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左翼はなぜ親中に見えるのか――反権力が巨大権力に甘くなる構造

中国を見ているようで、日本とアメリカを見ている

「親中」という言葉だけでは浅すぎる

左翼と親中は、なぜ重なって見えるのか。

この問いは、雑に扱うとすぐに壊れる。左翼は中国が好きだと決めつければ、話は早い。だが、その早さはたいてい思考の粗さでもある。実際には、左派政党のすべてが中国に甘いというわけではない。中国の人権侵害覇権主義を批判している左派も存在する。だから問題は、左翼全体の性質ではなく、一部の左派的な言説が、なぜ中国に対してだけ奇妙に鈍くなるのかという点にある。

ここで見なければならないのは、親中という感情ではない。むしろ、中国そのものをどれだけ見ているのか、という問題である。

多くの場合、彼らは中国を見ているようで、実は中国を見ていない。見ているのは、アメリカであり、日本政府であり、自民党であり、戦前日本の記憶である。中国は、そこに映り込む鏡のように使われている。だから中国が何をしたかよりも、それに対して日本がどう反応するかの方が、彼らにとって大きな問題になる。

この構造を理解しないと、議論はいつまでも表面を滑る。

反米の副作用としての親中化

左派の一部には、戦後日本の政治をアメリカ追従として捉える強い感覚がある。米軍基地、日米安保、防衛費、集団的自衛権、敵基地攻撃能力。どの言葉も、彼らにとっては戦争への坂道を連想させる。

その感覚自体には、歴史的な根がある。戦後日本がアメリカの安全保障体制の下に置かれてきたことは事実であり、沖縄の基地負担も現実である。だから、反米反軍拡が直ちに不合理だとは言えない。

だが問題は、その反射が強すぎるときに起こる。

中国が軍事的圧力を強める。台湾海峡の緊張が高まる。尖閣周辺で中国公船の動きが続く。南シナ海で力による現状変更が進む。こうした現実があっても、彼らの関心はすぐに日本の防衛強化日米同盟の深化へ向かう。

つまり、中国の行動そのものよりも、中国に対抗しようとする日本側の動きの方を危険視するのである。

このとき、主語が入れ替わる。

本来なら問うべきは、中国は何をしているのかである。ところが実際には、日本はまた軍事国家になるのかという問いに変わる。中国の圧力は背景に退き、日本の反応だけが前景化する。

外務省の外交青書2025は、中国を重要な隣国としつつ、軍事活動、人権状況、台湾海峡、尖閣周辺の動向を深刻な懸念として整理している。この程度の現実認識を持つことは、別に右翼的でも好戦的でもない。

外務省「中国を重要な隣国としつつ、軍事活動や台湾海峡などを懸念として整理」

それでも、一部の左派的言説では、こうした現実認識そのものが、対中強硬論戦争準備のように扱われることがある。

ここに、第一のズレがある。

左翼全体ではなく、優先順位の問題である

もちろん、左翼がすべて中国に甘いわけではない。日本共産党は、中国の大国主義覇権主義人権侵害を明確に批判している。これは非常に重要である。なぜなら、左派であっても中国共産党を批判できることを示しているからだ。

日本共産党は、ウイグル、香港、天安門などをめぐる中国の人権問題について、中国共産党の行動は社会主義とは無縁だと述べている。ここには、少なくとも左派であること中国国家への全肯定を切り離そうとする意思がある。
日本共産党「中国の大国主義・覇権主義・人権侵害を社会主義とは無縁と批判」

だから、この記事で問うべきなのは、左翼は親中なのかではない。

本当の問いは、なぜ一部の左派的思考は、中国政府への批判よりも、日本政府やアメリカへの批判を優先してしまうのかである。

この優先順位が、外から見れば親中に見える。

中国を愛しているからではない。中国を免罪したいからでもない。むしろ、日本とアメリカを裁くための物語の中に中国を置いてしまうから、中国への批判だけが相対的に弱くなる。

ここに、表面の政治的立場よりも深い問題がある。


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弱者の側に立つ思想が、国家を弱者にしてしまう

反権力が、巨大権力を見逃す瞬間

左派的な思想の美点は、本来はとてもはっきりしている。

強い者を疑う。
国家権力を監視する。
軍事力の拡大に警戒する。
抑圧される人の側に立つ。
人権侵害に敏感である。

ここだけ見れば、むしろ中国共産党のような巨大な一党支配体制こそ、最も厳しく批判されるべき対象になる。中国には、言論統制がある。一党支配がある。少数民族問題がある。香港の自由の後退がある。台湾に対する圧力もある。国家権力の肥大化という点では、左派が警戒すべき要素をいくつも持っている。

