物語の欠片 象牙色の城郭篇 7
-カリン-
アルカンの森の主の広場へ通じるトンネルの手前にあるピンク色の花をつける木は、既に花を落としていた。前回訪れた時に印象深かった色彩は無く、少し残念な気がしたが、その木の足元には薄ピンク色の花びらの絨毯が広がっていた。
その幹にそっと手を触れる。前回聴こえた歌はもう聴こえなかった。
サクラサクラ…。
少し哀しい韻律だった。
カリンは諦めてアルカンの森の広場へとトンネルを抜けた。ここはいつ来ても明るい。さすがに嵐の日には来たことが無いが、曇天の日ですらどこか明るい雰囲気を湛えている。
木の枝のドームがある筈なのに、森の外よりも明るいのだ。
「カリンよ、よく来たなあ。」
「森の主様こんにちは。今日は薬草を採りに来ました。」
「そうかそうか。行っておいで。」
「はい。…あのね、主様。久々にあの夢を見たの。」
「ふむ。それは不思議なことじゃなあ。」
「私はどうしてあの夢を見たのだろう。えっと、つまり、今の話ではなく昔の話。これは、大地の化身の力なの?だとしたら大地の化身ってなあに?」
「ほっほっほ。壮大な謎じゃなあ。時が満ちれば分かろうよ。」
「今はまだその時ではないということね?」
「そのようじゃなあ。」
「分かりました。では、薬草を摘みに行ってきます。」
「森はいつでもそなたの味方じゃよ。」
「有難う。私も森が大好きよ。」
森の主との会話はいつもそれほど長くはない。しかしこの短い言葉のやり取りで、カリンの心は不思議なほど満たされるのだった。
一片の疑いをも挟まなくて済むような深い慈愛の言葉。
頼れる人が居なかった子供の頃だけでなく、大切な人が沢山増えた今でさえも、こんなにもカリンの心に深く深く沁み渡る。
森の子だったら良かったのに。
いつか呟いた言葉を心の中で呟く。
セダムは孤児院出身なのだという。何が原因で孤児院へ入ったのだろうか。数年前まではまだ多くの魔物が跋扈していた。魔物に両親を殺された可能性もあるし、事故や病気で両親を失ったとも考えられる。
魔物に両親を殺されたカリンは、幸い王室に拾ってもらえた。しかも我儘を言って、王室に留まるのではなく城の外に家を貰った。
その頃はまだ大地の化身だと知られていたわけではなかったのに、なんという幸運だったのだろうか。リリィに目の敵にされるのも仕方のないことなのかもしれない。
近くに居たヨギリがぶるんと小さく嘶いた。
その声にカリンははっとする。
ヨギリはヨシュアの馬だ。ガイアをマカニに置いてきているカリンは、アグィーラから出なければならない時はヨシュアの馬を借りていた。
「ごめんね。ヨギリ、有難う。大丈夫よ。私はもう森には閉じ籠らない。レンやヨシュアさんが居るんだもの。」
そう言ってヨギリの鼻先を撫でると、ヨギリは再びカリンの近くで草を食み始めた。
そういえばヨシュアがヨギリと出会ったのは、カリンが失意のどん底にある時だった。マカニへ帰ることのできなくなったカリンは、成人の祝いにヨシュアが馬に乗った姿が見たいと頼んで、一緒に牧場へ行ってもらったのだ。ヨシュアとヨギリは一瞬で家族になった。ひとりと一頭の美しい姿にカリンは涙したのを憶えている。その姿に勇気を貰ってアルカンの森へ行くことができたのだった。
考え事をしながらでも慣れた作業で、カリンの手は正確に必要な薬草を摘んでいった。程なく必要な薬草が揃う。
森に礼を言い、森の主に挨拶をしてヨギリに跨る。森の外へ出て後ろを振り返ると森の向こうにエルビエントの嶺が見えた。
明日の夕方、レンがアグィーラに迎えに来てくれることになっている。一緒に一晩ヨシュアの家で過ごし、翌朝二人でマカニへ帰る。マカニの大吊り橋が落ちてからのいつもの過ごし方だった。
