物語の欠片 朱鷺色の黎明篇 6 ユウガオの話
-ユウガオ-
ユウガオの家はアグィーラの城下町の東の端にある。
東門のすぐ近く、本当の東の端である。此処に決めた理由は、中央から離れている分価格が手頃だったことと、静かな環境、そして住み慣れた孤児院からもそう遠くないことの三つだ。
ユウガオが医局の官吏試験に合格してすぐに、育ての祖母が死に、孤児院は国の管理下になった。官吏補となる予定だったユウガオは官吏用の宿舎に入ることもできたのだが、僅かばかりの住宅補助を貰って城の外へ住むことを選んだ。暫くひとりになりたかったからだった。
長らく集団生活をしていられたのは、ひとえに育ての祖父母のおかげだ。孤児院に残る「兄弟姉妹」たちのことは気にかかったが、できるだけ城の中の動向に耳を澄ませつつも、ひとりで居たかったのだ。
小さい頃から祖母の手伝いをしながら兄弟たちの世話をしていたので、一通りの家事は苦にならない。料理は特に好きだ。
元々上級官吏の娘であった祖母は舌が肥えていた上に、一通りの様々な作法の教育を受けていた。料理もそのひとつだった。とはいえ、普段は使用人たちが作っていただろう料理だから、家を出た直後の祖母は、相当苦労したと思う。それを微塵も感じさせず、楽しそうに料理を作る祖母と一緒にキッチンに立つことが、ユウガオは大好きだった。
食べるものが身体を作るのよ。それに、美味しいご飯を食べるとしあわせな気持ちになるでしょう?だから、食べ物は心も育ててくれるのよ。
ひとりでキッチンに立っていても、未だに祖母の声が聞こえる気がすることがよくあった。
出廷する日は、夜は何時に帰ってくるか分からない。だからユウガオは毎朝決まった時間に起きて、朝食と、夕食をいっぺんに作る。帰ってきたら温めるだけで食べられるような煮込み料理が多かった。野菜をたっぷり、肉か魚を少しだけ。豆も入れれば満足感が増してなおいい。
外はどんよりと曇っていた。ほとんど室内で仕事をするユウガオに、天気はあまり関係ないのだが、やはり晴れていた方が気持ちがいい。
城までの道の途中に孤児院がある。
かつて祖父母が暮らしていた家は取り壊され、今は敷地一杯に石造りの四角い建物が立っている。国の規定に従って大人数の面倒を見るためには、その方が効率が良かったのだろう。
以前はそこにささやかな庭があり、ささやかな家庭菜園があった。そこは子供たちの大切な遊び場だった。今は見る影もない。
滅多にない感傷に浸りそうになるのは、この天気のせいと、最近起こった事件のせいに違いない。
セダムが医局にやってきて二月が経つ。ユウガオはひと通り薬学の基本を教え終わり、昨日医術の教育担当に引継ぎをしたばかりだ。おそらく根が真面目なのだろうセダムはよく勉強したが、少々真面目過ぎるところがあるとユウガオは思う。だからこそ、色々なことが赦せなかったのだろう。
「ま、たまに揶揄いに行ってやるか。」
ユウガオの呟きに、犬を散歩していた老人が怪訝そうな顔を向けたが、ユウガオはそれには構わず、早足に城へと向かった。
ユウガオの出廷時刻は日によって多少の差があるが、医務室が本格的に動き出す九時より前には確実に受付に座っていなければならない。
薬師室の受付が相手するのは、主に処方箋を持ってくる医務室の薬師室担当係だが、たまに直接医師ともやり取りをすることがある。処方に関する助言を求められることが殆どなので、調べずに即答できるものなら自ら回答するか、あるいは適切な薬師を紹介することになる。
その他の主な仕事は薬の在庫を管理すること。最近はアグィーラ外とのやり取りも増えたので、交易室に足を運ぶことも増えた。
新規の薬剤が開発されたら法的申請をすることもある。雑用係だと言えなくもないが、ユウガオはこの仕事が嫌いではなかった。
暫くセダムの教育係をしていたので、一日中受付に座るのは久しぶりだった。わくわくしながら椅子に腰かけると同時に同僚に声を掛けられる。
「おはよう。楽しそうね。」
「久しぶりに此処でゆっくりできるからな。」
「本当に変わってるわ。私は貴方が居ない間、此処に座ってる時間がいつもより長くて飽き飽きしていたというのに。」
「それじゃあ、俺が戻ってきて喜んでるだろう。俺の有難さが分かったか?」
「はいはい。身に染みて分かったわ。これ、昨日の残りの目録。後はよろしく。」
「任せとけ。」
ユウガオは目録を開くと、昨日の残りだけではなく、遡って不在の間の薬の動きも確認する。予想通りワイとのやり取りが活発だった。
あのやり手の族長は、やはり何か企んでいるに違いない。
アグィーラの医局からシレネが、ワイの族長補佐にと派遣されてからそろそろ半年だ。近々大きな動きがあるかもしれない。今日定期の仕事でやって来るはずのカリンは、ワイに行く用事は無いのだろうか。いや、交易室の人間に話を聞いた方が早いか。
