この後、藤枝静男は、
1968年、空気頭
1976年、田紳有楽
という、およそ私小説とは違う異様な小説を書く。
それは私小説の極北から生まれたとも、仏教思想の具現化だとも言われた。
そのあたりのことは、私にはよくわからない。

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