城へ戻ると慌ただしい気配が漂っていた。その辺りの人に尋ねるよりも薬師室へ戻った方が早いかもしれないと思い、真っ直ぐ薬師室へ向かう。
扉を開けるとユウガオが、待ってましたというように立ち上がった。
「考古学室で小火があった。」
「考古学室で?怪我人は?」
「幸い居ないらしい。資料室が燃えたらしいぜ。」
「紙が多いですものね。でも、何処から火の気が?」
「まだ正式な見識は出ていないが、鎮火した後から角灯が出たらしいからそれじゃないかという見方が強い。」
「灯りの消し忘れですか?」
「おそらくな。」
「…それにしてもユウガオさん、情報が早いですね。」
「まあな。」
「怪我人が出なくて良かったです。医局も通常運転ですね?それなら早速本来の仕事を終わらせてしまいます。」
「ああ、そうしてくれ。」
ワイの町から依頼された薬の目録は、アグィーラで造っている主だった薬の大半を網羅するものだった。町の診療所で扱える類ではないものも含まれている。
アグィーラの医師であったシレネがワイの族長補佐として派遣されてからまだ半年も経っていない。その間にワイでは何が進行しているのだろうか。
確かにシレネは熟練の優秀な医師であったが、ひとりですべて賄えるとも思えない。ワイの診療所には元々医師が三名いたが、この数カ月の間に彼らに教育を施したというのか。
その日はかなり遅くまで薬師室に残り、ヨシュアの家へ帰ったのは夜中だったが、ヨシュアは起きて待っていてくれた。
夕飯を食べる気にもなれなかったので、一杯だけ一緒にお茶を飲み、倒れ込むようにベッドに潜り込んだ。その日も夢は見なかった。
翌日薬師室へ出廷したカリンに、ユウガオが昨日の労いの言葉をかけてくれた。昨夜は先に帰ったが、今朝早く出廷して目録を確認してくれたらしいので、カリンもそれに対する礼を言った。
「昨日の小火だけどな…。」
ユウガオが急に小声になったのでカリンはやや顔を近づける。
「どうやらジニア様は何らか責任を取らされることになりそうだよ。」
「責任って…。」
「まだ写しを作ってない資料が燃えてしまったらしくてな、貴重な資料の管理がなっていないとランタナ様がお怒りだそうだ。」
「そんな…。あの、私…。」
「行って来いよ。昨日あの大量の仕事を捌いてくれたんだ。今日は薬師としては追加の仕事はない。」
「有難うございます。」
城の中は緊急時以外走ってはならないのだが気持ちが逸る。カリンはできるだけ早足で考古学室へと向かった。
昨日ナウパカから、考古学室とジニアの活躍を聞いたばかりだった。もっと評価されてもいい、ナウパカはそう言っていた。それなのに誰が起こしたか分からない小火の責任を取らされることになるなんて。
いやむしろ、誰かがジニアの活躍を妬んで起こした小火なのかもしれない。そんな考えが頭を掠め、慌てて頭を振る。自分はいつから城の中の陰謀のようなものに毒されるようになったのだ。
誰がどんな目的で起こした小火なのかなど関係ない。自分がやりたいことは、ジニアの力になることだった。
そのままの勢いで考古学室の扉を開けると、中に居た面々が驚いたような表情で振り返った。
「あっ。…申し訳ありません。あの、何かお手伝いができればと思って…。」
「カリンか。来ていたのだな。そして、そうか、事件を聞いてしまったか。」
そう言って迎えてくれたのはジニアだった。
小火からたった一晩しか経っていないのに、その顔には深い疲労の色が滲んでいる。
カリンの父親は考古学室の官吏だった。ジニアはその頃から居て、カリンの父親のことも知っている。カリンが文化局の中級官吏になり、考古学室に関わることになったことを喜んでくれた。
「お忙しい所へ突然押しかけて申し訳ありません。話を聞いて居ても立っても居られなくなって…。」
