物語の欠片 朱鷺色の黎明篇 13 エリカの話
-エリカ-
書簡に封をして書簡使へ届けるよう使いの者に告げる。
さて、これを見た王は何と言うだろうか。
最初はいつものように上皇宛に送ろうかと思ったが、途中で気が変わった。これはワイとしての正式な決定である。正面から行くべきだろう。
実はこれは、ギリアが病に倒れてからずっと密かに温めていた計画だった。今は殆どアグィーラが担っている医療。他の地域には小さな診療所が在るだけだ。エリカは、ワイに大きな医院を創ろうと思っていた。
昨年、正式に新法が施行されて種族間の交流の枷が外れた際に、現在のアグィーラを含めた五地域の人口配分が変わる可能性が出てきた。
現在は人口の多い順番に、アグィーラ、ポハクのあるラプラヤ、ワイのあるエルアグア、アヒのあるフエゴ、最も少ないのはマカニのあるエルビエントだった。
さすがにエルアグアの四倍の人口を持つアグィーラには届かないだろうが、居住環境の厳しいラプラヤから、快適なエルアグアへの流入は期待でき、エリカの治めるワイがアグィーラに続く第二の町になることはあり得ないことではなかった。
魔物が減った今、長寿の者が増えている。人口が増えれば当然医療はひっ迫するだろう。その前に体制を整えたかったのがひとつ。どうせならば、アグィーラの医局に頼らずとも済む独立した医院を整備し、国の医療の一端を担う程になろうと考えたことがひとつ。
そうすればアグィーラも、ワイの存在を軽視することはできなくなるだろう。
ギリアが病に倒れ、アグィーラから医師が派遣されてきた時、エリカは好機だと思った。原因不明の流行り病の蔓延するワイに派遣されてきた医師だ。きっと訳ありだろう。その中の誰かを口説き落とすことができれば、最初の一手になる。
エリカの手中に落ちたのは、医師としては優秀ながらも城の医局での出世争いにはついて行けず、待遇に不満を抱いていたシレネだった。巧みに不満を隠してはいたが、それは自分をそう納得させていただけのこと。
能力を正当に評価してやり、相応の待遇を提案すると、最後にはギリアに代わる新しい族長補佐としてワイへ来ることを承諾した。
陛下は、どう思われるだろうか。
エリカが陛下と呼ぶのは当然上皇のことだ。最近は殆ど表には出ず、ゆったりとした時間を過ごしているのだということは、度々やり取りをする書簡に書いてあった。
陛下の言われる「ゆったり」は、一般人とは違うのだろうけれど。
そう考えて、エリカは口元を緩める。
陛下は、稀有なお方だ。
王だったからだというわけではない。エリカはその前の王も知っているが、現上皇の方が明らかに賢王だった。
即位して間もなく、長い間治水が課題だったアグィーラの河川を整備し、次々とそれまで行き届いていなかった部分の法を整備していった。何よりも人を見る目が鋭く、人を使うのが上手い。
治水はエルアグアの得意分野だったので、即位直後はかなり頻繁にやり取りをしていたが、間近で見たその手腕には惚れ惚れした。
エリカ自身、人を使うのは不得手ではなかったが、上皇のそれには負ける。エリカにとっては、上手く使われることは快感でさえあった。
出逢った頃、上皇が王子であった頃からそうだった。おそらく、父王をも、上手く操っていたのではないだろうか。
一方、上皇が王妃や姫に向ける視線は常に暖かかった。
そこへは、決してエリカが立ち入ることのできない何かがあったが、自分の求めているのはそれと同じ視線ではないとも感じていた。
その証拠に、王妃に嫉妬の念を抱いた事は無い。寧ろ…。
「…失礼いたします。少しよろしいでしょうか。」
ノックと共にシレネの声がして、エリカの思考は中断される。
良い所で中断してくれたものだ。この先を考えていたら、エリカは不快になっていたに違いない。
「勿論よ。入って頂戴。」
適度な歓迎の念が汲み取れるような口調で、エリカは返事をした。
「無事、一通りの教育が終わりました。勿論、元々診療所に居た面々以外はすぐに使い物になるものではありませんが。」
「分かっています。ご苦労様。こちらも丁度、王宛に書簡を送ったところよ。」
「そうですか。いよいよですね。」
「貴方のおかげよ。思った以上に優秀だった。感謝しているわ。」
「勿体ないお言葉です。私は寧ろ、医師としての夢を叶えさせていただいているのです。まさか、自分の医院を持つことになろうとは。」
「医師としてだけではない。族長補佐としても、うまく立ち回ってくれているじゃない。」
「それはエリカ様のご指示が的確だからです。」
「指示を出せば皆その通りに動くのだったら苦労はしないわ。それに、指示通りにしか動けないのも困る。」
「それは確かに。」
シレネは、僅かに皮肉な笑みを浮かべる。
利害の完全なる一致程強固な絆は無い。
食事は住み込みの使用人が準備してくれる。
族長になって二十年以上経つ。使用人はエリカの好みを把握しているので、特に指示を出すことはしない。時間もいつもどおりであれば特に指定はしない。
