居酒屋のトイレのピースボート
サークルの終焉に立ち会ったことがある。卒業して数年経った2022年の春。私たちは、大学時代を過ごしたちんどん屋サークルを畳んだ。
もともと部員が少ないサークルで、私が大学生のころから常に存続は危ぶまれていたのだけれど、ついに終わるとサークルの同期から連絡が来たときには、さすがに息が止まった。部員はずっと少なかったけれど、なんだかんだ続いていくものだと思っていた。コロナの影響で新入生の勧誘ができず、廃部やむなしと判断したのだという。
ああやっぱりと力が抜けるような、いやまだ打つ手はあるんじゃないかと往生際悪く足掻きたくなるような、そんな相反する気持ちで立ちすくんでいたら「最後の代の後輩の卒業式の前には、片づけなきゃだよね」と同期に言われて、慌てて意識を現実に引き戻した。コロナだもの、仕方がない。
結局3月の三連休に一気に片づけることになり、私たちは連休初日にサークルの倉庫に集まった。けっこうな重労働になりそうだったので、ときどき仕事を手伝ってくれていた彼氏(現夫)と弟まで呼んだ。
棚にぎっしり詰まった衣装をひたすら引っ張り出して、いるもの、いらないものを分け、いらないと判断したものを売るのか、捨てるかに選別する。サークルができたのは2000年。22年分の物量は相当なものだった。
「この着物、Mさんが好きでよく着てたよね」
「このカツラは私が初めて依頼に出たときにかぶったやつだ」
「この帯、結びやすくて好きだったなぁ」
見覚えのある衣装や写真に時々ハッとして、ぽつりぽつりと思い出に引っ張られながらも、手だけはテキパキと作業を進めていく。
山のように衣装が積み上がっていた長テーブルはお昼ごろには数枚の着物が残っているだけになり、その代わりいまにも弾けそうに膨れた70リットルのビニール袋が何袋もテーブル周りに並んでいた。いざ取りかかってしまえば、あっけないものだった。
サイゼリヤで昼ごはんを食べてまた学生会館に戻り、衣類をお店に売りに行く組と引き続き倉庫を片づける組に分かれる。
倉庫片づけ組になった私は、引き取り手の見つからないサックス、トランペット、アンプを多数の音楽サークルがひしめく地下に「ご自由にお持ちください」と貼り紙をつけて置きざりにした。
しばらくして見に行くと、3つとも跡形もなく消えていた。使うにせよ売るにせよ、誰かの役に立つといい。
一日挟んで、祝日の月曜日。
卒業した先輩や後輩が15人ほど集まって、いつも使っていた練習室を借りて記念動画を撮ることに。
演奏が久しぶりすぎて唇が痛いだの、あの曲の始まりが思い出せないだの、そういえば今はなんの仕事をしているのかだの、他愛もない話を挟みながら、脈々と引き継がれてきた昭和歌謡やお囃子を次々に吹いた。動画を撮っている以外は、まるでいつもの練習風景みたいだった。
最後の合奏を終えて、夕方の居酒屋で飲む。ごぼうの素揚げやキムチがとじられた卵焼きを齧りながら、一番きつかった依頼や、好きだった依頼、好きだった担当さん(私たちとやり取りする商店街やお祭りサイドの連絡係の方)など、これまでのちんどんの話で盛り上がる。6日前に賞味期限が切れた卵はどうしたらいいか、車の運転が怖すぎる、なんて練習室でいつもしていたような他愛ない話もする。
しんみりしているような浮足立っているような普段通りのような、そのどれともつかない空気のなか、ぼんやりと頭の芯が痺れたままトイレに立った。
便座に座ると真正面に、ピースボートのポスターが貼ってあった。
4月に横浜を出るらしい。
それを目にした途端しんと喧騒が遠ざかり、心音がやたらはっきり聞こえた。
私たちのサークルは潰れたのに、ピースボートは変わらず出航するんだって。本当に?
私たちは何度も話し合って、人がいないという単純明快な理由でサークルを畳むことにしたのだから、もう悔やみようがないはずだった。
仕方がないと思っていたし、仕方がないと思っているし、ここで踏ん張ったとて数年後に同じ問題に直面するとわかってもいた。
それなのに、ピースボートはコロナをものともせずに参加者を募っている。一時期に比べればいくぶん和らいだとはいえ、マスクをしている人は多く、旅先の写真をSNSにアップするのもためらうようなこのご時世に。いやもちろん、もろもろの対策を万全にしたうえでの出航なんだろうけれど。
そのしぶとくたくましい決行力も、「世界一周」とでかでかと打ち出された能天気にさえ感じられるポスターも、いまの私にとってはほとんど暴力だった。
ピースボートは出航するんですって。
コロナだからしょうがないよねぇ、と何度目かの諦念を転がしている先輩たちにはとても言えず、ただ彼女たちがトイレに立つことがないよう、ひっそりと、しかし切実に願った。真剣に願った拍子に意識がやたらさえざえとしてくる。
もうあの学生会館で、このメンバーで合奏することはない。
そんなサークル最後の奇跡的な瞬間のただなかにいることに思い至らないまま、特に感傷に浸ることもなく、私はただ演奏に集中していた。次のフレーズ音を外さずに吹けるかな、とか、明日あたり唇が筋肉痛になるんだろうな、とか、そんなことばかりに意識を取られていた。
ねえ、ばかなの?これが最後だったんだよ。ねえ誰か、もっかい四丁目吹こうよう(仕事や練習終わりに演奏する締めの定番曲)。
自分の迂闊さがとことん呪わしい。あの最後の演奏こそ、しっかりと心に刻み込んでおかなきゃいけなかったのに。
誰かが吹き始めた曲にひとり、またひとりと乗っかっていって最終的に全員での大合奏になるあの感じも。
この曲吹こうねと決めたのに誰かがうっかり別の曲を吹いてしまって「やぁだ、その曲じゃないよー」とみんなで脱力するあの感じも。
もう今後、味わうことはないのだろう。
ピースボートは出航するのに。
ピースボートは出航するのに!
サークルを畳むこと自体も切ない。けれどそれ以上に、真正面から咀嚼してさえおけばあとあとうっとりと眺められたような大事な瞬間をみすみす通りすぎて、あとからそれに気がついてしまったことが、どうしようもなく悲しく、果てしなくやるせないのだった。
サークルが幕を閉じて3年、相変わらず私はたびたび尊い瞬間を見逃している。
見逃したからこそこんなに悔しく感じるわけで、本当はそこまでかけがえのないものではないのかもしれないとも思いつつ、それを見逃したからといって対象への愛着が失われるわけではないと理解しつつも、それでも毎回、きっちりとほぞを噛む。
「あれがそうだったのか」と気づくとき、妙に鮮明に思い出すのは、しんと冷えた頭でお門違いな恨みを向けた、ピースボートのポスターだ。
あの瞬間は、そろそろ忘れてもいいものなんじゃないかと思っている。
***
地中海性気候さんの企画「#あれがそうだったのか」への参加エッセイです。
終わりを迎える直前までは「ちゃんと終わりを見届けよう」といつも思っているはずなのに、なぜか気づいたときには素通りしてしまっている人生です。そういうやるせなさばかり執念深く覚えているって、なんだかなぁ。
