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小説『転生なんかクソくらえ』 第20話 終わりの在り処

 事件から一週間の時間が過ぎた。十七歳の少年及び、同校の教師による凶行は瞬く間に世間の耳目を集め、方々から様々な議論を呼んだ。

 幕原隆二は取り調べにおいて何一つ隠すことなく、あらいざらい全てを白状した。聞いたところによれば、幕原隆二はそれをまるで自慢話でもするかのように実に楽しそうに語ったという。

 この事件の始まりは六年前の八月に小学校で起きたバラバラ遺体の事件にまで遡る。当時小学五年生だった幕原隆二はバラバラ遺体の第一発見者の一人だった。事件後に実施されたメンタルケアでは、異常なしとして誰よりも早く治療の対象から外れた幕原隆二だったが、実は花壇に植えられた死体を見て途轍もない興奮を覚えていたという。

 その興奮をずっと忘れられないまま中学校に上がった幕原隆二は、ついに自らその欲求を満たそうと決意する。同じ学校に通っていた生徒の中から孤立して存在感の薄かった瀬戸瑠海に声をかけ、徐々に信頼関係を築き、冬休み直前に彼女を山の中へ呼び出すと、そこで凶行に及んだ。

 だが、幕原隆二の欲求はそれだけでは満たされなかった。そればかりか、幕原隆二は自ら手を下す行為自体に遺体を前にしたとき以上の興奮を見出してしまったらしい。高校生になり、偶然にも新井先生が不倫している証拠を掴んでしまったとき、ついに幕原隆二は恐ろしい計画に着手する。

 幕原隆二は最初に新井先生を不倫の証拠で脅し、NPO法人IKOIへと潜入させた。そしてDXを進めるという大義名分でIKOIの社内システムを構築させ、その際システムに電子カルテへのバックドアを仕込ませた。つまり、新井先生は市内の学校に通う生徒たちの中で家庭環境が著しく悪い生徒の斡旋をさせられていたのだ。

 そしてそのシステムの最初の被害者になったのが西高に通う寺嶋満月だった。幕原隆二は新井先生から彼女の存在を知らされると、天性の魅力を活かして西高の生徒にアプローチし、その中からとりわけ手駒に取れそうな人間を選んだ。それがあの辻華凛だ。幕原隆二は彼女を利用して寺嶋満月へのいじめを発生させ、徹底的に寺嶋満月が孤立するように仕向けた。そして昨年十二月の冬休み前日。幕原隆二は新井先生に寺嶋満月を誘拐させ、再び犯行に及んだ。

 次に標的となった五十沢幽はIKOIのカウンセラーに相談こそしていなかったものの、幕原隆二にとってはこの上なく都合のいい存在だった。もともと石本みなみらからいじめを受けていた五十沢幽は、幕原隆二が手を下すまでもなく周囲との関係が希薄だったし、家庭環境がこの上なく劣悪であることは彼女の家を特定してしまえばすぐに分かることだった。

「大森さん?」

 私は名前を呼ばれ、ふと自分が物思いに耽っていたことに気がついた。視線を上げると、そこにはIKOIのカウンセラーである稲垣先生がいた。

「大丈夫? 随分と疲れているように見えるけど……」

 彼女はそんな風に気遣ってくれたが、私は返事を返すことができぬまま、再び俯いてしまった。それを見て、彼女が同情的なため息を漏らす。

「疲れるのも当然よね……。あまりにもいろんなことがありすぎて、きっとまだ整理がついていないんだと思うわ」

 稲垣先生はそんな労いの言葉を選んだが、私は自らが置かれている状況についてはよく理解しているつもりだった。疲れてはいても、頭の中は以外にも整然としている。ただ一つの大きな問題を除いては。

