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【シンデレラの主人公が意地悪な義理の姉だったら】もう一足用意された靴のお話【創作童話】

 私の人生を物語にするのなら書き出しは決まっている。

 8歳の頃だ。あの日は姉と花を摘みに行っていた。シロツメクサで綺麗に冠が編めた私は大得意だった。今まで姉や母に手伝ってもらっていたことが、1人でできるようになったのだ。

「お父様に見せてくる!」

 息を切らして、屋敷に駆け込んだ。広いエントランスに、美しい絵画が品よく飾られた長い長い廊下。その上に敷き詰められた上質な絨毯の上を、私はお構いなしに全力で走った。

 そんなに走ってはいけませんよ、というハウスキーパーの声は無視した。少しでも早く、父に褒めて欲しかった。
 
 すごいね、ジュリエッタ。
 
 そう言って、抱きしめてもらいたかったから。

 「お父様!お父様、見て…」
 
 父の書斎のドアを開けた瞬間の光景を、私は今も忘れることはできない。
 部屋の中心、いつもの場所とは違うところに一人がけの椅子が不自然に倒れていた。時には膝の上に私をのせ、父が本を読んでくれる椅子だ。
 
 その横たわった椅子の上に―父が、宙づりになっていた。

**********

気に食わない女。一目見た時から、そう思った。

「この子が僕の一人娘です。ほら、お姉さんたちに自己紹介を」

 ふんわりとした白い頬、艶々としたブロンドの髪。聡明そうな顔つきの中に、愛されて育った人間特有の、柔らかで甘ったるい雰囲気がプンプンした。
嫌いだ。反射的に、さっきと似たような感情が自分の中に渦巻く。隣に立つ私の姉も、面白くなさそうに、目の前の小娘を見つめている。それだけが救いのような気がした。

「ミランダ・ナッシュビルと申します」

 鈴が鳴るような声だ。微笑む表情すら、完璧だ。
 嫌いじゃなかった。―大嫌いだ。
 私の実の母は、この小娘の父親と今日、再婚するらしい。

 再婚してからしばらく、母はミランダに甘かった。きっと、再婚した相手の男の機嫌を取りたかったのだ。私も姉も口には出さなかったけれど、それをありありと感じていた。「ミルクをもう少しどう?」「今日のドレスはどれがいいかしら?好きなものを選んでいいのよ」その偽りの言葉を素直に受け取るこの女は、正真正銘の馬鹿だ。

「ありがとうございます!」

 今日もころころと良く表情を変えながら、その場を明るくするような言動を自然にやってのけている。

 私はミランダたちが来てからというもの、ため息を隠しながら、そしてやたらと私と姉に微笑んでくる新しい父親の視線に戸惑いながら食事をしなければならなかった。

 ただ、その生活も長くは続かなかった。私が「お父様」と呼ぶ前に、ミランダの父親はあっけなく死んでしまったのだ。風邪をこじらせてからの肺炎だった。

 それからはあっという間だった。

「シンデレラ、掃除がまだ終わっていないじゃないの」
「シンデレラ、食事の準備は?全く愚図なんだから」

 ミランダは、我が家で一番古くシミがついた薄汚い服を毎日着るようになった。お母様が新しいものを手渡さないからだ。新しい父親が死んで、益々生活が苦しくなった我が家は、それまで召し抱えていたハウスキーパーを解雇した。その代わりに家のことを全てやってくれる人間がいるからだ。

 そして、ミランダという名前はどこかへ消え失せた。その代わり、侮蔑を込めてシンデレラ―灰をかぶった無様な女―と呼ばれるようになった。

 母も姉も、シンデレラの名前を口にするときはいつも同じ顔をしている。自分たちよりも遥かに美しく、恵まれて育った娘を自分たちの支配下におけるという優越感。

「シンデレラったら、シーツのアイロンがけすら満足にできていないのよ。折角うちで面倒見てやってるというのに」
「本当ね。もういっそのこと、追い出してしまおうかしら」

くすくす、と二人から笑いが漏れる。

「やめて!」

 咄嗟に出た言葉に、自分でもはっとする。二人が、冷めた目つきで私を見る。久しぶりのその眼差しに、ぶるりと震えた。足下がぐらぐらと揺れる。見えないものに上から押し付けられているかのように、身体が硬直してしまう。

「何、あんた。シンデレラをかばいたいの?」
「…違います」

 呼吸を整える。大丈夫。今の私には、「シンデレラがいる」。

「給金を払わないでも扱える労働力を手放すのは惜しいって、そう思っただけ」

 私の言葉に母と姉は顔を見合わせて笑い声をあげた。可笑しくてたまらないという風に。

「ジュリエッタ、あんたがそんなこと言えるようになるなんてね」

 見直したわ、と姉は言う。私もそうでしょう、という風に頷いてみせた。喉の奥に引っ掛かったままの重たい鉛のような存在は見ないふりをすることに決め込んだ。

「本当ね。母親でも気づかないことがあるもんだ…子どもはいつの間にか成長する」

 母が私に近寄り手を取ると、わざとらしく顔の前で両手を握る。強張る身体を誤魔化すように笑顔を作る私に、母は握っていた手の力を更に込めた。その力の強さに驚いて身を引こうとすると、母は大声を出してそれを制する。