ギリアが居た頃は食事はなるべく一緒に摂るようにしていたが、シレネは族長補佐ではあるが配偶者ではない。便宜上同じ館に暮らしてはいるが、基本的に食事は別々に摂っていた。
しかしこの日は、思い描いていた計画が成就するまであと一歩というところまで来ためでたい日だ。エリカはシレネに声を掛け、一緒に夕食を摂ることにした。使用人にも、祝いの膳である旨を伝えてある。
普段は余計なことは口にしないシレネだが、酒の力も手伝って饒舌だった。エリカの質問に従って、これまで語らなかった私生活についても少しずつ語り始める。
一時期は妻が居たこと、シレネが生真面目すぎて、出世の道から外れてしまったことに愛想をつかした妻と離縁したこと、それでも自分には医術の道しか考えられず、地道にその道を邁進してきたこと、城の医局での醜い権力争いについて。
「正直を申しますと、エリカ様に最初にお声掛けいただいた時も、そのような権力争いの一環かと警戒していました。既に、上手い話には手を出さない心が育っておりまして…。」
「ええ、貴方、そんな感じだったわ。」
「しかし違った。エリカ様は純粋にこのワイの町を良くしようとしていらっしゃる。」
「そう見えているならば嬉しいわね。」
「人口が増えた時の為に医療を整備しようという先見の明にも感服いたしましたが、何より感動したのは、雨乞いの女を看護師として再教育するという案です。」
そう。以前、ワイが深刻な旱魃に陥った際、遥か昔から行われてきた雨乞いの秘密が解き明かされた。それと同時に、今の技術があれば、雨乞いの女自体は必要が無いのだということも分かってしまったのだ。
それまでワイの町で最も重宝されていた雨乞いの女たちは、突然その地位を失った。エリカ自身、元々は雨乞いの女だったので内心は複雑な想いだった。
暫くの間は現代の技術を活用することはせず、旧来の雨乞いの女たちの仕事を残した。しかし、このままでは意味の無い古いしきたりだけが残ることになる。少しずつ別の職業を斡旋しようにも、かなりの数が居る。
この問題に契機をもたらしてくれたのも、医院設立計画だった。医院を運営するには人が要る。その人員をほぼそっくりそのまま雨乞いの女で賄うことにしたのだ。
勿論男手が必要なこともあるし、高度に専門的な知識が必要な仕事もあるが、そこは別な人員で補いつつ、雨乞いの女たちを少しずつ教育してゆくことにした。
雨乞いの女たちは、ワイの新しい事業である医院に必要な看護師として、新たな地位を得た。ワイ族には元々勤勉な者が多い。雨乞いの女たちも、殆どが自らの新しい役割に喜び、よく学んでくれたと思う。
「私はね、ワイの町を、アグィーラに続く第二の町にしたいのよ。」
普段ならエリカもこのような話はしない。しかし、今ならば話してよいかもしれないと思った。
「ほう。ポハクを抜いて、第二の町に。」
「これも貴方の言う、醜い権力争いに入るのかしら。」
エリカが挑戦的に微笑むと、シレネは言葉に詰まった。
「陛下は少しだけポハクを憂いていらっしゃる。」
エリカは上皇を意図して陛下と言っているが、おそらくシレネは現女王を思い浮かべているだろう。エリカにとってはその方が都合が良い。
「貴方、パキラに会ったことはある?」
「ポハク族の族長ですか?城にいらした際に遠くから眺めたことはありますが、直接はありません。」
「治安の悪いポハクを治めているだけあって、族長としては優秀だと思うのだけれど、少し型破りな男でね。以前国の考えにに反発したことがあるの。」
「それは存じ上げませんでした。」
「幾らアグィーラよりは小さくても、ポハクが第二の町で在る限り、影響力は大きいのよね。」
「それでは、エリカ様は、国の安定の為にワイを…。」
「陛下の為よ。」
そう言って嫣然と微笑むエリカに、シレネは何も言わなかった。おそらく国の為と陛下の為というのは同じことだと思っているのだろうが、エリカにとっては全く意味合いが違う。しかし、このような対応を含めて、シレネは優秀な男だと思う。
少なくともギリアよりは近しさを感じていた。
ギリアは親の決めた相手だった。当時ワイではそれが当たり前だったから、エリカは、何も疑わずにギリアと一緒になった。二十二歳の時だ。
水の化身の候補として城に招かれ、当時王子だった上皇と初めてきちんと話をしたのが二十七の時。それまでエリカの築いてきた価値観は、そこで大きく崩壊したのだった。
ギリアはワイ族らしく穏やかな性格で、勉学と書物と自然を愛し、エリカのことも真面目に支えてくれたとは思う。しかしそもそも、夫婦関係というものは、一方的に支えてもらうのではなく、支え合うものなのではないかと気がついたのは王子と妃の関係を目にしてからだった。
エリカは、自分がギリアのことを何も知らないことに気がつかされたのだった。
ワイでは、雨乞いの女は重宝されていて、皆に守ってもらうものだった。だからギリアとの関係も不思議に思わなかった。
