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考察せざるべからず『教皇選挙』

 信者数14億人。世界最大級の宗教組織の最高位をめぐる政治劇……そう言われると気圧されそうになる『教皇選挙』だが、実のところ親しみやすいヒット作でもある。日本風に言えば老舗企業で胃を痛める「管理職つらい」ジャンルのようだし、各々キャラが立っているから選挙サスペンスの娯楽性も高い。映画館が笑いに包まれることも多かったという欧米では『デスパレードな妻たち』や『ミーン・ガールズ』と比較されたほどだ。ただ、振り返ってみると、神の見えざる手に操られているかのような感覚を与える不思議な映画になっている。

【以下、ネタバレ】

亡者のチェス盤

 ミステリとしての『教皇候補』の神秘性は、肝心の謎が明かされないことにある。つまり、どこまでが前教皇の計画だったのか? 生前テデスコとやりあっていた前教皇は、チェスで八手先を読む情報通の策略家だったと語られる。よって、後継候補つぶしの策略を張り巡らせていたとしてもおかしくない。簡単に思い浮かぶのは以下だろう。

  • ローレンスを辞めさせず将来の教皇選挙の管理を任せる

  • テデスコに対抗できる人材だが重大な秘密を抱えるベニテスをひそかに指名する

  • 相談相手のシスターアグネスに死後のなりゆきのサポートを託す

  • トランブレにアデイエミ潰しのネタになるシスターを招致させる

  • トランブレを潰せる汚職報告書をつくっておく

  • トランブレとの会合後に急逝、あるいは殺された?

失速したリベラル派ベリーニの元ネタは2005年教皇選挙でのマルティーニ枢機卿。実際には、有力候補というより、保守派ヴェネディクト16世への反対票先のようなポジションだったらしい

 前教皇がどこまで考えていたのかわからないが、彼の撒いた種によって物語が展開していく。有力候補のはずだったリベラル派の日和見主義者ベリーニは芯も押しも足りずにしぼんでいく。やる気がある候補は三人、汚職まみれの穏健保守トランブレと排外主義的なアディエミとテデスコのみ。ここで事態を変えていくのが、前教皇に管理者を課された主人公ローレンス。規律にこだわる彼は、前教皇の痕跡をたどっていき、シスターアグネスの協力のもと違反者を追放していく。

疑いのトマス

 すくなくとも、前教皇はローレンスが疑い深い管理者になることを識っていただろう。この悩める主人公は、聖職者として霊性に自信がない一方、ルールには大真面目である。ベリーニが指摘するように、厳格がすぎて「マシな悪い候補」の違反すら捌き、結局最悪な敵対候補を有利にしてしまう。排外主義を隠さぬテデスコは人気なわけでもないが、ある程度の支持を固めていてルール違反もしていないから、レースに残るほど当選確率が高まる。

イエスの傷跡に指を入れる「疑いのトマス」の聖画

 ローレンスにしては珍しく神がかった選挙開始演説で示されたように『教皇選挙』の命題は「疑いの信仰」である。あの演説自体は、非カトリックの原作者ロバート・ハリスが敬愛していたリベラル派フランシスコ教皇へのオマージュである。エゴワード・ベルガー監督版で注目すべきは、主人公の国籍変更に従い、名前も変えられていることだ。映画版オリジナル名の「Thomas」とは、新約聖書に登場する「疑いのトマス」の暗喩であろう。簡単にまとめると、十字架に磔にされて息絶えたはずのイエスキリストが三日後に復活した噂が流れた際、弟子の一人のトマスが疑念を抱いた。「あの方を見て(刺された)傷に指を入れるまで信じない」。そうするとイエスがやってきて傷に指を入れるよう命じ、トマスを観念させ、おしえを説く。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。
 トマス・ローレンスとは、噂話に蝕まれていく「見ないと信じ(られ)ない」者だ。結果、みずからを教皇候補に追い込んでしまう。