「あんたにしか頼めないことをやってもらおうじゃないか」

良かったねぇ、とねっとりした声で母は続けた。

「ようやくあんたも、レブンワース家の役に立つときが来たんだよ。感謝しな」

*********

「お義姉さま、今宜しいですか?」

 ある晩のことだ。自室で本を読んでいるとき、扉の向こうでシンデレラに呼びかけられた。相変わらずのころころとした美しい声。思わず眉間に皴が寄る。
「…なあに」

 失礼します、と小声でシンデレラが私の部屋に足を踏み入れた。その姿にはっとする。白くてすべすべとした、人形のようだった頬には疲れの色が隠せていなかった。艶々としたブロンドの髪も、手入れが行き届いていなくなったせいか、ごわごわと固い質感が遠目から見ても分かる。一番象徴的なのは、着ているその服だった。

 シミだらけ、裾のあたりはほつれ、ボタンも今にもとれそうだ。
あまりにもみすぼらしい。一さじも幸福の欠片を感じさせない少女が、私の目の前に立っていた。
 黙りこくった私に機嫌が悪いと感じたのか、シンデレラはおずおずと話しはじめた。

「あの、お義姉さまのドレスをお洗濯しようと思っていたのですが、ここが少し破けてしまっていて」

 そう言ってシンデレラが見せてくれたドレスを見やると、確かにほんの数センチ、裾が破れてしまっていた。

「それで、何?直しておいてよ」

 わざわざそんなこと言いに来たの?そう、言外に聞こえるように。

「その、ここの部分に折角なのでレースをあてたら可愛らしくなるかな、って…」

 そう言ってシンデレラが見せた端切れは、繊細な作りで美しいものだった。青が鮮やかなこのドレスに添えられれば、気品だけではなく、柔らかな女性らしさを足してくれそうな。
 思わず、まじまじとシンデレラの顔を見る。

「この布、どこから持って着たの?」
「裁縫部屋に沢山布があったので…使えそうなものがないか、時間があるときに探していたんです」

 照れたように笑うシンデレラの指は、煤けて黒くなっていた。暖炉の掃除で汚れてしまったのだろう。細く美しかった指には切り傷のような傷あとが何本も入っている。

 自分はこんなに汚い恰好をしているのに。他人の服に工夫を施す余裕がどこにあるというのだろう。

「…好きにしていいわ」

 分かりました、とシンデレラは頭を下げた。どことなく嬉しそうな顔をしながら、私の部屋のドアを静かに閉めて部屋を出ていく。

 気に食わない女。

 朧げな照明に照らされてできる自分の影が、更に黒々としたような錯覚に襲われる。清らかで正しい人間は嫌いだ。自分の醜さを際立たせるだけの存在を、どう愛せばいいというのだろう。

***********

「スペンサー様、ようこそお越しくださいました」
「こちらこそ、急にお邪魔してしまいまして」

 母がいつもとは違う、外向きの笑顔を終始作っている。スペンサー様は、亡くなった父と親交の深かった人物だ。柔和な笑みに良く似合う、金縁の眼鏡。仕立てのいい上着。ふっくらした頬やでっぷりとしたお腹は、会うたび少しずつ大きくなっている気がする。きっと、裕福な暮らしをしているんだろう。そんな卑しい考えがよぎる私は、まごうことなく嫌な人間だ。

 母とスペンサー様の会話に耳を傾けているふりをしながら、私はそっと、自分が座っているソファーの真向かいにある鏡を盗み見する。

 隣に並ぶ姉とお揃いのデザインのワンピース。姉と私は少し顔立ちが違う。姉は母に良く似ている。華奢というよりも貧相な体型、真っすぐに伸びた鼻筋に切れ長の瞳。私は父にそっくりだ。ぺちゃっとした鼻の頭、幼い子供のような丸顔。体型も、姉に比べれば丸みがあって、指が短い。

 まるで、フランスパンとロールパンが並んでいるみたい。

 人知れずくすり、と笑ったときにスペンサー様と目が合った。まずい、と思ったのはきっと表情に出ていただろう―けれどスペンサー様はそこには触れなかった。いつもの優しい眼差しを崩さない。

「ジュリエッタはいくつになったのかな」
「15に、なりました」
「15歳!私も歳を取るわけだ。そうすると、リサは—」
「17歳になりました。スペンサー様」

 ふうむ、とスペンサー様はまるで肉親のように私たちを愛おしそうに見つめた。

「二人とも、もう立派な女性になられたんですな。ミラさんも、さぞ鼻が高いでしょう」
「そんな、スペンサー様。まだまだ二人とも子供なんですのよ」

 母が満更でもなさそうに笑う。母のファーストネームをこんな風に気軽に呼ぶ男性は、私の父とスペンサー様だけだ。―亡くなったシンデレラの父親を除けば。

「二人とも体調はどうだい?」

 また始まった。そう言いたげな表情を姉が一瞬作ったけれど、それを器用に包み隠すのを感じ取る。

「変わりなく。いつも気にかけてくださって、ありがとうございます」

 スペンサー様の本来の職業は医師だと聞いている。そのせいか、いつもこうやって私たちの体調を尋ね、時に触診も行う。それが姉にとっては生理的な嫌悪感を引き起こすらしい。