「今日はもう終わりにしましょう。家まで送っていくわ。モラルのないマスゴミなんか、私が追い払ってあげる」

 彼女はそう言って威勢よく胸の前で両の拳を握った。しかしそんな風に励ましてくれる彼女もまた、世間からの非難を浴びる立場の一人だった。

 寺嶋満月の事件はもとを糺せばIKOIの電子カルテ流出がきっかけとなっていた。当然、IKOIの理事である彼女も責任を問われていくことになるだろう。しかも、今日の報道でIKOIが六年前の事件で小学生たちにメンタルケアを施すために集まったカウンセラーによって立ち上げられた組織であることが世間に知れ渡った。今後、メンタルケアの際になぜ幕原隆二の異常性に気づけなかったのかという批判が噴出することは必至だろう。稲垣先生がIKOIの立ち上げメンバーではないということだけが、せめてもの救いだった。

「病院に……」

 私は蚊の鳴くような声で稲垣先生にそう言った。彼女はそれを聞き逃さずに「わかったわ」と一言答えると、私の手を引いて部屋を出た。



 幕原隆二が真犯人だったことは確かに驚くべきことではあったが、後になって考えてみると思い当たる節がないわけでもなかった。

 五十沢幽が襲われたあの日、幕原隆二は女子とのカラオケを断っておきながらなぜか私たちの誕生会には参加しようと言い出していた。そのうえ、彼は途中で電話をするために席を外してもいる。それはつまり、普段とは違う行動をする五十沢幽を監視し、新井先生に連絡をとる行為だったのだろう。幕原隆二が一人暮らしだったという後から発覚した事実は、席を外したときに口にした言葉が口実にすぎなかったことを裏付けるものだった。

 今思えばショッピングモールで辻華凛が親の許可もなく家に泊まれたと言っていたのも、幕原隆二が一人暮らしをしていることをそれとなく示唆するものだったかもしれない。もっとも、あの時それに気づくことができたかと問われれば、それは無理な話と言わざるを得なかった。

 一方で、もっとよく考えれば気づくことができたはずの事実もあった。それは、一連の事件には全て幕原隆二と同じ年齢の人間が関わっていたという事実だ。

 五十沢幽と寺嶋満月が幕原隆二と同い年なのは言わずもがなだが、瀬戸瑠海も当時の年齢で考えれば幕原隆二と同い年になる。そして六年前のバラバラ遺体事件の第一発見者は小学五年生であり、当時の幕原隆二の年齢を数えるとやはり小学五年生ということになった。

 つまり一連の事件に関わった人間の年齢は、ある年に生まれた人間の成長と見事に合致していたのだ。犯人は大人だろうという先入観が、同級生の中に怪物が潜んでいる可能性を完全に視野の外へと押しやってしまっていた。

 他にも、現場検証の際に森の中で見つけたカメラを固定するための器具には、しっかりと幕原隆二の指紋が付着していたのが警察によって確認されていた。供述によれば、不倫の証拠だけでは新井先生を御し切れないタイミングが来るだろうと考えていた幕原隆二は、新たな脅しの材料として新井先生が五十沢幽を誘拐する現場を映像として残そうと試み、森の中や電柱などに暗視カメラを設置していたらしい。

 だが、実際にそれで録ることができた映像は見切れや乱れで到底脅しの材料にはならなかったらしい。しかしそのために、幕原隆二はさらに恐ろしい一石二鳥の策をひらめいてしまう。それが、新井先生と彼を現場でエンカウントさせるという方法だった。

「大森さん、ついたわよ」

 稲垣先生が病院の駐車場に車を停め、助手席に座る私に声をかけた。私はその一言に、また自身が上の空になっていたことに気づかされる。

 病院の入り口付近にも数人の報道関係者が待機していた。彼らは私を見つけるなりずかずかとこちらに歩み寄ってきたが、稲垣先生はそれらから私を守ってくれた。流石の彼らも病院の中までついて来ることはできないので、必死にそれを妨害しようと試みる。しかしついぞそれも叶わないことを知ると、その中の一人がこちらに聞こえるほどの大きな舌打ちをした。