しかしギリアは、エリカを愛していた訳ではなく、役目を果たしていたのだろうと気づいてしまった。ギリアはエリカに対して何も求めなかった。自分の中で完結してしまっていたのだ。
エリカは、本来自らの夫であるギリアに対して注ぐべき思いを、現上皇とワイの町の為に捧げた。
ギリアが病に倒れた際も、医院を設立することを思いついたくらいである。死期の迫るギリアに対して何の感慨も湧いて来なかった。次の族長補佐を誰にしよう。その程度の悩みだった。
しかし…。
シレネとの会食を終えた後、エリカはひとりで、かつてギリアの部屋であった場所へ向かった。
中の物はすべて処分してしまったので、そこにはがらんとした空間が在るだけだ。天窓から明るい月灯りが差し込んでいる。エリカは灯りを灯さず、後ろ手に扉を閉めた。
ギリアが生きている間、此処は、室内とは思えない程の植物で満たされていた。人が生活する為の物よりも、植物の方が多かった。
森になりたかったギリアは、この場所で、自分が森に棲んでいることを夢想していたのだろうか。
病に倒れた際に放してしまったが、鳥を一羽だけ飼っていた。エリカには名前も分からぬ小さな鳥だ。鳴き声が美しかった。その鳥の声は、ギリアにより一層森に居る臨場感を演出してくれただろう。
しかし本当のところは分からない。ギリアは自分のことは何も話さなかったし、エリカは訊いてみようともしなかった。
部屋に差し込む月の光は青みを帯びており、やや緑がかって見えた。此処が植物で溢れていた時であれば、きっと美しかっただろう。今はその光が、ひたすら冷たく石造りの床を照らしていた。
ふと、ギリアと最後に行ったアルカンの森が思い出された。
カリンの斡旋でそこへ行くのはエリカ自身はそれが二度目だった。一度目は上皇が一緒だった。
あの場所で、アルカンの森の主を通して聞いたギリアの声は、確かにエリカの知っている声だったが、それはこれまで何十年も一緒に暮らしてきたのにも拘わらず、エリカが初めて聞く、ギリアの心の声だった。
ギリアがあんな風に自分の胸の内を、感情をこめて語るのを、あの時初めて聞いたのだ。
月が石の床を照らしているその場所まで歩みを進める。
天窓の向こうの月が歪んで見えた。
一筋の水が頬を伝って唇を湿らせる。
口の中に侵入したそれは、ほんの僅かの液体であるにも拘らず、やけに塩辛い味がした。
ねえ、ギリア。
私はワイに医院を作るのよ。
町の中心はこの雨乞いの宮ではなく、その医院になる。
雨乞いの女がもてはやされていた時代はおしまい。
此処をどうしましょうかね。
ただの住居にするには広すぎるわ。
美術館にでもしようかしら。
貴方、文学は好きだったけれど、絵画はどうだったのかしら。私はそんなことも知らないわ。
私は文学よりも絵画が好きよ。だって静かなんだもの。
どんなに作者の感情をぶちまけた絵でも、そこは無音。言葉や音楽と違って、無理やり音が入ってきたりはしない。
絵は、静かに内側から感情が湧き出てくるのをじっと待ってくれる。
貴方はきっとそんなことは知っているわね。私は貴方のことを何も知らないけれど、貴方は私のすべてを知っていた。
もしかしたら、陛下への気持ちも。
ーー美術館か。いいのではないかな。医院も、良い考えだと思う。
先程とは反対の頬をもう一筋の水が伝う。
ギリア自身のことは何も知らないが、エリカの言葉にギリアがどう返すかは、分かる。
まるで今でもそこにギリアが居るかのように。
この部屋には、森や植物を描いた絵を沢山飾ろう。
そう思い至ると、エリカの頭の中に、次々と美術館の構想が巡り始めた。
しかし今日はもう遅い。そろそろ身支度をして眠らなければならない。明日は、ほぼ準備が整ったという医院を見に行くのだ。
昼間出した書簡は、明日にはアグィーラへ届くだろう。王からの返事にも備えなければならない。
王は上皇に相談を持ち掛けるだろうか。きっとそうするだろう。
近々アグィーラへ行くことになるかもしれない。
陛下にお会いできる。
上皇に会ったら、「ゆったり」した生活について直接聞いてみたいと思っていた。
医院の運営が安定したら、族長自体をシレネに譲ることも考えている。ワイの中心は雨乞いの宮ではなく医院になるのだ。これまで代々雨乞いの女から排出されてきた族長が、今後、医療従事者の中から排出されることになるのは自然なことだろう。
族長でなくなったら…
自分は何がしたいだろうか。今ならワイ以外の町にも行ける。どこに居て、何をしようが、自由だった。
静かに此処で、美術館を守りつつ余生を過ごすことはまだ想像ができない。
先ずは陛下とお話ししよう。
ベッドに入り、目を瞑る。
自分はきっと、満たされた顔をしているに違いない。
先程とは微妙に色合いの違う月の灯りが、エリカの部屋の窓をそっと照らしていた。

KaoRu IshjDhaさんに絵を描いていただいた経緯はこちら▼