 私は嫌だと思ったことはなかった。スペンサー様からは何の下心も感じなかったし、のっぺりとした厚みのある手や、触れられた部分から伝わってくるスペンサー様のこもるような体温からはどことなく、父を思い起こさせた。

「…ジュリエッタは?」
 
 向けられた言葉に思わず身動ぎする。先ほどの姉の表情に少しでも近づくようにと願いながら、私も大丈夫です、と答えた。

「少し、診せてもらってもいいかな」

 3人の視線が一斉に集中し、肩が思わず跳ねそうになった。母の険のある眼差しに刺され、声が震えそうになる。

「ジュリエッタの顔色が悪いのは、夜更かししているからでしょう?」

 姉が小馬鹿にしたような口調で割って入った。ほんの一瞬、凝固していた空気がその一言でまたかき混ぜられるように動く。

助かった。私は息を吐いた。

「そうなんです。最近、面白い本が多くって」
「そう言えば、ジュリエッタはお話を作るのが得意なんだって、亡くなったケビンが良く話していたね」

 父との昔話に、スペンサー様の瞳が、頬の肉にうずまるようにしてぎゅっと細くなった。その温かな声音に、私も父と過ごした日々に触れたような錯覚を覚える。

 けれどその錯覚も、今いる場所に視線を彷徨わせれば、すぐに崩れ去ってしまう。美しい調度品の数々は金に困る度にどこかへ持ち出された。ハウスキーパーや庭師を全て解雇したお陰で、シンデレラがどれだけ頑張っても、昔のような家には戻らない。

 そう、過去にはもう戻ることができない―。

 しばらく母と父の思い出話に耽っていたスペンサー様は、きょろきょろと視線を彷徨わせたかと思うと、天気の話をするかのような調子で母に尋ねた。

「そう言えば、引き取ったという女の子は?」

 部屋の中に、あからさまな程に緊張した空気が張り詰めた。まるでテーブルの上にこぼしてしまった紅茶のように、じわじわと広がっていくそれを何事も無かったかのように掬い上げ、いつもの調子で振舞ったのは母だった。

「あの子なら、外に出掛けていますの」

嘘だ。

「スペンサー様がいらっしゃるから、今日はお家で過ごしてねって伝えたんですが―ちょうど、市場が今賑わっているでしょう?それでうずうずして見に行ってしまったんです。ジュリエッタと1つしか違わないのに、中々おてんばで困ってしまいますわ」

「そうそう。少し忘れっぽいところもあるものだから。まあ、そこがあの子の可愛いところなのかもしれないわね」

 流れるように、さもそれが真実であるかのように言葉を並べる母と姉に感心してしまう。おまけにさりげなく、シンデレラの株を下げるようなことまで付け加えて。

 シンデレラは、母からの言いつけを守っているだけだ。「大事な来客にお前の姿を見せないように。絶対に部屋の外に出るな」という。

「そうですか。それはそれは残念だなあ」

 スペンサー様は、母に勧められるままに紅茶を一口飲むと、私と姉に語り掛けるように言った。「知らせたかったことがあってね」と。

「今度、王室で舞踏会があるらしい。王子が妃候補を探しているんだそうだ。そこにレブンワース家の皆さんもいかがかなと思ってね」

 勿論、と付け加えるようにしてスペンサー様は母を見つめた。
「ミランダも一緒にね。この家の大事な娘さんなのだから」

*************

王室の舞踏会。おまけに妃候補を探している!お母様もお姉さまも、それを聞いてからというもの、完全に浮足立っていた。スペンサー様が帰るや否や、二人で抱き合ったほどだ。

「素敵な方と巡り会えるかもしれないわ!」

 そう言ってお姉さまは、舶来のものだという口紅を塗りながら、鏡の前で笑顔の練習に余念がなかった。鮮やか過ぎるその色は、お姉さまには似合っているとは言い難かった。

「あら、私だって。まだまだ見初められるチャンスは来るはずよ」
 
 お母様がそう言うと、二人でいかにも可笑しそうに笑い合っている。一体どれだけの令嬢が舞踏会に来るのか、二人にだって分からない訳がないのに。想像の中の自分に酔いしれているだけだ。

