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第2話|何もできなかった日に飲むコーヒー

朝、目が覚めたときには、もう十一時を過ぎていた。

カーテンは閉まったまま。

薄暗い部屋の中で、スマートフォンの光だけが顔を照らしている。

今日も、何もしていない。
そう思った。
正確には、今日だけじゃない。
会社を辞めてから、もう二か月になる。

二十八歳。
無職。

その二文字が、最近の僕のすべてだった。


会社を辞めたのは、自分からだった。
三年間勤めた会社だった。
朝七時に家を出て、帰るのは夜十時。
休日にも連絡が来た。

「若いうちは頑張らないと」

そう言われれば、

「そうですよね」

と笑った。

でも、ある朝。

玄関で靴を履こうとした瞬間、身体が動かなくなった。

理由は分からなかった。

ただ、どうしてもドアを開けられなかった。

そのまま会社を休んだ。
次の日も。
その次の日も。

結局、僕は会社を辞めた。
最初の一週間は、少しだけ安心した。

もう目覚ましをかけなくていい。
満員電車に乗らなくていい。
怒鳴られなくていい。
これからゆっくり考えればいい。

そう思っていた。

でも、一か月が過ぎた頃から、

休んでいることが苦しくなった。


SNSを開けば、同級生が結婚していた。

別の友人は昇進したらしい。

海外旅行へ行っている人もいた。

「新しいことに挑戦します」

そんな投稿も流れてくる。

みんな進んでいる。
僕だけ止まっている。

いや。

止まっているどころか、後ろへ下がっている気さえした。

だからSNSも見なくなった。
友人からの連絡にも返さなくなった。

「最近どうしてる?」

その一言が怖かった。

どうしてる?

何もしてないよ。
仕事もしてない。
夢もない。
頑張ってもいない。

ただ毎日、寝て起きて、ご飯を食べて、また寝ている。

そんなこと、言えるわけがなかった。


その日も、気づけば夕方になっていた。

何かしようと思っていた。

履歴書を書こう。
部屋を片づけよう。
散歩くらいしよう。

そう思っていたのに。

結局、何もしなかった。

夜になり、冷蔵庫を開けた。
空っぽだった。
仕方なくコンビニへ行くことにした。
久しぶりに外へ出た。
夜の空気は、思ったより冷たかった。
コンビニで弁当を買って帰る。

それだけのはずだった。

なのに。

帰り道。

見たことのない路地に迷い込んだ。

「こんな道、あったっけ」

引き返そうとしたとき。
路地の奥に、小さな灯りが見えた。

古い喫茶店だった。

窓から、オレンジ色の光が漏れている。
扉の横には黒い看板。

「泣きたい人しか入れません」

「……なんだそれ」

思わず笑った。
僕は泣きたいわけじゃない。
泣くほど頑張ってもいない。
むしろ何もしていない。
こんな店に入る資格なんてない。

そう思った。

でも。

なぜか、その灯りが温かく見えた。
気づけば、扉に手をかけていた。

カラン――。


「いらっしゃいませ」

白髪の店主が、カウンターの向こうから微笑んだ。
店には僕しかいなかった。

「適当に座っても?」

「もちろんです」

窓際の席に座る。
メニューを探した。

ない。

「注文って……」
「伺っていませんよ」
「え?」
「この店では、注文は必要ありません」

店主はそう言って、奥へ消えた。

しばらくすると、
一杯のコーヒーを持って戻ってきた。

「どうぞ」

黒いコーヒーだった。
湯気がゆっくり上がっている。

「僕、ブラック苦手なんですけど」
「そうですか」
「砂糖あります?」
「今日は、そのままどうぞ」

変な店だ。
仕方なく一口飲んだ。

苦い。

でも、不思議と嫌な苦さではなかった。

身体の奥に、ゆっくり温かさが広がった。


スマートフォンを見る。

午後十一時十五分。
また今日が終わる。

「今日も何もしなかったな」
無意識に呟いていた。

「何も?」
店主が聞いた。

「はい」
「本当に?」
「本当ですよ」

なぜか少し腹が立った。
「十一時に起きて、ずっとスマホ見て、コンビニ行っただけです」

店主は何も言わなかった。

「仕事もしてないし」
「転職活動もしてない」
「友達からの連絡も無視してる」

言葉が止まらなくなった。

「二十八にもなって、親にも心配かけて」
「みんな働いてるのに」
「僕だけ……」

喉が詰まった。

「僕だけ、何もしてないんです」

店主は静かに聞いていた。

そして言った。

「では、そのコーヒーを飲み終えてから帰ってください」

それだけだった。


十分ほど経った。

コーヒーを飲む。
まだ温かい。

さらに十分。
まだ温かい。

「これ……」
「はい?」
「全然冷めませんね」

店主は微笑んだ。

「そういうコーヒーなんです」
「そんなのあるんですか」
「この店には」

また変なことを言う。
僕は少し笑った。

久しぶりに笑った気がした。

それから、ゆっくりコーヒーを飲んだ。

急ぐ理由なんてなかった。
誰かに急かされることもない。
何かを達成しなくてもいい。

ただ座って、
温かいコーヒーを飲む。

それだけ。

いつ以来だろう。

何もしない時間を、
何もしなくていいと思えたのは。

やがて最後の一口を飲んだ。
カップを置こうとしたときだった。

底に何か書いてある。

「……え?」
カップを傾ける。

小さな文字だった。

『今日もここまで来ましたね』

意味が分からなかった。

「なんですか、これ」

店主はカップを見て言った。
「書いてある通りですよ」
「でも僕、何もしてないって……」
「朝、起きましたね」
「……はい」
「何か食べましたか?」
「まあ……」
「夜には外へ出た」
「コンビニまでです」
「そして、ここまで歩いてきた」

