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物語の欠片 象牙色の城郭篇 4

-レン-

 左手の人差し指を折り曲げて唇にそっと触れる。レンの視線の先にはグラスに注いだ水があった。ゆっくりと息を吐き出すと水面が微かに揺れた。その揺れを注意深く観察する。
 部屋には痛いほどの静寂が満ちていた。
 何かを宣言したあとの族長の行動は早い。レンとシヴァに鳥とコミュニケーションをとる方法を教えると言ったその翌日、つまり今日、夕刻の報告のために族長の家へ行くと、早速指導が始まった。明日からは朝の打ち合わせを少し早めることになった。その時間に少しずつ、これまで族長だけの秘密だったものを教えてもらうことになる。他の皆には今のところまだ秘密だ。ただし、家族には話しても良し。この制限が無いだけでも、族長が引き継いだ時よりもずっと楽だろう。
 意外なことに、人間と鳥が聞き取れる音の音域はほぼ同じなのだそうだ。鳥の方が僅かに広い。マカニ族はそこの音域を使う。人間には聞き取れないが鳥が聞き取れる音域。それは、他の種族に技術を盗まれないための工夫だったのだろうと思う。
 人間に聴こえない音をどのように学ぶのかというと、水の波紋を使う。そのためにレンは、グラスに向かって指笛の訓練をしていたというわけだ。夜、カリンの居ない静かな家でひとり指笛の訓練をしていると、だんだん聴こえないはずの音が聴こえるような気がしてきた。それは少し危険だと自分で思う。明らかに幻聴なのだろうが、正しい音が出せている気になってしまいそうだからだ。
 少し根を詰め過ぎたかと思い、大きく息を吐いた。
 別れ際、シヴァにも注意されたのだった。レンは訓練に集中すると周りが見えなくなるから、気がついたら朝になっていたなんてことがないようにと笑うシヴァの顔を思い出す。そういうシヴァも、きっと今頃、家族が寝静まるのを待って訓練をしているに違いない。
 今日習ったのは、鳥に挨拶する方法。あまり遠くまで響く音ではないので、近くにいる鳥に向かって、敵意が無いことを示す目的で使う。それができるようになれば、族長にとってのヤナギのように、自分の相棒になる鳥を見つけることができるかもしれない。
 基本の音が出せるようになると、あとは相棒の鳥と一緒に訓練をする。鳥側にも訓練が必要だからだ。そう遠くなくやってくるだろうその日を想像するとなんだか不思議だった。
 マカニの村には、鳥に餌をやってはいけないという掟があった。人間が餌をやることによって鳥が生きていくために大切な能力である野生の狩猟能力が失われてしまうからだ。それはマカニ族が鳥と暮らしていた時から変わっていないらしい。当時も鳥たちは皆基本的に放し飼いにされており、必要な時に指笛で呼ばれていた。昔のマカニ族と鳥たちは適度な距離を保ちつつ信頼関係を結んでいたのだった。
 しかし王族による迫害により鳥たちが失われ、代わりに翼を得たマカニ族は指笛の技術も失った。指笛が族長だけのものになってから、唯一鳥を餌付けすることを許されているのは、翼技師の工房で翼の研究用に飼われている鷲に対してだけだ。その掟は族長の相棒だったヤナギや今回やってきたモミジに対しても同様で、彼らは基本的に外で自分たちで食事をする。
 レンが子供の頃習ったマカニの歴史には最初から翼があった。翼を最初に開発した人の話は伝説のように伝わっていて、いつ頃の話なのかも、何故翼が必要だったかも語られなかった。しかしその伝説の翼技師はマカニ族にとっては英雄で、翼技師は戦士と同じくらい子供たちに人気のある職業だ。
 迫害の歴史を知った今のレンには、それが600年前付近であることが分かる。そして、王家が始まったのが3000年前だということも知った。つまり、マカニ族が翼と共に生きてきた期間より、鳥と暮らしていた期間の方がずっと長いということだ。
 生まれてからずっとマカニに暮らしているのに、知らないでいたことの何と多いことだろう。自分がマカニの歴史だと信じて来たものは、そのほんの一部に過ぎなかった。むしろマカニの外に出て行ってからの方がマカニのことをより知ることができた。そういうものなのだろうか。
 「よし。弓と翼の手入れをしよう。」
 レンはわざと声に出して気持ちを切り替えた。新しいことを習い始めた興奮と、それに伴う思考で眠れそうになかった。しかし睡眠不足は戦士にとっては最悪だ。体調を整えるのも大切な仕事のひとつだった。
 子供の頃からずっと続けている弓と翼の手入れをしていれば心が落ち着きそうな気がした。
 果たしてそれは正解で、ひと通り弓の点検を終える頃には昨日までの自分に戻っていた。歴史がどうであっても自分にとって弓と翼は一番身近な味方だ。レンは安心してひとりのベッドで眠りについた。