 私はため息をついて、二人に気づかれないように部屋の外に出た。水を飲むためにキッチンへと向かう。

 がちゃがちゃと食器同士がぶつかり合う音がした。シンデレラが、ちょうど私たちとスペンサー様が使った食器を片付けているところだった。

 元々細かった身体は更に薄くなり、一本の鉛筆を思わせる程になっている。その後ろ姿を眺めながら、私はシンデレラ、と声をかけた。

「はい、お義姉さま」

 慌てたような仕草で、ぱっと振り返る。不審に思い、シンデレラの手元を覗き込んだ。
私たちが食べかけで残したブリオッシュを、こっそりつまんでいたようだった。

「あの…少し、お腹が空いてしまって、それで…」
 
 今にも消え入りそうな声を絞り出しながら、シンデレラが言う。瞳が羞恥で満たされ、それが今にも涙となって溢れてしまいそうだった。

「…捨てなさいよ、そんなの」

 はい、とシンデレラは返事をした。いつもの快活な姿からは想像できない程、萎れている。ぐしゃぐしゃに濡れてボロボロになった新聞紙のようだ。

「こっちに来て」

 短く言うと、私の部屋を指さした。鼻をすすりながら、シンデレラがついてくる。母と姉の姿がないことを確認すると、素早く部屋の扉を閉めた。

「そこの椅子にでも座ったら」

 私の言葉に従うままに、シンデレラはおずおずと座る。私は自分の机の引き出しの奥から、小さな箱を取り出した。

「内緒にするって、誓える?」

 戸惑う様子のシンデレラにため息をついて、箱の中身を見せた。

「チョコレート!」
 
 しいっと、声を潜めると、シンデレラがあっ、と表情を変えた。

「食べていいわ」
「でも、お義姉さまの…」
「私一人でこんなに食べれないわよ」

 16個入りのチョコレートは、スペンサー様がいつもどっさり置いていってくれるお土産の一つだ。お姉さまに取られてしまう前にと、こっそり1つだけくすねておいた。

 シンデレラが迷うように視線を彷徨わせた後、ゆっくりと一粒、チョコレートをつまみ、口へ運ぶ。

 気に食わない女。その女の表情に何故だか私は釘付けになっている。口に含んだ瞬間、シンデレラは顔をほころばせた。長い睫毛が、瞬きする度に上下にゆっくりと動く。何でもない仕草一つひとつが、この女がするとまるで、映画のワンシーンのようだ。
気に食わない、のに。

「とっても美味しいわ!」

 シンデレラの開きかけた唇から、いかにも柔らかそうで小さい桃色の舌が見え隠れした。何だかいけないものを見てしまった気分に襲われて、私も慌ててチョコレートを一粒選ぶ。とっても美味しい、とシンデレラは言ったけれど、特にこれと言って変哲のない味だった。きっと、私たちの家に来てから甘いものを殆ど口にしていないせいだ。

「まだあるんだから、食べれば?」
「えっと…」
「何回も言わせないで」

 私の顔色を伺うような素振りを見せながらも、シンデレラはまた一つ、その細い指でチョコレートを掬い上げるようにして選んだ。指がひび割れ、中から赤い肉が僅かに滲んでいるのが見えた。

 視線を床に落とすと、シンデレラの素足が見える。この子には、靴すら満足に渡していないのだ。手のひらと同じように、薄汚れ、かかとが固くひび割れているのが見えた。

「―と、思っているでしょう?」
「え?」

 思わず顔を上げる。さっきまでの無邪気さを潜め、こちらを冷ややかに見つめる女がいた。

「哀れな女だと、思っているでしょう?」

 その醸し出す雰囲気に、思わず息を呑む私に、シンデレラがくすくす笑った。チョコレートの箱の蓋をぱたんと閉めて、私の方へ押し返すような形で返してくる。

「ごちそうさま。もう戻らなきゃ。跡片付け終わらせないと、また叱られちゃうもの」

 あんた、とシンデレラを引き留めるように出てきた言葉は震えていた。

「ようやく本性表したのね」
「本性?」

 シンデレラは、口の端を歪めるようにして笑った。そのどこか自虐的にも見える笑みに、私は思わず反射的に両手を握り合わせた。まるで、自分自身を守るかのように。

「私はただ、自分に対するプライドを忘れたくないだけよ」

 シンデレラの瞳の奥を見つめる。

「ただの奴隷のような暮らしはしたくない。与えられた『仕事』のなかで、自分自身ができる最大限のことを「自らが選んで」やってるの。―そう、思いたいだけ」

 鮮やかなブルーの瞳。傷み切ったや髪や肌とは違い、その目にはここに来た時から何も変わらない輝きを携えたままだった。

「…チョコレート、美味しかった」

 ぽつりとつぶやくような言葉にはっとする。シンデレラの瞳がやや潤むように瞬いた。

「戻ります」

 頭を下げ、私の部屋を後にする。シンデレラの小さな足に刻まれた幾つもの擦り傷や痣が、私の目に焼き付いていつまでたっても離れなかった。

**************

 あの日を境に、私はシンデレラを観察するようになった。けれど、あの時部屋で見たのが幻だったかのように、何も変わらない。姉に嫌味を言われ、母に罵られながらも、シンデレラは健気に家事をこなす。

「あら?シンデレラ、どうしたのその靴」

 ある日の夕食時、姉が不機嫌な声を出した。

「私のお古です」

 シンデレラが返事をする前に、私が淡々と答えた。

「捨てたり燃やすのも面倒だと思って。サイズはシンデレラにぴったりだったみたいだし」

 姉は面白くなさそうに私を見つめていたけれど、ふん、と意地悪く瞳を輝かせた。

「そうね、愚図には愚図の靴がお似合いね」

 身体の奥が、侮辱された悔しさで熱くなる。こめかみが震えるようだった。

「何よ、その目は」

 姉が意地の悪い瞳でこちらを睨みつけた。

 私は「なんでもないわ」と視線を逸らす。姉が私を尚も睨みつけているのを、背けた頬で受け止める。姉が呆れたように鼻を鳴らした。姉は私たち二人に挟まれて、視線を泳がせるシンデレラを一瞥し、上から下までじっとりと舐めまわすように睨んだ。