店主は穏やかに続けた。
「今日という一日の、ここまで来たじゃないですか」
「そんなの……」

当たり前だ。

そう言おうとした。
でも言えなかった。

店主は続けた。
「働いた日だけが、頑張った日なのでしょうか」
「夢に向かって進んだ日だけが、価値のある日でしょうか」
「……」
「何もできない日もありますよ」
「そんな日は、今日を終えるところまで来ただけでもいいんです」

胸の奥が痛くなった。
「でも……」

声が震えた。

「みんな進んでるんです」
「僕だけ止まってる」
「そう見えるのかもしれませんね」
「怖いんです」

初めて言った。

「このままずっと何もできなかったらって」
「もう働けなかったらって」
「人生、失敗したらって……」

視界が滲んだ。
僕は慌てて下を向いた。
泣く資格なんてないと思った。
頑張っている人が泣くなら分かる。

僕は何もしていない。

なのに。

涙がテーブルに落ちた。

一滴。

もう一滴。

店主は何も言わなかった。
だから僕は、そのまま泣いた。

「本当は……」
声が漏れた。

「疲れてたんです」

会社にいた頃から。

ずっと。

「もう頑張れなかった」

言った瞬間、
涙が止まらなくなった。

二か月間。

自分に言えなかった言葉だった。

怠けているんじゃない。
逃げているんじゃない。

ただ。

疲れていた。

それだけだったのかもしれない。


泣き終わる頃には、日付が変わっていた。

「すみません」
「何がです?」
「こんなことで泣いて」

店主は首を振った。
「こんなこと、ではありませんよ」

そして空になったカップを持ち上げた。
「冷めませんでしたでしょう?」
「はい」
「人も同じですよ」
「え?」
「止まっているように見える時間にも、消えてしまったわけではありません」

店主は微笑んだ。
「温かさは、ちゃんと残っています」

僕は何も言えなかった。


帰り際。

「お会計は?」
と聞いた。

「必要ありません」
「いや、でも」
「でしたら」

店主が言った。

「明日の朝、一つだけしてみてください」
「何を?」
「カーテンを開けてください」
「それだけ?」
「それだけです」

僕は少し笑った。
「分かりました」

扉を開ける。
外は静かな夜だった。

振り返る。

「また来てもいいですか?」

店主は少し考えてから、

「来なくても大丈夫になるといいですね」

と言った。

カラン――。

扉が閉まった。


翌朝。

目を覚ました。

午前十時四十八分。

また遅く起きた。
スマートフォンに手を伸ばしかけて、止めた。

昨日の店主を思い出した。
面倒だった。
別に開けたところで何も変わらない。
それでもベッドから出た。
窓まで歩く。
カーテンに手をかける。

シャッ。

眩しい光が部屋いっぱいに入ってきた。
思わず目を細めた。
外では、誰かが犬を散歩させていた。
自転車で走る高校生。
洗濯物を干している人。

いつもと変わらない朝だった。

世界は僕が止まっている間も動いている。

でも不思議と、
置いていかれたとは思わなかった。

窓を少し開けた。
朝の風が入ってきた。

「……今日は、これでいいか」
そう呟いた。

仕事を探さなくてもいい。
人生を決めなくてもいい。
今日はカーテンを開けた。

それだけでいい。

明日は、
コンビニより少し遠くまで歩けるかもしれない。

その次の日は、
友達に返信できるかもしれない。

できなくても、

また次の日がある。

僕は冷蔵庫を開けた。
何も入っていなかった。

少し考えて、
スーパーまで朝ご飯を買いに行くことにした。


それから何度か、あの路地を探した。

けれど、

喫茶店は見つからなかった。

ただ、一度だけ。

雨の夜。

同じ場所を通ったとき、
コーヒーの香りがした気がした。
僕は立ち止まった。
そして思い出した。

あのカップの底に書かれていた言葉を。

『今日もここまで来ましたね』

今でも、何もできない日はある。

そんな日は、自分を責めそうになる。

でも。

夜になったら、
自分に言うことにしている。

今日も起きた。
今日も食べた。
今日もここまで来た。

それでいい。

人生にはきっと、

走る日だけじゃなく、

立ち止まったまま今日を終える日も必要なのだ。

そして。

そんな夜のために、

月夜の喫茶店では今夜も、
冷めない一杯のコーヒーが、

誰かを待っている。

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