そんなことを考えていたら薬師室の扉が開いた。
「あれ?カリン、お前早くないか?まだ十時だぜ。馬で来たんだろう?」
「夏なので、日の出が早いのです。日の出と共に出て参りました。ユウガオさん、もう教育係は終わったのですか?」
「ちょうど昨日までだった。できるだけのことは詰め込んでやったよ。」
カリンも気になっているだろうと思い、この二月の間のセダムの様子を簡単に話してやる。
「後でご挨拶に伺います。」
「そうしてやるときっと喜ぶ。しかしその前に、この目録を何とかしてくれ。」
カリンは笑いながら目録を受け取ると、薬草の処理室へと消えた。
カリンに渡した目録の中に、何種類かの試薬があった。人の身体の感覚を部分的に麻痺させる薬だ。十月前のワイの事件がきっかけで開発されることになった薬で、成功すれば、今みたいに全身麻酔で患者を眠らせなくても、必要に応じて部分的な麻酔だけで治療が可能になるし、これまで、全身麻酔をするほどではないと判断された痛みを伴う治療にも適用することができる。
全身麻酔は危険性も高く扱いも難しいので、是非とも成功に持って行って欲しいが、問題は治験だなとユウガオは考える。どのくらいの量を使えばどのくらい麻痺するのか、最終的には人間の身体で試さなければならない。
治療するための薬ではなく、感覚を麻痺させるための薬だ。被験者が現れるだろうか。
「あら、今度は難しい顔をしてる。」
先程の同僚が可笑しそうな顔でユウガオを見詰める。
「うるさいな。仕事しながらにやにやしてたらそれこそ変だろうが。」
「してるわよ、貴方時々。」
「さて。その時俺は仕事をしているのかそうでないのか。」
「あらあら、それなら室長に進言しなきゃ。」
「どうぞご自由に。…で、何だ?」
「室長がお呼びよ。」
ユウガオはわざとらしい溜息をついて席を同僚に譲る。
薬師室長であるバーベナは、薬師室の一番奥の席に座っている。机も立派で、明らかにそこに居る人間が偉いことを主張していた。恰幅の良いバーベナは、見た目も偉そうだった。医局長のツツジは痩せていて不健康そうな顔をしている。医務室長のヘムロックが最もバランスが取れていて健康そうだ。医局の会議でちぐはぐな三人が並んで座っていると、ユウガオはいつも、こみ上げる笑いに堪えるのに相当の努力をしなければならない。
「なかなか評判が良かったそうじゃないか。」
「教育係ですか?まあ、人当たりがいいくらいが取り得なもので。」
「セダム様はいたくお前をお気に召したようだよ。ツツジ様からもお褒めの言葉をいただいた。」
「それはそれは…畏れ多い。」
さぞかし鼻が高かったでしょうとは、さすがに言えなかった。
「カリンは、あれはまた何かやったのか?」
「は?私は何も存じ上げませんが。」
セダムもツツジも、例の事件について何か言うとは思えなかった。そうだとすると本当に心当たりがない。
「先日いらしたリリィ様のご機嫌が悪かったから、また何かやらかしたのかと思ってな。」
「特に聞いていません。まだ、セダム様が官吏補から始めることに納得されていないのではないでしょうか。」
「そりゃお前、あんな事件を起こしたらなあ。自ら罪を告白されたとはいえ、降格で済んで、官吏資格を剥奪されなかっただけでも驚きだ。」
バーベナは急に小声になる。その口元は微かに笑っていて、いつもツツジに媚びへつらっていながらも、本気で仕えているわけでないことが知れる。城ではよく見る光景だ。今更嫌悪感もない。
「お話はそれだけですか?」
「そんなわけはないだろう。新薬の治験の件だ。」
早速来た。どうせ被験者を集めろと言うのだろうと思ったらその通りだった。公募して集まらななかった時の策も練っておくようにと言い渡される。
「医局の人間で試す…というのは無しですよね。」
「当たり前だろう。万が一何かあったらどうするのだ。」
いったい誰だったら、万が一何かあっても良いと言うのか。
言いたい言葉を飲み込んでその場を去る。
先ずユウガオにできることは、できるだけ詳細に、新薬の有効性やそれによって救える命について記載した募集要項を作り、自らの意思で手を挙げてもらうことくらいだった。
「被験者の公募ですか?」
夕方、薬草の処理室から出てきたカリンが、ペンを手に原稿と向き合っていたユウガオに声を掛ける。
「そう。今回は難しいな。そのまま麻痺が残ってしまう危険性について述べないわけにはいかないしなあ。」
「普通に考えたら怖いですものね。」
「微々たる報酬を貰ってもなあ。…だめだ。いい要素がさっぱり思いつかない。考えれば考える程、何らかの使命に燃えた人くらいしか協力してくれない気がする。画期的な薬なんだけどな。」
「全身麻酔に使っているダチュラや兜菊などよりは余程安全なのですけれど……」