「いいじゃない。上から下まで、ばっちり。これ以上ないぐらいだわ―あんたも、シンデレラから服をもらったら?」

 捨て台詞のような言葉を残して、姉が立ち去った。どうせ、今から舞踏会に着ていく洋服を品定めするのだろう。何を着たって、鶏ガラのように細いお姉さまの身体には気品を感じられないのに。

「ごめんなさい」

 姉がいなくなった途端、シンデレラが謝る。私はため息をつきながら、皿の残っていたクッキーの一欠けらを口に運ぶ。

 「あなたが謝ることじゃないでしょう」

 シンデレラの足元に思わず視線がいく。昔、亡くなったお父様が、買ってくれた靴。その時は黒の革がピカピカ光る美しい一品だった。私はその靴を、職人にサイズを変えてもらいながら、何年も何年も大事に履き続けていたのだった。

 魔法使いの靴みたい。

 プレゼントして貰った時、思わずそう呟いた私に、父は「そうかもな」と調子を合わせて笑ってくれた。

「ジュリエッタなら、どんな靴だって魔法の靴になれるさ。これを履いて、これから色んな場所に行っておいで」

 私の幸福は、あの時確かにすぐ近くにあった。ポケットにいくら詰めても足りないぐらい、満ち足りた日々だった。母も姉も、あの時は穏やかで優しい人だった。

 よく家族でジャムの入った紅茶を飲み、クリームがたっぷりかかったケーキを食べた。何人もいるハウスキーパーに可愛がってもらえた。毎日ふわふわなベッドでぐっすりと眠り、自分の身体よりも大きなぬいぐるみにいつも抱きついた。

 姉と一緒に歌を唄えば、「すごい才能だ」と両親を感嘆させた。私が創作した物語を見せれば、父は頬にキスして「早く世にでるべきだ!」といつも抱っこしてくれた。

 世界の全てが、私に対して最上のものを捧げてくれたし、私はそれを余すことなく全て受け入れていた。さも当然の権利であるかのように。

 父が事業に失敗し、首を吊っていた日。あの日から、私の家が急速に形を変え―どろどろとしたヘドロのような汚らしい場所へと、成り下がってしまったのだった。

 その時の幸福の象徴のような靴を、何故か私はシンデレラに渡してしまった。入らなくなっても、一生大事にしていたいと思っていたのに。時々眺めては、大事に箱にしまっていたようなものを、そのままあの子に手渡してしまった。

 まるで、独り占めするために大事にとっておいたチョコレートを手渡したときみたいに。

「ねえ、後でまた私の部屋にいらっしゃいよ」

 私の言葉に、俯いていたシンデレラが顔を上げる。

「紅茶のお代わりが飲みたいの。―カップは2つ、持ってきて」

 あの二人でチョコレートを食べた日から、私たちは時々、二人でお茶をするようになった。母と姉が寝静まった深夜だったり、逆に私たちと動物たち以外、目を覚ましていないんじゃないかと思えるような早朝だったり。

 シンデレラは私よりも裁縫が得意で、私はシンデレラよりもお菓子作りが得意だった。母と姉が二人で市場まで遠出をしたとき、家の中にある材料でクッキーを作って二人で食べた。甘酸っぱい刻んだダークチェリーをたっぷり入れたクッキーを食べたシンデレラの表情が今にも忘れられない。心なしか、生気のない顔にも彩りが戻ってきているようだった。

 ある日、シンデレラが私の髪を編んでみたい、と言った。

「お義姉さまの髪、とても艶々で綺麗なんですもの」

 シンデレラが自作した、シルクの布の切れ端でできたリボンは私には可愛すぎたけれど、なされるがままにしておいた。髪を触る手つきから、シンデレラがうきうきしているのが伝わってきたからだ。手持ち無沙汰の私はふう、と息を吐きながら、目の前のドレッサーに視線を移す。

 シンデレラと違って、重い瞼に縁どられた瞳。不意に呼吸が苦しくなり、咳が止まらなくなった。

「お義姉さま、大丈夫?」
「だいじょうぶ、よ」

 シンデレラが慌てたように私の背中をさする。シンデレラの手から伝わるぬくもりが、何だかあまりにも遠くに置き忘れてきたもののようだった。目尻に浮かんだものを隠すようにして指でそれとなく拭う。

「何か温かいものを持ってきましょうか」
「大丈夫よ、お茶は後で一緒に飲みましょう。続けて」

 釈然としない様子のまま、シンデレラは私の髪を再び編み込み始めた。私の髪を一房取り分けた瞬間、あっ、と声を漏らす。

「どうしたの?」

 シンデレラが掬いあげた髪の隙間から、古い傷跡が見えたようだった。私はなんだ、と視線を正面の鏡に戻す。

「昔の傷よ。お母様に突き飛ばされたときに、テーブルの角にぶつけてしまって」
「お義母様に・・・?」

 眉をひそめるシンデレラの反応が新鮮で、私は思わず笑ってしまった。

「そう。そういう時もあったの」

 父が亡くなってから、一番最初に壊れたのは母だった。

 元々、裕福の家に生まれ育った母は、一家の経済状況が大きく変わってしまったことに耐えられなかった。元々子どもっぽいところがある人だったけれど、日常の些細な苛つきや、将来の不安が積み重なる中で、その矛先は徐々に姉や私に向けられた。優しかった母の変貌に怯えた姉は、その悲しみや怒りをどこかで発散しなければならなかった。

