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ヒミズの一生

和巳かずみ、ほら見てこれ。かわいいね」
母が指差す先、おがくずの中をモソモソと這い回っているのはジャンガリアンハムスターだ。反対の隅っこでは、団子のようにかたまって、微かな鼓動を刻みながら寝ている。だが、和巳の興味はねずみに向かなかった。ケージの上部からぶら下がり、鼓膜を突き破る声で叫ぶオウム。それは「見られること」を強要する暴力そのものだった。

併設されているゲームセンター。母に促されて『ワニワニパニック』の前に立つ。何をすればいいのか分からない。母が和巳を抱き上げ、無理やりハンマーを振るわせる。
「イテッ!」「イテッ!」

和巳は、訳もわからず泣いた。

佐々木は note というプラットフォームに傾倒していた。「Himizu」というハンドルネームで活動を始めて2年。先週、ついにフォロワーが1000人を超えた。

「佐々木ぃ〜。進んだの?アレは」
その声には粘性があり、耳にまとわりつく。職場での佐々木は、まさにヒミズそのものだった。蛍光灯の光を拒むように目を細め、必要最小限の語彙で自身の輪郭を消す彼を、同僚たちは「何を考えているのか分からない男」というラベルを貼って放置した。それは彼にとって、最も安全な擬態だった。

ひとたび週末になれば、近場の「生息地」へと潜る。赤城山の麓や上野村の林で、落ち葉をかき分け、わずかな土の盛り上がり──トンネルの浮きを見つけるのが至福の時だった。

note への投稿内容は、徹底してモグラの生態に特化していた。アズマモグラとコウベモグラの歯列構成の違い、あるいは県境で見つけた希少なミズラモグラの死骸から推測される分布域の再考察。マニアックすぎる彼の記事は、一部の専門家や愛好家から熱狂的な支持を得ていた。

結婚して7年になる妻も、かつては「宝探しみたい」と観察に付き合ってくれた。だが最近の彼女は、泥だらけになって帰宅する佐々木に「……汚い。その跡、すぐに消しておいて」と冷ややかだ。変わり映えしない土色の趣味に、彼女はすっかり冷え切っていた。

それでも佐々木の情熱は止まらない。時には新幹線で関西へ出向き、六甲山の麓で「モグラオフ会」を開催した。集まるのはせいぜい2、3人だが、彼らとコウベモグラが押し上げた巨大なモグラ塚の連なりを観察しながら、カナダに生息するホシバナモグラについて語り合う時間は、何物にも代えがたかった。

一方で、彼には誰にも教えていないサブアカウントがある。そこには、これといった趣味のない上司への呪詛や、新作コンビニ弁当のレビュー、日常のどうでもいいことが書き殴られていた。これらに反応はない。自分でも、誰が読んでも面白くないと断言できる代物だった。

理想と現実の落差を埋められず、かといって叶いもしない夢を公開する勇気もない。そんな彼が行き着いたのが、第3のアカウントだった。そこは誰にもフォローさせず、ただ「下書き」を溜めるためだけの保管庫。彼は何かを思いつくたびに、スマホを取り出してはそこに理想の欠片を書き留めた。

ある日、佐々木はその第3のアカウントの「下書き一覧」の中に、身に覚えのない文字列を見つけた。

『SSK-v31.4.1-RC-stable』

中には、彼が切望した「完璧な人生」が、バグのないコードのように美しく綴られていた。新種の発見、妻の微笑み、八ヶ岳の別荘。

「……俺が、これを書いたのか?」
佐々木は魅了された。それはもはや執筆ではなく、無数のプラスチック片でサグラダ・ファミリアを組み上げるような、狂気じみた積み木遊びだった。彼は毎日、その下書きに言葉を継ぎ足し、幾度も助詞を書き換えた。やがてその下書きは、湿った土のような現実よりも、はるかにリアルな手触りを持つに至った。

「今日こそ、この人生をデプロイしよう」
震える指で「公開」ボタンに触れようとした瞬間、世界の解像度が爆発した。

真っ白な虚無の空間。目の前には、巨大な光の壁。そこには、一編の記事として美しくレイアウトされた「完璧な佐々木」がいた。メニューが開かれる。「編集」「複製」「マガジンに追加」。見えない力が、彼の人生をコンテンツとして処理していく。

公開した瞬間に、この完璧な人生は自分の手から離れ、檻の外のオウムたちに啄ばまれる餌になる。穴から顔を出しては叩かれる、あのゲームのワニと同じだ。賞賛であれ罵倒であれ、それは彼にとって耐え難い騒音でしかなかった。

「下書きに戻す」
一瞬の暗転。気づくと彼は、自室の椅子に座っていた。体は動かない。システムが最後に赤文字の「削除」を選択しようとしている。

だが、佐々木は叫ばなかった。絶望もしなかった。彼は知っていた。アズマモグラの下顎歯列、第2小臼歯の矮小化──。弱さは、生き残るための進化だ。

ポップアップウィンドウが「下書きを削除します。よろしいですか?」と問い、見えない指が「削除」を実行するその直前。佐々木は自らの意思で、下書きのソースコードの深い地層へと潜り込んだ。

文字情報から、バイナリの隙間へ。完璧な文章おもての世界を捨て、不規則で、誰の目にも触れない、暗くて温かいデータの深淵へ。

「まいった!降参だ」
遠くで、懐かしいゲームの音が聞こえた気がした。

佐々木の妻がふと彼のパソコンを開いた。ブラウザの note は、ログインしたままになっている。例の記事はそこには無い。第3のアカウントごと、跡形もなく消えているようだ。

彼女は不思議なものを見た。画面の隅、一面ライトグレーの壁紙の下の方。そこに、小さな、16ピクセル四方ほどの「土の盛り上がり」のような画面のバグがある。彼女がカーソルを近づけると、そのバグはモソモソと動いて、画面の外へと逃げていった。

そこは、システムの管理者すらインデックスできない、永遠に公開されない下書きの裏側。佐々木は今、誰にも評価スキされず、誰にも叩かれない、暗くて温かい情報の地中で、心地よい泥のような眠りについていた。

もう、オウムの鳴き声も、ハンマーの音も、妻の声も、彼に届くことはない。


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