それにもかかわらず、一部の左派的言説は、中国政府そのものへの批判になると急に歯切れが悪くなる。

なぜか。

それは、人民ではなく国家を弱者として見てしまうからである。

本来なら見るべきは、中国政府ではなく、中国政府の下にいる人々である。香港で自由を求めた市民、ウイグルで抑圧を訴える人々、検閲の中で言葉を失う人々、台湾で自分たちの将来を自分たちで決めたいと考える人々。そこに目を向ければ、左派の倫理は中国政府への批判へ自然に向かうはずである。

ところが、世界を西側対非西側という構図で見てしまうと、中国国家が奇妙な位置に置かれる。

中国は、欧米列強に傷つけられたアジアの国である。中国は、西側覇権に対抗する国である。中国は、アメリカ中心の国際秩序に異議を唱える国である。そう見た瞬間、巨大な国家権力であるはずの中国が、なぜか被害者側に置かれてしまう。

ここに倒錯がある。

反西側の物語が、中国を便利な存在にする

中国自身も、この物語をよく分かっている。

中国はしばしば、自国を単なる大国ではなく、反植民地主義反覇権主義グローバルサウスの側に立つ存在として語る。これは日本の一部左派が持つ感覚と、非常に接続しやすい。

中国駐大阪総領事館が掲載した王毅外交部長の記者会見でも、中国は国際秩序の中でグローバルサウスや反覇権の文脈を強調している。中国はもはや単なる地域大国ではなく、自らを西側中心秩序に対抗する代表者のように位置づけている。
中国駐大阪総領事館「中国が反覇権やグローバルサウスの文脈で自国を位置づける公式言説」

この語りは、左派の一部にとって非常に魅力的である。

なぜなら、自分たちが長く使ってきた言葉と重なるからだ。

反帝国主義。
反植民地主義。
反覇権。
アジアへの加害責任。
アメリカ中心主義への批判。

この語彙の上に中国が乗ってくると、中国は現実の強国ではなく、西側に抗う歴史的被害者のように見えてしまう。

しかし、ここで問うべきことがある。

中国が反覇権を語るからといって、中国自身が覇権を求めていないことにはならない。中国が反植民地主義を語るからといって、周辺地域への圧力が消えるわけではない。中国がグローバルサウスを語るからといって、国内の人権問題が帳消しになるわけでもない。

言葉の位置と、現実の力の位置は違う。

この区別を失うと、左派の倫理は簡単に反転する。

キャンプ主義という古い病

この問題は、日本だけの話ではない。

海外の左派批判では、キャンプ主義という言葉が使われることがある。世界を西側帝国主義陣営反西側陣営に分け、後者に属する国家に対して甘くなる考え方である。

この見方に立つと、判断基準は人権でも民主主義でも自由でもなくなる。基準はただ一つ、アメリカ側か、反アメリカ側かである。

その結果、奇妙なことが起こる。

香港民主派は、自由を求める市民ではなく、アメリカに利用された存在として扱われる。台湾の自己決定は、小さな民主社会の意思ではなく、米中対立の駒として扱われる。ウイグルの人権問題は、抑圧の訴えではなく、反中宣伝の一部として疑われる。

こうなると、もはや左派ではない。

それは、人民の側に立つ思想ではなく、反西側の国家を守る思想である。

International Viewpointの記事は、キャンプ主義が中国を第三世界や反米運動の盟主のように扱ってきた左派内部の問題を整理している。ここで問われているのは、反帝国主義を掲げながら、別の権威主義に甘くなる倒錯である。
International Viewpoint「中国を反米・第三世界の盟主と見なすキャンプ主義の問題を整理」

この視点で見ると、日本で起きていることも見えやすくなる。

一部の左派は、中国を擁護しているつもりはないのだろう。おそらく本人たちの意識では、戦争に反対し、差別に反対し、アメリカの覇権に反対しているだけである。

しかし、その結果として、中国政府への批判だけが薄くなる

ここに、親中に見える本質がある。

中国を愛しているからではない。中国を使って、アメリカと日本を裁いているのである。


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中国批判と差別批判は両立する

ここで、もう一つ大事な線を引かなければならない。

中国政府を批判することと、中国人を差別することはまったく違う。

ネット上の中国批判には、しばしば雑な排外感情が混じる。中国共産党への批判が、中国人一般への嫌悪にすり替わる。安全保障上の警戒が、民族的な侮蔑に変わる。これは明確に間違っている。

だから、左派が反差別の立場から、中国批判の中にある排外主義を警戒すること自体は必要である。

問題は、その警戒が行き過ぎたときである。

中国政府への批判まで差別のように扱ってしまうと、権力批判そのものが鈍る。中国共産党の支配体制を批判すること、香港の自由の後退を批判すること、ウイグルの人権状況を批判すること、台湾への圧力を批判すること。これらは、中国人差別ではない。