「まったく。あぁいうのがいるからマスゴミって言われるのよね」

 稲垣先生が珍しく苛立ちの感情を露にする。しかし彼女は病院の中に入るとすぐにいつもの穏やかな表情に戻って口吻を和らげた。

「大森さん。申し訳ないんだけど、私はこの後ちょっと用事があるから先に帰らせてもらうわね」
「あ、はい。ありがとうございました」

 お礼の言葉とともに私は深々と頭を下げた。

「いいのいいの! それよりも、早く彼のところに行ってあげなさい」

 稲垣先生がそう言って微笑んだので、私は再度軽くお辞儀をしてから踵を返した。病院独特の薬品の匂いが立ち込める廊下を進み、エレベーターで五階へと上がると、降りたところのすぐ近くにある受付で面会に来たことを伝える。もう五日間も連続で通っている病院なので、病室の場所は案内されなくてもよく分かっていたし、受付の人も最早そんな野暮なことをしようとはしなくなっていた。

 しかし病室に向かう途中で、私は思いがけない人物にばったりと出くわしてしまった。

「あ、沙夜ちゃーん。久しぶりぃー」

 長袖のジャケットに黒いズボンという以前より落ち着いたその身なりは、しかしそれでもその男の下劣さを隠すことはできていないようだった。

「あ、覚えてないかなぁ? ほら、フリーのジャーナリストをやってる岩尾力也だよー」

 なぜこの男がここにいるのか。私は強い敵意を持って彼を睨みつけた。しかし、岩尾はその程度のことで身を引くような男ではない。私に近寄ってきて、馴れ馴れしく肩に手を回すと、臭い息をまき散らしながら私に頼み事を始めた。

「なぁ、一時は情報提供者として協力し合った仲だろ? ちょぉーっとばかしお話を聞かせてくれるくらい、別に構わないんじゃねぇか? な?」

 虫唾が走った。あの時散々私たちを見下してふんぞり返っていた男が、今は下手に出て揉み手をしている。この男にはモラルやプライドなんてものは何一つないないのだろう。

「おい、君。すぐにその子から手を放すんだ」

 その時、後ろから唐突に男性の声が飛んできた。岩尾は「あん?」と不機嫌そうに振り返り、直後その身を引いて飛びのいた。見ると、岩尾の表情はこれでもかというほどに引きつっている。

「アンタは――」
「また腕を捻られたくなかったら、さっさとここから立ち去るんだな」

 岩尾はその男の言葉を受けて怯えるように逃げ去った。その姿は、岩尾がどこまでいっても小物にすぎないことを見事に体現しているかのようだった。

「大丈夫だったかい? 大森君」

 私は隣に並んだコートの男を見て、「ありがとうございます」と頭を下げた。

 コートの男の名は江藤盛貴えとうもりたか。あの日私たちを救ってくれた命の恩人で、市の小さな事務所で細々と探偵業を営んでいる人物だ。もともとは刑事だったらしく、当時は署内でもそれなりに名の通った人物だったらしい。

「あぁ、そんなに畏まらなくてもいいんだよ、大森君。あぁいう下らないことをする輩はいつの時代も一定数いるものだしね。それより、脚の方はもう大丈夫なのかい?」
「えぇと……まだ痛みはありますけど、一応は」

 私の脚にできた裂傷は幸いにも神経を損傷させるようなものではなく、消毒してから縫合し、そこに包帯を巻くという比較的簡素な治療で事足りていた。

「そうか、ならよかった。今日は彼のお見舞いかい? 私も一緒に行っても構わないかな?」

 私はその申し出に頷きで答えると、江藤さんと並んで廊下を歩いた。病室の前に着くと、儀礼的にノックを二度してから中に入る。窓から見える秋の夕日が、病室の無機質な白を綺麗なオレンジ色に染め上げていた。

 奥に進むと、そこには呼吸器をつけたまま眠り続ける彼の姿があった。医者の説明によれば、あの日彼の背中に刺さったナイフは肺に届いており、傷から漏れた空気で胸腔が圧迫される開放性気胸を生じていたとのことだった。また、十分な酸素を体に供給することができない状態が続いたため、脳が何らかの損傷を受けている可能性もあるとの説明も受けており、現に彼は未だに目を覚ましていなかった。

