いつか旅立つために眺めていた空 | エッセイ
遠くに行きたい。何故なら、此処に自分の居場所は無い。そう知ってしまったからだ。
小学校最後の学年の、今頃あたりだったか。給食を終えた昼休みに私はひとり、移動教室の立ち並ぶ校舎の最上階の廊下から窓越しに、活気の溢れる運動場を眺めていた。
屋外というその地上では、さまざまな学年が入り混じって遊び惚けている姿を散見された。その内にあるところには、男子がサッカーやドッジボールを無我夢中になって競い合い。またあるところには、女子が鉄棒やジャングルジムなどといった遊具に集まって何らかしらの話を弾ませていたり、と。
述べ10メートル以上も高く離れていても聞こえてくる楽しそうな声々と、黄土色の砂をバックに彩り鮮やかに包まれた児童たちが、無邪気にはしゃぎ回っている。そんな集合体の成す姿を見下ろす私は、どこか羨ましさと寂しさを感じていた。
かつて私も、この地上にいるみんなと同じように、一つの輪の中に混じって遊び回っていた時期があった。運動は得意ではなくても、一つの集団の一員になって一目散にボールを追いかけていたりしていたのである。
だがいつしか、誰も来るはずのない場所から独り見下ろすようになっていった。そこに至るまでの原因は自分でもわかっていた。それに気づいた時には、群れからフェードアウトするように離れていった。
やがて、一人になれる場所がないかと探して、籠の中の鳥のように囲まれた校舎を彷徨っていた。なるべく人が密集している運動場や、多学年を含む教室などを避けて。まして、病人ではないことあるいは病人に思われたくないという理由で持って、自ら保健室に行こうとはしなかったのである。
そうして辿り着いた安らぎの地が、東向きの窓が立ち並ぶ校舎にして、静寂に包まれた薄暗い箇所が目立つ場所であった。普段から、音楽や理科に家庭科といった特定の授業でしか立ち入ることはない。そのためそうした所では、自分の憶えている限り、ほとんど人の姿は見受けられなかったと思う。
ここにいれば、誰にも見つかることはない。けれどもしも、誰かに見つかりそうになったら、気づかれないように隠れてやり過ごせばいい。とは云いつつも、小学校最後の学年にして集大成なる一年の大半を、ここで過ごすことになるとは、当時の私は夢にも思わなかっただろう。
振り返れば私は、ほとんどの授業を除いて、こうした何も無い時間において苦痛に感じていた。なぜ皆んなと一緒になって、遊ばなければいけないのか。どうして相容れないとわかっていたとして、無理にでも入っていかなければならないのか。
嫌な思いをしてまで集団の中に溶け込まれるのなら、はじめから独りになればいい。寂しさで心を押し潰されてしまうよりも、くだらないイザコザで傷付くことなく済んだ方がマシだと思えたのである。
そう思っていても、いつまでもみっともない隠れんぼばかり続けていては埒が開かない。いずれ時が経って自由になれるのなら、独りになっても寂しくならないように、旅立つための支度をしなければいけない。
悲しみに打ち拉がれることもなく、思い出に囚われることのない、自分にとって気持ちの澄んだ場所に向かう為のー。
随分と長い年月が経ったが、あの時の自分はある意味でよくぞ乗り越えることができたと思う。流石に、昔と比べたら思い出すことは減ってきたものの、苦痛だったと思える記憶をふとしたことで思い起こしても、やはり良い気はしないものだ。
皮肉なことに、独りでいることの寂しさを知り尽くした私は、たぶんどこにいても生きていける自信を手に入れることができた。しかしその一方で、大勢の皆といる時ほど筆舌に尽くし難い寂しさが、不意に込み上がってくるのも事実である。
これまで苦楽を共にしたであろう同級生から、同窓会や結婚式などといった人生の一大イベントに呼ばれたこともなければ、そもそもまったくといって云いくらい連絡を取り合うこともない。
けれど、これはこれで自分にとっては良いことなのかもしれない。単に昔の話を語り、懐かしむだけの人間関係なんていらない。今の自分にとって必要なのは、過去に縛られず今を懸命に生き抜く力だけなのだから。
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