「あたりまえポエム」の味わい。
「デスティニーって、運命だと思う」
「笑ってごらん。きっと笑顔になるよ」
「君の前で息を止めると、呼吸ができなくなってしまうよ」
これは、氏田雄介さんが、著書『あたりまえポエム』の中で展開している、独自世界。
同じことを繰り返して、あたりまえのことを言っているだけ。
でも、なぜか、おかし味と、ある種の真実性、ちょっとしたポエジーが感じられる。
「力こそ、パワーだ」
「口づけみたいな、キスをしよう」
「星空を見上げるたび思うんだ。俺、上を向いているなぁって」
といった風に、どんどん出てくる。
その内容を、声優の梶裕貴さんが朗読した(演じた)CDも、制作・発売されていて、そのキャッチコピーは、
「このCDを聴けば、君の鼓膜はきっと震えるよ…」
新作でも、その切れ味は、ゆるがない。
< あたりまえと「写実」 >
文学には、詩・小説・戯曲などがあり、日本では詩形式の中に「俳句・短歌・川柳」などがある。
俳句の伝統の中には「写実」があり、見たままを詠むことが技法のひとつになっている。
鶏頭の十四五本もありぬべし
この正岡子規の句は、鶏頭の花が、まとまって咲いている情景を読んだだけで、「これが優れた句なのか、そうではないのか」について、永く論争が続き、評価が定まらない。
文法的に、標準的な日本語表記としては、「鶏頭の」の「の」が特徴的。普通ならここは主語を表す、「が」でもいい。
「鶏頭が、14、15本くらい生えている(咲いている)」。
だがこれでは、句にならない。ただの描写で、詩情が生まれない。
また、「14、15本」というのも独特で、論争者の中には、「”7、8本”でもいいじゃないか」という論者がいた。
それと句を締めくくる「ありぬべし」の5音。これも完了および強意の「ぬ」に推量の「べし」が結びついている。
鶏頭の十四五本もあり
だったら、山頭火の自由律の俳句のようで、「うしろすがたのしぐれてゆくか」的な、1つの情景を切り取って、言い放つ表現になる。
だが、子規にとっては「ぬべし」が重要で、この3文字が、この句に、独特な熱さ(断的的な強さ)と広がり(希望的推量)を与えている。
というのも、子規はこの時、病床にあり、多量喀血する重症だった。彼は寝たきりの枕元から見える庭の鶏頭を愛していて、それが枯れてしまった時は、「恋人を亡くしたときのようだ」と喪失を悲しんだ。
つまり、子規が詠んだのは、実際にある目の前の風景ではなく、今はもうない、彼が愛した鶏頭の赤さと、その生命力だった。
これらの重層的な思いが、17音に凝縮され、句になった。
その子規が、提唱したのが「写実」論。
彼は、『叙事文』のなかで述べている。
「ある景色を見て面白いと思ひし時に、それを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず。誇張を加ふべからず。ただありのまゝ、見たるまゝに」。
「ただの空想や創造を題材にしない」「誇張しない」「自分の主観的な評価や感覚を主題にしない」「絵画的・映像的に表現し、客観的な美を追求する」
これを実践して、俳句表現として自立した作品を生み出すのは難しい。それは険しい山の尾根を歩くのに似て、注意深く推敲していかないと、「月並み」や「平凡」といった崖に落ちてしまう。
< あたりまえと「ハイパー・リアリズム」 >
絵画の世界にも、極限まで写実を突き詰めたハイパーリアリズムがある。その作品は、「絵なのか、写真なのか?」と、自信を持って判断できないほどに精密。

「絵画」に対して、レンズで、そこにあるものを、フィルムに投射するのが「写真」だが、写真表現でも、その特質を極限まで追求した作品が、高く評価されている。
ドイツの写真家、アンドレアス・グルスキーが、1999年に発表した作品、「ライン川 II」は、写真作品としては世界最高額の430万ドル(当時の日本円で約3億3,400万円)の価格がつけられたことで話題になった。
これはドイツに流れるライン川を撮影し、不要なものをデジタル処理で取り除いている。曇り空、地平線、川面、緑の地面が、ただそこにある。その佇まいが、圧倒的な深さと広がりを持っている。これが、どこにでもある、普通の、平凡な光景であることが、かえって特別な普遍性や永遠性を作品に与えている。