 それが、私だ。

「今日もジュリエッタがおねしょしたの」
「お母様見て、ジュリエッタがまたスープをこぼしたわ」

 私が何か粗相をするたびに、姉はすかさず母に報告した。きっと、そうすることで「役に立つ自分」をアピールしたかったのだ。あの時の母は例え実子であっても、無駄とみなせば切り捨て、拒絶してしまうような雰囲気があった。

 そういうことが分かるようになったのは、私が少し大人になった最近の話だ。当時の私は、ただただ、母と姉の変わりようが恐ろしく、毎日泣きながら眠りについた。おねしょしませんように、と思えば思う程シーツを濡らしてしまう。ちゃんとしなければ、お行儀良くしなければ、と思う程、カップを倒してしまう。

 名前ではなく、愚図と呼ばれるようになった。私が何かを話す度に揚げ足ととられ、馬鹿にされた。

 この家における私の役割が、徐々に確立されつつあった。人は苦しくなると、自分よりも弱い立場の人間にぶつけなければ、己自身を保てないのだと、幼いなりに学んだ。私が、この家の捌け口にならなければ、この家はもう終わりなんだ。

 元の家に戻りたい。優しい家族に囲まれて過ごしたい。辛い思いはもうしたくない。

 何度も願い、一人でしくしくと泣きながらベットの上で泣いた。そんな日々を壊したのが―新たな捌け口に選ばれたのが、シンデレラだった。対象が変わっただけで、この家は依然として、誰かを蔑み罵倒することで、己の置かれている状況から目をそらし続ける人間の集まりだった。

「ごめんね」

私の髪を結っていたシンデレラの手が止まる。

「…何のこと?」
「この家に起きてからあなたに起こった全てのことよ」
「そうね、最悪だわ」

 でも、とシンデレラが続ける。

「ジュリエッタに出会えたことだけは、最良だったと思う。私にも「お義姉さま」ができたんだもの」

 ふふ、と共犯者めいた笑みを、鏡越しに二人で交わし合った。
 私はシンデレラに悟られないよう、スカートのポケットの中に忍ばせたものを、服の上からぎゅっと握る。

 もう少しで、この時間は終わりを告げてしまうのだ。

*****************

 舞踏会当日。家の中は大騒ぎだった。少しでも着飾りたい母と姉から離れて、私はシンデレラが仕立て直したドレスを身に着けた。鏡の前でふわりと回ってみる。シンデレラにもらったリボンもつけると、何だか自分が立派な淑女になったような気分だった。

 コンコン、とノックの音が響く。直前に聞こえた足音と、その苛ついた様子から母だと分かった。

「ねえ、準備はできたの?」
「今行きます」

 慌ててドアの外に出る。私の装いに、母は鼻の頭に皴と作った。

「少女趣味すぎるんじゃない?―身内だと思われたら恥ずかしいわ」
 
 昔、母の腕に抱かれてじゃれていたときのことを不意に思い出した。あの時、母の瞳には間違いなく私が映っていた。今はどうだろう。私という存在は、この人の中でどうなっているんだろう。

「私は、これで行きたいです」
「何ですって?」
 
 私に言い返されることを予期していなかったのだろう。母の顔が歪む。

「私は…私は、自分で選んだ服で、舞踏会に行きたいです」

 振り上げられた母の手から、頬の痛みを感じるまではあっという間だった。

「あんたは、父親に似すぎている」

 母の言葉の響きに思わず怯む。襟元を掴まれた。顔を近づけられると、思わず全身が震える。

「理想主義者の偽善者め。あんたは私の言うことだけ聞いていればいいのさ。一人でなにもできない愚図の癖に。その証拠に、いつまで経ってもシンデレラは元気じゃないか」

 着替えてきな、と母は私と突き飛ばした。

「もっと、王子の目に留まるようなものに着替えてくるんだよ。見初められれば―元の生活に、戻れるんだ」

 叩きつけられるようにして閉められたドアの音に身が竦む。震えながら、リボンを外した。喉の奥が、せり上がる熱いものでいっぱいになっていて苦しい。その熱さは身体全体に染みわたっていき、視界がぼやける。私の意思に反して、ぼろぼろと出てくる涙が、ドレスに幾つもの跡を残した。

「馬鹿な子ね」

 顔を上げると、心底軽蔑した眼差しを携えたお姉さまが、入り口に立っていた。

「先に行っているわよ。後からどうにかして追いかけてきたら?―無理なら、お仲間のシン
デレラと一緒に留守番してなさいよ。ああ、でも」

 お姉さまが口の端を歪めた。映画に出てくる、悪者のピエロの笑顔をそっくりそのまま張り付けたような笑みだった。

「あの子には、舞踏会を見に来れるような履き物すら無いんだったわ。残念」

「シンデレラ!」

 シンデレラに与えられた唯一の部屋―我が家で一番古い物置小屋に走る。そこにはうずくまるシンデレラがいた。不自然に床に広がる水たまりの中に、途方に暮れた幼い子供のように、力なく佇んでいるようにも見える。

