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多くを語れなくなる日が訪れる時 | 雑記

これまで、自分にとっては多くの言葉を語ってきた「つもり」だった。


言葉を綴ること、言葉を想像すること。かつて一つの毒なる要素から生み出された感情を外に吐き出そうと、体の端から端まで回りに回った刹那を解き放とうと、流れ込むように積み上げてきていたはずであった。

時に、この目に焼きついたあるいは感じ取った風景を忘れないよう、一つずつ文字に落とし込んでいく。それがいつの間にか、自分にはなくてはならないものの一つとして挙げてもいいくらい、身近なものと浸透していた。


だがこの頃は、どうにも多くを語れなくなってきている事実に今、再び直面しつつある。いや、実際には既に直面してしまっているのかもしれない。

これを一種の「ネタ切れ」や「やる気がなくなった」と揶揄すれば、いくらか聞こえはいいのだろう。しかしながら、単純にそれだけでは済まされないところまできていると、危機感を覚えてしまっている。


特に、今まで積み重ねてきた努力の結晶が、突如として音もなく打ち砕かれては水の泡となり、伝えること自体に意味や価値が無くなることに、恐れを抱いているのだと思う。

それなりの力を振り絞って乗せたとしても、やはり「それなり」の程度でしかない。どこか薄っぺらく聞こえてしまうような、味気ないまま足元にすら届かず地に落ちてしまう落ち葉のように。


いつかこの声は、誰かに届かなくなるかもしれない。そして、これまで大事にしてきた言葉を紡ぐことができなくなるかもしれない。そうなってしまった時、いったい自分は何のために此処noteで持って「発信する」という行為をし続けるのだろうか。

それと同時に、一本のペンを握ることや一台のキーボードを指で操ることができなくなることに対しても、少しずつ焦りを感じてきている。実際問題、自分と向き合う時間の他、机の前に座って言葉を綴ることの時間を確保しようとする意思が、ほとんど保たれなくなってきているのだ。

やがて自分の中で、真反対と云ってもいいくらいの予期せぬ未来がこの身に降り掛かり、そして直面した時の姿を咄嗟に思い浮かべてしまう。その時がくるまで、残された時間はこの先の自分をどこまで豊かにすることができるだろうか。


…と、ここで悩み込んでも仕方がないのは百も承知である。不安だらけの世の中と負の感情が蔓延る街中で、そうしたネガティブに飲み込まれないように生き抜くために。

避けて通れはしない道に立っているからこそ、また一つ自分を、自分の生き方を見直す時がきたのだと思う。次こそは、思いがけない出来事で道から外れてしまわないように。

いずれ、多くのことを語れなくなってしまう日が訪れたとしても、私が私としてあるがままに生きていく以上は。




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タダノツカサ 最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!