むしろ、中国の人々と中国国家を同一視しないことこそ、反差別の最低条件である。

ここを間違えると、反差別は国家権力を守る盾になってしまう。

歴史認識が、現在を見る目を曇らせる

もう一つの根は、歴史認識である。

日本には、戦争責任がある。植民地支配の歴史がある。中国を含むアジアへの加害の記憶がある。これを忘れないことは必要である。

しかし、歴史への反省が、現在の現実認識を奪ってはいけない。

一部の左派的言説では、現在の中国を見るときにも、常に過去の日本が前面に出てくる。中国が強硬な発信をする。すると、そこにある中国の戦略ではなく、まず日本の過去が思い出される。日本が防衛力を強化する。すると、そこにある現在の安全保障環境ではなく、戦前回帰の不安が前景化する。

もちろん、歴史は無視できない。だが、歴史だけで現在を読むと、今ここで起きている力の配置を見誤る。

中国側も、日本の安全保障議論を軍国主義復活の文脈で語ることがある。中国駐日本国大使館の発信には、日本の右翼勢力や軍国主義復活という言葉が見られ、台湾や安全保障をめぐる日本側の議論を歴史問題と結びつける構図が表れている。
中国駐日本国大使館「日本の安全保障議論を軍国主義復活の文脈で批判」

この語りは、日本の一部左派の語彙と接続しやすい。

だからこそ注意が必要である。歴史への反省は必要だが、中国政府の公式ナラティブにそのまま接続されてしまえば、反省は思考ではなく、他国の外交戦略に利用される素材になる。

親中は左翼だけの問題ではない

ただし、この話を左翼だけに閉じてはいけない。

日本の親中は、左派だけのものではない。財界にもある。保守政治の中にもある。自民党内にも親中派が存在した。経済関係、人的関係、地方交流、企業利益。そうした現実の中で、中国との距離が近づいた勢力は左派に限らない。

地経学研究所は、中国の対日影響力について、革新勢力だけでなく、自民党内の親中派や財界にも働きかけが向けられていた歴史を整理している。これを見れば、親中を左翼だけの属性として処理するのは不正確である。
地経学研究所「中国の対日影響力が革新勢力だけでなく自民党親中派や財界にも向いた歴史を整理」

つまり、左翼と親中が重なって見える理由を考えることは大事だが、それを左翼だけの病にしてはいけない。

左派には左派の倒錯がある。保守には保守の利権がある。財界には財界の計算がある。政治家には政治家の関係資産がある。

この複数の回路を見ないと、話はただの罵倒になる。

必要なのは、同じ温度で権力を疑うこと

最後に戻るべき場所は、単純である。

左派が本当に左派であるなら、国家権力を疑わなければならない。日本政府だけではなく、アメリカ政府だけでもなく、中国共産党も疑わなければならない。軍事力を警戒するなら、日本の軍事力だけでなく、中国の軍事力も警戒しなければならない。人権を語るなら、日本国内の差別だけでなく、香港やウイグルや中国国内の言論統制にも同じ温度で向き合わなければならない。

立憲民主党の政策集2025は、中国との安定的関係を重視しつつ、日米同盟、台湾海峡の平和と安定、法の支配、中国の責任ある行動にも触れている。少なくとも、関係改善と警戒は同時に語りうる。
立憲民主党「中国との安定関係を重視しつつ、日米同盟や台湾海峡、法の支配にも言及」

社民党系の論考は、米国追従を批判し、中国との関係再構築を主張している。ここには、日本の左派がなぜ親中に見えるのかを考える材料がある。中国の内政問題として台湾、香港、ウイグルを扱う視点は、まさにこの記事で見てきた構造と重なる。
社民党「米国追従をやめ中国との関係再構築を求める論考」

もちろん、対話は必要である。中国との関係を断てばよいという話ではない。隣国であり、大国であり、経済的な結びつきも深い。外交には、対話も妥協も管理も必要である。

だが、対話と免罪は違う。

平和を望むことと、現実を見ないことも違う。

差別に反対することと、権力批判を封じることも違う。

結局、左翼と親中が重なって見える理由は、中国を愛しているからではない。反米反軍拡反自民反差別歴史認識という回路を通るうちに、いつの間にか中国政府への批判だけが弱くなるからである。

そして、もっと奥にあるのは、弱者の側に立つ思想が、反西側の強国を弱者として扱ってしまう倒錯である。

本来、左派が守るべきなのは国家ではない。人民である。

本来、左派が疑うべきなのは自国の権力だけではない。あらゆる国家権力である。

本来、左派が掲げるべきなのは反米ではない。普遍的な人権であり、普遍的な自由であり、普遍的な権力監視である。

そこに戻れないなら、左派は中国に甘いのではなく、左派自身の原理に甘いのである。


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