「大丈夫?ねえ、どうしたのよ」
「ごめんなさい…‥」

 絞り出すように聞こえた声にハッとする。服もびしゃびしゃに濡れていた。

「早く着替えなきゃ。風邪をひいてしまう」
「お義姉さま」
「何なの、さっきから」
「靴が‥」

 胸に抱きかかえるようにして持っていたものを差し出す。ナイフで切り刻まれたような跡。私がシンデレラにあげた、父からもらった靴だった。

 胸の詰まるような思いでそれを見つめる。父との思い出。これを履いてサーカスを見に出かけた時もあった。音楽会に出掛けて美しい音楽に酔いしれた日も。私が作ったお話を親族に聞かせるときも、張り切ってこの靴を履いた。

 再び、私の目からみっともない程に大量の涙の粒がぼたぼたとこぼれる。

「お義姉さま…!」

 私の胸に飛び込んできたシンデレラを、強く抱きしめる。

 世界で一番美しく可愛らしい、そして誰よりも気に食わない―私のたった一人の義妹。

「大丈夫よ、靴ぐらい」
「でも―」
「今度は私のお古じゃなくて、一緒に靴を買いにいきましょう。時々靴を取り換えっこしても面白いじゃない」

 ミランダ、と私は妹に呼びかける。妹の先に―過去の私を、見つめながら。

「あなたは何も悪くないのに、こんな辛い目に合わせてしまってごめんね。本当は、私―」

 私の言葉をかき消すように、来客を知らせるドアベルが鳴った。
 顔を見合わせる私たちに、おーい、と聞きなれた男性の声がする。

「もう、出掛けてしまったのかなー?」 
スペンサー様だった。

****************

「初めまして。私はマイケル・スペンサー。ジュリエッタのお父上と懇意にしていたもので、今でもこうして、時々お邪魔させてもらっているんですよ」
「初めまして。…ミランダ・ナッシュビルと申します」

 恐縮しきった声でシンデレラは言った。無理もない。ずぶ濡れで汚らしい服を着たままで、燕尾服を身にまとった紳士を応対しなければならないのだから。私も涙と鼻水で折角施した化粧は恐らくぐちゃぐちゃと汚らしくなっている。

「いやあ、舞踏会に二人の姿が無かったものだから、迎えに来てみれば。これは大急ぎで準備しなくちゃあね」

二人でもじもじと、まるでいたずらが見つかって怯える子どものように佇んでいると、スペンサー様がぽん、と手を打った。

「さてさて。まずは、その服を乾かそう。ジュリエッタも、その涙を拭かなければ」

 スペンサー様が、ズボンの左ポケットの中から白いハンカチを取り出した。左手の上に乗せたハンカチを、右手の人差し指でとんとん、と2回叩く。
 
 途端に、ハンカチが見るからにふわふわで上質そうなタオルへと変化した。
 
 私とシンデレラが同時に目を見開く。私たち二人に茶目っ気たっぷりのウインクを投げながら、スペンサー様は白いタオルをシンデレラに手渡した。そのまま、今度は右ポケットからピンク色のハンカチを取り出し、同じようにタオルへと変え、今度は私に手渡す。

「失礼するよ」

 私の右肩を1回、シンデレラの左肩を2回。仲の良い旧友と出会ったような気軽さでスペンサー様が軽く叩く。私の汚らしく、不快だった顔がまるで洗顔仕立てのような清潔感で覆われたのを感じ取った。慌てて、部屋の中にある鏡を見る。自分でした時とはまるで別人の
ような仕上がりの化粧が施してあった。

「こんなことって!」

 シンデレラが素っ頓狂な声を出した。ずぶ濡れだった服はどこかへ消え失せ、代わりにシンデレラによく似合いの、薄いロイヤルブルーのドレスを身に纏っていた。

「スペンサー様、あの…」
「ジュリエッタ、私の質問に答えてほしい」

 私たちの方が、山ほど聞きたいことがあるのに!そう言いたかったけれど、いつになく厳しさを感じさせるスペンサー様の表情に、出かかっていた質問もすぐに引っ込んでしまった。

「いつから、服用しているんだい?」

 スペンサー様を見つめた。労わるような、悲しんでいるかのような―呆れたような、その眼差しに、私はまた、喉の奥が熱くなる。

「服用?」

 私たちのやり取りが飲み込めていない様子のシンデレラを見つめる。ああ、またこの子を傷つけてしまう。それを、私は目の当たりにしなければならない。

「出してごらん。持ち歩いているならね」

促されるままに、震える手でポケットから小瓶を取り出す。

 あの日、母から手渡されたものだ。
これを少しずつ、シンデレラの食事や飲み物に混ぜるんだよ。
そうすれば、あの子が相続したものは全て、この家の財産になるのだから。

 どんなに酷い悪夢よりも残酷な言葉に、私は世界が全て黒塗りされてしまったかのような絶望を覚えた。この家にいる限り、私は心休まる日が来るとは思えない。

 それなら、いっそのこと―私が、死んでしまえばいい。

 シンデレラと二人でお茶をするときだけ、母から手渡された毒をこっそり飲み物に混ぜた。母に尋ねられたとき、都合が良かったのだ。「2人っきりの方がさりげなく入れることができるから」と。少しずつ中身が減っている瓶を見せることもできる。