神の介入

 結局、ローレンスは状況と野心に呑まれて新教皇を目指しはじめる。そうすると、突如爆発が起き、選挙が中断される。まるで教会のチェスゲームに怒った神が駒をなぎ倒すかのように。
 閉塞感に満ちた『教皇選挙』において、神の存在を感じさせる希少なシーンだ。結果的に、神は、欲に負けたローレンスが教皇になるのをとどめ、テデスコに邪悪な本性を暴露させることで自滅させ、ベニテスに口をひらかせる。ヒトを獣と呼ぶ罪人に忽然と反論し、心の底から教皇職を望まなくなっていたベニテスこそ教皇の器だと証明されたのだ。
 現実的に考えれば、この時点でもローレンスが筆頭候補だろう。ベニテスは身元不明がすぎるから、スキャンダルでも発覚しようものなら支持者の立場も危うくなりかねない。しかし、教会政治に没頭していた枢機卿たちもこの時ばかりは神のみわざを感じたのかもしれない。爆破跡から光と風が射し込んだ最終投票において、導かれるかのようにベニテスに票が投じられていき、新教皇が決まる。
 お約束のように、スキャンダルはすぐに発覚する。ベニテスは男性として育ったインターセックスだったのだ。これは劇中最大の秘密かもしれない。歴史的にカトリック教会はインターセックスにあたる人々に配慮して受け容れてもきたそうなのだが、それでも男性のみが対象とされる叙階(聖職者)の資格は与えられないらしい。つまり、ベニテスは司祭の資格ごと失効になるかもしれないリスクを抱えているし、秘密を知りながら教皇就任を許可した関係者もただではすまないかもしれない。究極の選択を迫られたローレンスは、前教皇と同じく秘密を隠蔽する。コンクラーベを経て神とのつながりを得た「疑いのトマス」は、ルールにそぐわない不確実性を受け容れ、ベニテスこそふさわしいという直感を「信じる者」になったのだ。

神秘のミステリ

 映画の最後、前教皇お気に入りの亀が再登場する。歩みが遅く、変化や成長のシンボルであり、ローレンスのようにヴァチカンから逃げたくても出られない生き物。前教皇の意志を尊重したローレンスは、亀を居心地の良い水辺に移す。急ぎ足で外の世界に行けないとしても、せめてもの善き変化のためにつつましき努力するように。年長の男たちの政治闘争から解き放たれた映画は、光がふりそそぐなか、未来を担うシスターたちを映して終わる。

『教皇選挙』自体も疑念から生まれた。非カトリックの英作家としてリベラル派教皇フランシスコを尊敬していたロバート・ハリスは「同教会の二千年前の掟は現代で通用するのか」という問いから原作を書いた。独プロテスタント文化育ちの監督もヴァチカンの神聖な空間を閉鎖的な場として撮っているため、むしろ(カトリックの歴史主義にを疑う)プロテスタント的視点の作品と言える

疑念というテーマが大好きなんです[…]生きていれば、誰もが疑念に駆られます。テデスコのような人を除けば。なにが正解かは誰にもわかりません。直感に従うしかない。映画制作と同じように、ものごとの先行きを選択しなければいけないが、それが正しいことかはわからない
エドワード・ベルガー監督

Conclave' Director Edward Berger On The Power Of Self-Doubt, His Long Road To The A-List & Those Pesky Rumors He'll Revive 007

 さて、結局、どこまでが前教皇の意思だったのだろう? 彼はベニテスの就任を望んでいたのか? 原作小説の構造から推測することはできるが……神の一手としか言いようがない大展開で畳み込む物語で、徹底的な「考察」なんてすべきなのだろうか? 
 「不確実性がないのなら、疑いもなくなり、ミステリは消える。したがって、信仰も無用になってしまうだろう」。フランシスコ教皇の信仰哲学を尊重する『教皇選挙』において、疑念は善いものとされている。それを持たないのは極端な過激主義者で思考停止しているテデスコだ。対して、ゴシップに呑まれて管理違反を犯していったローレンスのように、疑いに駆られて「真実」の追求にのめるこむのもいけないかしれない。カテキズムでは、他者に対する軽率な判断や、正当な根拠のない中傷は罪だ。
 不確実な直感を受け入れたローレンスの「成長」からわかることは、疑念が尊いものであると同時に、なんにでも確信を持とうとしないほうが良いということだ。大事なのは余地である。「ミステリ」の原義が「神の隠された秘密」であるように、神秘は神秘のままにすべきなのだ。

神にお会いした確信は、善きことではない。すべての問いに確かな答えを抱くならば、それこそ神と共にあらぬ証である。そのような者は、宗教を己のために悪用する偽りの預言者にほかならぬ。されど、モーセのごとき神の民を導きし偉人たちは、常に疑いの余地を残しながら信仰の道を歩み続けたのである
教皇フランシスコ

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