 私は部屋の隅に重ねてある丸椅子を二つ持ってきて、それをベッドの横に並べた。私はその片方に座ると、何も言わずに彼の手を自らの両手で包みこむ。江藤さんはそんな私を隣の席に座ってただ静かに眺めていた。しばらくの間、夕日の色だけが変化する時間が流れた。

「君たちに、謝りたいと思っていたんだ」

 江藤さんが静かに、しかし力強い言葉で沈黙を破った。私は一度彼の手を離して、江藤さんの方に向き直る。

「どうしてですか……? 江藤さんは何も悪くないのに」

 そもそもの話、江藤さんがあの場所に現れたこと自体が偶然――いや、奇跡とも呼ぶべきことだった。江藤さんは予てより新井先生の妻から不倫の調査を依頼されており、その過程で偶然今回の事件に遭遇したにすぎない。学校で噂されていた不審者というも、不倫調査をしている江藤さんの姿を誰かが怪しいと感じて広めたものに違いなかった。

 だから江藤さんが責任を感じる必要など全くない。それなのに、江藤さんの顔には険しい表情が浮かんでいた。

「大森君は今回の事件の首謀者である幕原少年が六年前の事件に大きく影響を受けていたという話はもう聞いているだろうか?」
「はい、知ってますけど……?」
「では、その事件の犯人が被害者の母親で、クスリをやっていたというのは?」

 これについても私は「知っています」と首肯した。私は急な話題の振れ幅に困惑しながら、先の見えない江藤さんの話に耳を傾ける。

 江藤さんは「じゃぁ話が早いな」と一言呟き、それから一度深呼吸をすると、昔のことを思い出すような様子で口を開いた。

「今からもう九年も昔の話になるな。まだ私が刑事デカをやっていた頃、私のいた課は総出でクスリの密売組織を追っていたんだ。あの頃は私もまだ若かったからな、でかいヤマを前に手柄を挙げようと躍起になって捜査を進めていたよ。しかし摘発まであと一歩というところまできて、その捜査に突然上からストップがかかってしまったんだ」

 江藤さんの声には怒りや悲しみ、果ては失望まで織り交ぜたような、複雑な感情が滲んでいた。

「当然私は納得がいかなくて上に抗議したよ。それはもう進退なんか忘れてね。でも上は『お前ごときが口を出す問題じゃない』の一点張りで、全く取り合ってはくれなかったんだ」

 江藤さんの組む逞しい手に、血管が強く浮き出ているのが見える。その気迫は、私が畏怖を感じてしまうほどに凄まじい。しかし、そんな風になっているのを江藤さんは自身で気づいたらしく、急にはっと我に返ると、次には元通りの声音に自嘲の色を加えて語りだした。

「結局全てを有耶無耶にされた私はもう警察をやっているのが嫌になってしまってね、それで処分を下される前に自ら辞表を提出し、探偵なんていう胡散臭い職業に身をやつしたというわけなんだ」

 江藤さんはそう言って自虐的な苦笑を浮かべた。だがそれも次の瞬間には、痛々しい何かを思い出す渋面へと塗り替えられてしまう。

「今となっては本当に馬鹿なことをしてしまったと後悔している。あれから二年後、摘発しようとしていた密売組織からクスリを購入した母親が自らの子どもを殺めたと知ることになるなど、あの時の私は想像すらしていなかったんだ」
「えっ……」

 私はその衝撃の事実に、驚きのあまり声を漏らした。江藤さんの話はまさに、幕原隆二を殺人鬼へと変えるきっかけとなった事件のことを示唆していた。

「後悔したよ。あの時私が自分の信念を貫き通すことができていたら――そんなことをもう何度考えたかわからない」

 似ている――。〝私〟は咄嗟にそう思った。

 無意味なたらればを考えてしまう夜を、あの時足を止めてさえいなければと考えてしまう夜を、〝私〟はもう幾度経験したかわからない。それがどれだけ意味のない非生産的なことかわかっていても、その呪縛からは逃れられないのだ。