彫刻でも、青森の十和田市現代美術館で実作が見られる、ロン・ミュエクは、人形制作の技術を活かした精密な彫刻で有名になった。

<反復、リフレイン。緊張と緩和>
「あたりまえポエム」は、ある事柄を提示して、すぐ後で、同じことを繰り返す。反復する、リフレイン。これが要素として必須。
同じことの繰り返しは、笑いを誘う1つの要素になっている。フランスの哲学者、ベルグソンも著書『笑い』の中でそれについて言及している。漫才やコントの世界でも「天丼」として1つのパターンとしてあり、活用されている。
昭和にコント55号でお笑いの頂点をきわめた萩本欽一さんは、著書の中で、こう語っている。
『天丼』は、コンビで行うコントで、なにかをやろうとしてもうまくできないボケ役を、相方がツッコんでいくというパターンのコント。わかりやすく言うと、もてない男がもてる男に「どうやったらもてるんだ?」と聞いて、教わった通りにナンパしてもうまくいかない。何度もツッコまれてやり直すんだけど、ますますできない。
天丼はどれもたいてい、ものすごく単純なネタなんだけど、ツッコミどころが満載で、うまい人がやると何段階にも笑いを大きくしていきます。
天丼ていうのは、ぼけが失敗するんでつっこみが修正しとうとするんだけど、何度やっても失敗する。コント55号でいうと、『マラソン』というのが天丼の典型。
↑「母死す。帰れ」の電報文を打つ、という1シチュエーション・コント。
音楽の世界でも、ポップ・ミュージックでは、Aメロが繰り返されたり、 クラシック音楽でも、リピート記号「𝄆 𝄇」で、主題が繰り返されたりする。1回目を踏まえた2回目は、同じことの繰り返し以上の力を持つ。
一見関係のない、2つの異なる概念。 その2つが意外な形で結びついた瞬間に、緊張が解けて笑いが生まれる。
「まじめな場面で突然、変な音が出る」といった、本来結びつかない「荘厳さ」と「滑稽さ」が結びつくことで、緊張が笑いに変わる。
「君の前で息を止めると、呼吸ができなくなってしまうよ」。
これを普通に言えば、「君の前にいると、呼吸ができなくなってしまうよ」だろう。
「笑ってごらん。きっと笑顔になるよ」は、
「やってみたらできると思うよ。笑ってみよう」みたいな感じだろうか。
どちらも、言いたいことはひとつで、どちらかといえば、心情吐露的な、真面目なもの。
そこに、くるはずのない、同語反復が出現することで、単純な”ボケ”としても機能している。
<シュールな、プチ不条理劇と「型」「見立て」>
また「あたりまえポエム」は、考えられた”ひねり”がなく、同じ意味の言葉をそのまま持ってくることで、シュールな、不条理劇的な空気を作り出す。
「彼にはなにか問題があるなどとは、彼は考えもしない
なぜなら
彼にはいろいろ問題があって
そのひとつは
彼にはなにか問題があるなどとは
彼が考えもしないということだからだ」
それと、「あたりまえポエム」には、明確な「型」があって、それは発明にも似て、一度それを世に出したら、同様のことはモノマネになってしまう独自性がある。コンセプチュアルといってもいい。

↑大量生産品の「便器」を”泉”に見立てて、アート展に出品(展示は拒否された)。「20世紀で最も影響を与えたアート作品」と称されたりもする。
マンション広告を、詩としてみる「マンションポエム」。これも、既製品(マンションの広告文)を”詩”に見立てることで、日常の中にあるあたりまえの事柄を、そのまま別のものにして、楽しみ、味わう方法を提示している。
「小さな工夫で、大きな効果」という言葉がある。
小学生の低学年の子供が、作文の課題を前に困っている時、「おかあさん、あのね・・・」って、最初に書いてごらん、と教師が言う。すると、生徒は、いつもお母さんに話しているようなことをスラスラと書けるようになる。これも「小さな工夫で大きな効果の実例。
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