「ははは。相変わらずだな。まあ座りなさい。」
ジニアは笑顔を見せたが、声に力はない。昨日は眠れなかったのではなかろうか。もしかしてここでずっと事後処理に当たっていたのかもしれない。
「写しの無い資料が燃えてしまったのだと聞きました。」
「そこまで聞いているのか。耳が早いな。そう。今、ああやってまだ目録と突き合せて失われた資料を特定している所なんだが、既にいくつか完全に失われてしまった資料があることが分かっている。大きな失態だ。…いや、失態では済まされないかもしれない。王国としての歴史の損失だ。」
その言葉を聞いて、責任を取らされる取らされない以前に、ジニア本人が資料が失われてしまったことそのものを遺憾に思っていることが伝わってきた。
「あの、ジニア様、突き合せが終わった目録をわたくしに見せていただけませんか?」
「どうするつもりだね?」
「最近のものは解りませんが、こちらの資料にはわたくしもほとんど目を通しております。もしかしたら復元できるものがあるかもしれません。」
「なんと…。内容を諳んじているというのか?」
「昔から記憶力が良いのです。」
「それは知っていたが…。」
ジニアは半信半疑の表情でテーブルの隅に積まれていた紙に手を伸ばし、カリンに手渡した。
管理責任という話が出ていたが、考古学室の資料室は他のどの室よりも整理されている。ばらばらと様々な場所から発掘される資料をきれいに分類し、番号を振り、それぞれに適した保管環境で保管される。資料の持ち出しも厳密に管理されている。
ただ、厳密に管理されているからこそ、資料室には考古学室の人間しか入ることができない。ほとんど需要はないが、考古学室の人間以外が資料を持ち出す場合には目録を見て指定し、考古学室の人間が資料室に取りに行く仕組みになっているのだ。灯りを消し忘れたのは考古学室の人間であることもまた確かなように思う。
目録は、見ればすぐにどの時代の、何に関わる資料なのかが分かるようになっていた。
確かにジニアが言うように、少し前に発掘されたばかりのフエゴの神殿の遺跡の資料が含まれていた。フエゴの資料は漸く分類が終わったばかりで、これから資料の複製に着手しようというところだったと思う。ただ幸い、カリンはそれらの資料に目を通していた。最近発掘された遺跡は多くあるが、神殿に関わる資料だけは網羅していたのだ。
試しに自分のペンと紙を取り出し、さらさらと資料の一部を書き出してみる。なんとか行けそうな気がした。それをそのままジニアに見せると、ジニアは何度も紙とカリンの顔を見比べ、それからテーブルに肘をついて頭を抱えた。
「あの、ジニア様?」
「信じられん…。」
「全部できるか分かりません。でも、ある程度は復元できると思います。」
「信じられんよカリン…。」
「信じていただかなくても…」
「いや、そうじゃない。すまない、私は混乱している。」
「申し訳ありません。」
ジニアの肩は、小刻みに震えていた。カリンはその肩に触れそうになり、慌てて手を引っ込めた。ジニアが落ち着くまで待つことにする。
やがて顔を上げたジニアの瞳には微かに希望の色があった。しかし、信じて再び絶望するのを恐れているようでもあった。
「お前は今は考古学室の人間ではない。」
「はい。」
「私はどんな顔をしてお前にこれをお願いすればよいのだ。」
「旧知の仲としてご依頼なさればよろしいかと。」
「お前の時間を削ることになる。薬師室は…。」
「昨日のうちに今回の仕事は終わらせてきました。本当は明日マカニへ戻る予定でしたが、数日滞在を伸ばすか目録をお預かりするか…。」
ジニアと今後の作業について話しながら、カリンは心の中でレンに謝罪した。レン、ごめん。でも、このまま放ってはおけない。
レンの呆れる顔が目に浮かぶようだった。