「当然、警察はあの事件でクスリの密売組織を摘発せざるを得なくなったし、子殺しの母親も然るべき手順で然るべき裁きを受けた。それですべての事件は終わった――私はそう思っていた。いや、そう思いたかったんだ」

 しかし、事件は終わってなどいなかった。それは最悪の形で幕原隆二に受け継がれてしまった。

「今回の事件を受けて私は思い知ったよ。事件というのは、それが地球上に住む全ての人にとって他人事になったとき、初めて終わりを迎えるものなんだとね」

 そうなのかもしれない。一度起きてしまった事件というのはどういう形であれ、何かしらの禍根を長きにわたって残し続けるのだろう。ある人間が誰かによって殺されるというのは、きっと慢性的な病巣をこの世界に生みつけることを意味するのだ。

 そしてそう考えた時、〝私〟は息苦しさを覚えずにはいられなかった。それは〝私〟にとって、あまりにも身に覚えのあることでしかなかった。

「おっと、すまない。時間が来てしまったようだ。申し訳ないが、私はこの辺で失礼するよ。彼の一日も早い回復を願っている」

 そう言って立ち上がる江藤さんに、私は軽くお辞儀をし、病室を出ていくのを見送った。そしてベッドの横に一つだけ残された椅子へと戻ると、再び彼の手を取って祈るように目を閉じる。

 眠り続ける彼を見ていると〝私〟は否が応にも考えさせられてしまう。なぜよりによって彼なのだろうかと。この不幸を背負うべきは〝私〟なのではないかと。もしこの世に神というものが本当に存在するのなら、これはあまりにも不公平だと訴えたかった。神に対し、〝私〟の方にこそ罰を与えるべきだと詰め寄りたかった。

 幕原隆二は法廷で裁かれ、罰を受けることになる。事件は家庭裁判所を通して逆送され、検察によって起訴される流れとなるはずだ。だが、現在十七歳の少年である幕原隆二は改正少年法が定める特定少年の対象からもギリギリ外れているため、同法の五十一条に則って死刑になることはない。世間はそのことを取り上げて「いくら少年とはいえこんな凶悪な犯行に及んだ殺人犯に死刑判決が出せないのはおかしい」と騒ぎ立てていた。

 しかし、そんな幕原隆二を見ていて私は思う。〝私〟もまた、幕原隆二と等しく裁きを下されなければならない立場にあるのではないだろうかと。

 〝私〟は今までありとあらゆる方法で転生先の〝体〟を死に追いやってきた。つまりそれは、〝私〟が幕原隆二にも引けを取らない連続殺人を犯してしまったということを意味している。そして罪深いことに、その動機は「自分のため」以外の何物でもなかった。

 〝私〟は幕原隆二と同罪だ。そう確信してしまうからこそ、〝私〟には彼が必要だった。唯一〝私〟を認識して、唯一〝私〟をこの世に存在せしめてくる彼でなければ、〝私〟の罪を咎めてくれる人は他にいなかった。

 いくら謝っても許されることではないだろう。〝私〟は人を殺すということがどういうことなのかを微塵も考えていなかったのだ。大事な存在を失う辛さと怖さを、〝私〟は今の今まで知らずに生きてきてしまっていた。

 〝私〟はこれまで、ずっと自分が世界で一番不幸なのだと信じてきた。意味の分からない運命に弄ばれ、死にたくても死ぬことができないという呪いを背負った〝私〟以上に不幸な人間などいるわけがないと思っていた。

 しかし、それはあくまで〝私〟が不幸になる道を選び続けてきた結果に過ぎなかった。たとえこの転生という現象を経験するのが後にも先にも〝私〟一人だったとして、世界で一番不幸な存在にならない道は他にいくらでも用意されていた。それなのに、〝私〟は自ら光に背を向けて囚われ続ける羽虫に成り下がっていたのだ。