 顔色は悪くなるし、元々むくみ気味だった身体が不自然に膨らむ様子は我ながら不気味だった。じわじわと蝕むように染み入ってくる痛みで、夜眠れない時もあった。
けれど、私は確かに幸福だった。

 これで、私の身に起きた全ての不幸を終わらせることができるのだから。

「ジュリエッタ、これを」

 スペンサー様が渡してきた小瓶を見つめる。

「解毒剤だよ。一度これを飲んで、それから治療しよう」
「―嫌です」

 反射的に声が出た。

「お義姉さま!」

 シンデレラが殆ど悲鳴に近い叫び声をあげながら、私にしがみつくように抱きしめてきた。

「あなたがいなくなったら私、この家でどう生きていけばいいの!」

 シンデレラの華奢な肩を両腕でそっと包み込む。

「ごめんね。でも…私、もう生きていくことに疲れてしまった…」

 母や姉に虐められ、今度は自分より年下の女の子を同じ目に合わせた。どんなに目を背け続けても、罪悪感はひたひたと私の中に侵食し、自分の中にある良心が悲鳴をあげ続けた。
本当はシンデレラを守りたい。本当は、私自身は—

「なあ、ジュリエッタ」

 スペンサー様が、私の右手を持ち上げ、そっと握った。

「私は、君の父上からよく聞かされていたよ。『ジュリエッタは人一倍感受性の強い子だ。おまけに勇気も度胸もある。あの子なら、世界のどこにいたって、きっとあの子らしい道を歩いて行ける』ってね」
「お父様が…」
「ジュリエッタ、君はどうしたい?本当はどんな風に生きていきたい?」

そんなこと、ここ数年で、考えたこともない。そう答えようとしたのに、私の口は意思に反してどんどん勝手に動いていく。

「私は—私は、本当は、作家になりたいの」

まるで魔法にかけられたようだった。

「ずっと昔から物語を作るのが好きだった。お父様もよく褒めてくれた。それが嬉しかった。私、お父様に褒められるのが一番好きだったの。どんなに辛いときでも、お父様と一緒に読んだ本を読んだ時だけが私の気持ちを救ってくれた。私もそんな誰かにとってのかけがえのない物語が書けるようになりたい。そんな風に、生きたい。もう誰かを傷つけるようなことはしたくない。シンデレラにも―ミランダにも、幸せになってもらいたい…」

 嗚咽をもらしたシンデレラが、また私にすがるようにしてしがみつく。その重さを感じながら、私も涙を流した。さっき綺麗にしたばかりなのに。そう思っても、瞳からぼろぼろとこぼれていく。

 ずっと押し留めていたものが決壊した反動だ。シンデレラにつられるように、私もわあわあと、みっともなく泣き喚いた。この家で、こんなに気にせずに大声を上げて泣いたのは何年ぶりだろう。

「それが君の本心ならば、もうそれを投げ捨てるようなことは言ってはいけない」

 スペンサー様の体温がすっかり移ってしまった右手の掌の上に、黒い小さな小瓶をのせられた。少し傾けると、たぷん、と液体が揺れるのが分かる。
私にしがみついたままのシンデレラの涙で濡れた瞳と目があった。

「お義姉様、もし作家になったら私を主人公にして」
「あなたを?」
「そう。とびきりのハッピーエンドにしてね。『王子様と結婚して、末永く幸せに暮らしました』って」

だからお願い。シンデレラは私の頬に両手を添えた。

「私はもう、身近な人が誰も死んでほしくないの」

 シンデレラを見つめる。シンデレラの瞳に、私自身が映っていた。
これは、過去の―情けなくてみっともない、自分の意思を持たない私自身だ。

「分かった」

 シンデレラの後頭部をあやすようにして撫でる。
「『意地悪な継母と姉にそれた大層虐められていました』って、ちゃんと隠さずに書くわ」

 シンデレラが微笑んだ。僅かに細くなった瞳から、私の姿が見えなくなる。
小瓶の蓋を開け、一気に中身を呷った。喉が熱くなり、やっとの思いで全て飲み込む。

「スペンサー様、お願いがあります」
「何なりと」

 スペンサー様が恭しく頭を下げた。

「私とシンデレラに、新しい靴を。―どんな場所にでも、歩いていけるような。幸運を掴みにいくためのチャンスを、私たちに準備してくださらないかしら」

「勿論。とびきり特別な靴を二人にプレゼントしよう。自分たちの意思で、前に進んでいけるようにね」

 窓の外から、いつの間にか日が沈んだ後の冷気がゆっくりと入り込んでくる。私はシンデレラの手を握った。シンデレラも、私の手を強く握り返した。

「さあ、どうぞ」
 
 興奮と少しの怯えに震えながら、私とシンデレラは魔法使いが用意してくれた新しい靴を履く。

「私には王子様はいらない。自分自身の手でこの家を出ていく。私のやりたいように―生きる」

自分自身に言い聞かせるように、私は呟く。

 柱時計が、刻を知らせるベルを鳴らす。私たちにとっての、運命を変える新しい夜がすぐそこにまで迫っていた。


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