 朝一番の、誰も居ない訓練場がレンは大好きだ。
 昨日訓練を終えた時のままのはずなのに、全く新しい感じがする。ここへ来ると新しい一日が始まったことを実感するのだ。
 結局昨夜もいつもと同じように休むことができたので調子も上々だ。初夏に近づいて行く大好きな気候も相まって気分がいい。ふと、冬の終わりに思いついたことを試したくなった。
 自分たちの翼は、どこまで高く飛ぶことができるのだろうか。
 族長もシヴァも試したことが無いという。
 ちょっとやってみようか。
 風も穏やかで陽射しもまだ強くない。高く飛ぶには適している条件に思えた。レンは訓練場を横断して飛行台に立った。上空に鳥の影が見えた。先ずはあそこまで飛んでみよう。
 飛行台を蹴って翼を大きく羽ばたかせる。小さく旋回しながらゆっくりと高度を上げて行った。
 すぐにマカニの村の在る峰の頂上へ到達する。以前はこの高さまでも飛んだことが無かったが、最近海側へ行くために峰を越えた。ここがこれまで飛んだ最高高度だ。
 レンは更に旋回を繰り返した。王国で最も高い山の峰の上まで出たので視界を遮るものが何もない。今日は雲もあまりなく、以前見た海や、カリンの居るアグィーラが遠くに見えた。先程見た鳥は既にどこかへ行ってしまったようで見当たらない。身近な目標を失ったレンはとりあえず上昇を続ける。
 どのくらい昇ったのか分からない。眼下にマカニの峰が遠く見える。最初に感じたのは息苦しさだった。反射的に身の危険を感じた。
 レンは上昇をやめ、旋回しながら高度を下げようとした。しかし、翼の動きがいつもと違う。翼に受ける空気の抵抗が少なく、上手く方向を変えられなかった。嫌な予感が頭を掠める。
 その時、視界に再び鳥の影が目に入った。先程の鳥と同じかどうかはわからない。その鳥は翼をやや鋭角に折りたたみ、空を滑るように下って行った。
 あれならできるかもしれない。
 急に高度を下げることの影響が心配だったが直滑降よりはましだろう。墜落するよりは随分いい。
 レンは翼の角度を調整して、旋回ではなく空をジグザグに縫うように直線で滑空しながら素早く高度を下げて行った。
 ある程度下ると呼吸が楽になった。翼に感じる抵抗も普段とほぼ同じだ。ここまでくれば大丈夫だろう。そう考えて初めて心臓が波打った。危ない所だった。あの辺りが限界であることをレンは深く胸に刻んだ。
 上空は空気が薄い。そして、空気の抵抗が違う。
 あの息苦しさと翼の嫌な感触はずっと忘れられない気がした。
 訓練場の飛行台が小さく目に入ったところで、レンは飛行台めがけて一直線に降下していった。その隣を小さな影が物凄い速さで追い抜いて行く。目をやると、先程の鳥だった。あれはきっと隼だ。レンは興味を惹かれて隼の後を追う。とても追いつける速さではなかったが、だいたいの位置は目で追うことができた。
 レンが、隼が向かったと思われる木の傍まで来ると、嘴に鳩を咥えた隼が飛び出してきた。レンを不思議なものを見るような目つきで見つめる。恐れているような雰囲気はない。ただ、獲物を奪われるのではないかと警戒しているように見えた。
 試しに、昨日憶えたばかりの指笛を吹いてみる。
 隼は驚いたのか、咥えていた鳩を落とした。それから我に返ったかのように、落ちた鳩を追って谷底の方へ急降下して行った。
 レンは申し訳ない気持ちになって、ごめん、と小さく呟いた。
 上空から名前を呼ばれ、空を仰ぐと赤い翼が見える。
 「シヴァさん、おはよう。」
 「相変わらず早いな。しかし、そんなところで何をやってるんだ?」
 「族長の家に行ったら話すよ。」 

 朝の打ち合わせの席で先程の出来事を話すと、案の定シヴァに叱られた。ひとりで居る時に危険を伴う可能性があることをやるべきではない。レンも重々解っていたことだった。
 冷静なつもりでも、昨日の高揚感が続いていたのだと今ならば分かる。素直に謝り、深く反省をした。
 「レンも反省したようだし、そのくらいにするがよい。レンが身を持って体感したことは、今後にとって貴重な情報だ。空気が薄くなることは何となく想像がつくが、翼が上手く動かぬほどに気圧が変化することは翼技師たちにも伝えてやるといい。」
 「有難うございます。本当に申し訳ありませんでした。シヴァさんも、ごめんなさい。自覚が足りなかった。」
 「そう、お前はな、マカニに無くてはならない存在なんだ。そこを自覚してもらわないと困る。」
 シヴァも既に笑顔でレンの肩を叩く。族長にもシヴァにも本当に頭が上がらない。
 「その隼が居てくれて助かったな。」
 「うん。もっと指笛が上手くなったらお礼が言いたいな。多分この辺りに巣があるんじゃないかな。これまで鳥を識別しようと思ったことが無かったんだけど、隼はたまに見るよね。」
 「そうだな。俺も昨日からやたらと鳥の存在が気になる。」
 「二人とも筋が良いな。すぐに同じ種類でも個体の識別ができるようになろう。そして、そのうち何となくお互いに惹かれる鳥が現れる筈だ。焦る必要はない。お前たちはすぐに族長を継ぐわけではないのだからな。…さて、では今日の訓練を始めるとしよう。」
 「はい。」
 レンとシヴァは声を揃えて返事をした。


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