 目を覚ましてほしい。

 彼にとっての〝私〟がたとえ一時の協力者に過ぎないのだとしても、この先友達としてさえ見てもらえないのだとしても、それでよかった。それが彼の〝私〟に対する判決なのだと受け入れられた。ただ彼がいつもの日常に戻ってくれさえすれば、それ以上〝私〟は望まない。

 彼の手を包む私の手に力がこもった。既に夕日は落ち、部屋は夜の闇に飲まれている。しかし、巡回の看護師が来るまでこの病室に明かりが灯ることはなかった。

 ポケットに入っていたスマホが振動する。それは家に帰らなければならない時間を私に知らせる唯一の手段だった。椅子を部屋の隅へと戻し、最後にもう一度眠り続ける彼の隣に立つ。

「じゃぁ、また明日ね」

 たとえ言葉を交わすことができなくても、最後にその言葉をかけることだけは忘れない。それはかつて、彼が五十沢幽に投げかけ続けていた言葉と同じだった。私は数秒間彼の顔を見つめ、そうしてやっと踵を返す。

 その時、背後で微かな衣擦れの音がした。私は驚愕して振り返り、彼の姿を凝視する。そして彼の指が小さく動いたのを認めると、ベッドにしがみついて彼の顔を覗き込み、必死に声を張り上げた。

「新星!?」

 私の声に彼はゆっくりと瞼を開けた。私と目を合わせ、数秒の時間をおいてから呼吸器越しに掠れた声を発する。

「沙……夜……?」

 私の目から涙が溢れた。今まで私の内に溜まっていた不安が、一気に安堵の気持ちへと変化して込み上げてくる。私はその勢いを抑えることができず、彼の胸に顔をうずめると、声を上げて号泣した。

 泣き続ける私の中で、徐々に安堵以外の感情が湧き始めていた。彼が目を覚ましてくれたことに対する純粋な喜びや、あの時助けに来てくれたことへの感謝の気持ち。彼をこんな目に遭わせてしまったことについての謝意に、長い間私を不安にさせ続けたことに対するちょっとした怒り。目まぐるしい感情の渦に私は翻弄されていた。

 そしてそんな中にふと浮かび上がったとある気持ちに〝私〟は気づいてしまった。それは〝私〟が五十沢幽に転生してから始まった素朴な感情で、大森沙夜になってもなお〝私〟の中で秘かに育まれ続けていた感情だ。

 私が作った弁当を「うまい」と言って食べてくれたことが嬉しかった。彼と一緒に出掛ける時はどこか気持ちが浮ついていた。付き合っていると誤解された時に見せた彼の反応が、五十沢幽だった時と違うのが悔しかった。それらは全て、ある一つの感情に起因していた。


 〝私〟は久々利新星のことが好きだ――。
 

 許されない感情だとはわかっている。彼の隣から五十沢幽を奪っておきながら、その席に代わりに〝私〟が座るなどあってはならないことだった。それでも〝私〟はこの気持ちに気づいてしまった。もうその気持ちを知らなかった時の〝私〟には戻れない。

 結実してはいけない、伝えることすら許されない気持ちだ。でも、そのやりきれない痛みを、〝私〟はしっかりと抱きしめる。五十沢幽から大森沙夜になってもなお変わることがなかったこの気持ちは、誰が何と言おうと〝私〟のものだ。不幸がなくても、〝私〟はこの気持ちを抱き続ける限り〝私〟でいられる。だから失恋の涙を流すことを、今だけはどうか許してほしい。

 ただひたすら泣き続ける私の頭の上に、彼が何も言わずに手を置いた。優しく触れるその手から伝わってくる温もりは、私のぐちゃぐちゃになった感情を落ち着けるのにはあまりにも頼りない。しかし、そこに温かい何かがあるということだけで、私は少しだけ救われたような感じがした。

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