「ああ、そちらから攻めるか……消極的すぎるかな」
「いえ。誠実だと思います」
「誠実か。言われ慣れない言葉だな」
「ユウガオさんは誠実ですよ。」
「そうか。じゃあ折角だから、その言葉、有難く受け取っておこう。…お前は自分の仕事終わったんだろう?目録を貰おうじゃないか。」
「何か、お手伝いできることはありますか?」
「いいよ。お前はすぐに面倒に巻き込まれるんだから、そうでない時くらい早く帰ってゆっくりしたらどうだ?」
カリンの引継ぎは大抵完璧だ。朝渡した必要な薬の目録に対して、整然と処理の記録が記されている。漏れもない。一日の仕事の終わりがいつもこんな風であれば爽快なのに、とユウガオは思う。中々そうはいかないのだ。
ひらひらと手を振ってカリンを送り出し、再び原稿に向き合う。
ひとり、またひとりと同僚が受付に居るユウガオに挨拶して帰って行き、薬師室にはとうとうユウガオひとりになった。
医務室もとっくに通常業務は終えている時間だろう。ひとりでここに座っていても仕方がないと考え、帰宅することにした。
日が暮れた道を街灯が煌々と照らしている。城下町の夜は明るい。各家々の窓にも明かりが灯っていた。
孤児院の脇を通り抜ける時、いつもその灯りを確認する。此処の灯りが、完全に無くなることなど、ないのだろうと思いながら。
ユウガオと一緒に育った「兄弟姉妹」達はすでに皆成人し、散り散りになっている。その全員の消息を把握しているわけではなかったが、少なくともこれまでユウガオの知る限り、深刻な状態で医局へ搬送されてきた者は居ないと思う。どこかで無事に暮らしていてほしかった。
家に戻り、湯を浴びた後で、作ってあった食事を温めて食べる。ユウガオは酒を飲まないので、食事はあっという間に終わる。ひとりの食卓は静かだったが特に孤独を感じることもなかった。
それなりに疲れてはいたが、やはり教育係よりは受付に居た方が気楽だ。ベッドに寝転がり、天井を見詰めながら、治験について考えを巡らせる。被検者になってくれる人物は大抵、自らが何かの病に侵されているか、身体は健康だがお金に困っていて報酬が欲しい者、そして、自分はもう先が長くないからと協力してくれる老人だった。
若くて健康で未来が明るい者が協力してくれる事はほとんど無い。
そのことはいつもユウガオの心をざわつかせる。
いい薬を開発したいのは事実だ。そもそも薬ができなければ救える命を救うこともできなくなる。しかしその過程で、何らかの弱みを持つ者に協力を得なければならないことは、仕方の無いことかもしれないが、すんなりと納得できなかった。
協力者が祖父母だったら、自分はどうするのか。
実際、お願いすれば協力してくれそうな人たちだった。
ユウガオはむくりと身体を起こし、キッチンへ行って冷たい水をグラスに一杯飲んだ。
こめかみの辺りがキリキリした。
「カリンならどうするかな。」
何か手伝えないかと尋ねたカリンの顔を思い出す。
昔から、本人はそんなつもりはないらしいが、常識破りのやり方で城の慣例を変えてきたカリン。
募集要項の文面ではなく、もっと抜本的な何かを変えなければならない気がした。
協力してくれる被験者のためになること。
続けて、祖父母の顔が代わる代わるに浮かぶ。
今更顔を出しにくいからと、最後まで医局へ行くことを拒んで死んでいった祖父…。
医術でできること…。そうだ。少なくとも、治験が原因で被害を被った人が泣き寝入りしなくて済むよう、補償してやる必要がある。勿論国から損害を被った場合、所定の手続きをすれば補償を受けることはできる。しかし、治験に手を上げてくれる人たちは、きっと国の法律や手続きに詳しくはないだろう。一方ユウガオは、薬関連の法申請をするため、比較的その辺りの事情に詳しい。治験が原因で被験者に健康被害が発生した場合の補償について、手続きをせずに済むよう、最初から募集要項に盛り込んでやるべきだ。
バーベナに報告するのは、すっかり下準備が整ってからにしてやろう。法務局に知り合いも居る。明日の朝一番に訪ね、受けられる補償と手続きについて念のため確認する。治験の影響がすぐに出るとは限らないから、協力後数年間は無償で医療を享受できるというのもいいかもしれない。
医療事故で発生した国の損害は、そのまま医局の収支に影響する。医局としては被験者が泣き寝入りしてくれた方が都合が良いのである。
しかし、法務局へ相談に行った後にその要項を取り消したとしたら、ユウガオの上司であるバーベナが取り下げたのだということが皆に知れよう。
報告した時にバーベナが浮かべるであろう忌々しそうな表情を見るのが、今から楽しみだった。
ユウガオは鼻歌を歌いながら、思いついた文面を書きつけるべく、ペンを紙に走らせた。
