「ほんとうのことを書く練習」から引き合わされるほんとうのこと
引き合わされる、という感覚があると思う。土門蘭さんの本を初めて手に取った時、そんな感覚がした。
土門蘭さんの「ほんとうのことを書く練習」が3月に発売され、直感でこれは読むべき本だと感じ、すぐに手にとって、いったりきたりしながら拝読した。その過程で、「ほんとうのこと」につながる体験を綴った「死ぬまで生きる日記」も読んだ。
土門さんの「ほんとうのこと」を綴る言葉に出会う中で、私も「ほんとうのこと」をたくさん考えて。書ける気がしないと思いながらも、その体験を素直に書いてみたい。
ほんとうのこと、それは、強烈に惹きつけられる問い、だ。
ここ数年ほど、今まで疑いもなく過ごしてきた毎日が、どうにもはまらなくて苦しいと感じられるようになった。きっかけとなる具体的な出来事はあったものの、時間が経てば経つほど、その具体的なことが解決しようがしまいが、苦しさは無くならないかもしれない、とも感じられた。
この数年間で、苦しくなった私をたくさん脱いできた。理想の母の私、理想の妻の私、理想の仕事をする私。でもなんだか脱げば脱ぐほど、苦しい。なんということか。
「ほんとうのこと」と「苦しい」ことは、どうやら関係がありそうだ。これは直感であり、ほんとうのことって何?という問いに強烈に惹かれた。
ー ほんとうのことを書きたい、といつも思っている。
「死ぬまで生きる日記」の冒頭でも、「ほんとうのことを書く練習」でも、土門さんは繰り返しそういっている。ほんとうのこと、と聞いた時、イメージするのは「本心」や「本音」だった。本心や本音は、思ってしまうものだし、感じてしまうもの。それらは感じないことはできない。でも、それだけだとなんだかしっくりこない、と思っていた。
本では、ほんとうのことは〜だ、と定義しているわけではない。いろんな角度でほんとうのことを問うている。私が一番ハッとしたのは、土門さんが恩師にかけられたという以下の言葉だ。
ー 文章に個性を出そうとしなくていい。個性を消して、消して、消しなさい。そうして残ったものが、あなたの個性だよ。
そうか。どんなに消しても、加工しようとしても、消せないものが残るのだ。それが、ほんとうのこと、なのではないか。それは本音や本心だけではなく、仕草、素肌、好きなもの、信念、言葉・・・そんなものでもあるように思う。
ほんとうのこと、それは、どう足掻いても、引き合ってしまうもの、だ。
消せないものが残る、と気づいてから、私が苦しいと感じることもなんとなく紐解けてきた。ほんとうのこと、なんて、そもそも内に秘めていて、自分でもわかるようなものではない。若いうちは、自分とはこうであろう、と感じたことの方向に突き進み、「個性」や「強み」とやらを築いてきたのだと思う。それが決して間違っているとは言えないし、そうして見つけた個性や強みも自分だろうと思う。でも、ほんとうのことは、そんなに甘くない。
水面下で長年じわじわと育ち、溢れ続けてくるものがほんとうのことで、そしてそれは、きっといつか隠せなくなるものなのだと思う。遅かれ早かれ、引き合ってしまうもの、それがほんとうのことなのではないか。
そしてほんとうのことを目の当たりにしてしまった自分は、表の顔の自分との違いにも気づいてしまう。それは苦しいことだ。ちょうど、化粧を落とした自分の顔を見つめる時みたいに。
そして、面白いと思うのは、ほんとうのことを探索する旅が、書くことにつながっているということであったりする。ほんとうのことになんとなく気づいてしまって苦しい私が、noteに辿り着いたのは、結構必然だったということか。
書くことが、何にもならないといえばそうであるし、だけど、書くことをなくしてしまったら怖いという自分が確実にいる。書くことをなくすことで、ほんとうのことを見えないことにするのが怖いのかな、私は。
土門さんのこの2冊は、お守りのように私の本棚の一軍として、居続けるのだろうな。
