農産物にも“知財戦略”が必要だ―紅プリンセス流出疑惑から考える―【思索のこぼれ話 #32】
🧠思索のこぼれ話 #32
農産物にも“知財戦略”が必要だ
―紅プリンセス流出疑惑から考える―
農水省が育成者権の保護・管理を行う専門機関を立ち上げる意向を示した。
きっかけの一つとなったのは、愛媛県が開発した高級かんきつ「紅プリンセス」の苗木が中国に流出した可能性があるという問題である。
紅プリンセスは愛媛県が2005年から開発を進め、2022年に品種登録され、2025年から本格出荷が始まったばかりのブランドかんきつである。
約20年にわたる研究と改良の成果であり、単なる農産物ではなく地域の技術と投資の結晶でもある。
しかし、中国の種苗販売サイトで紅プリンセスを意味するとみられる「紅公主」などの類似名で苗木が販売されていることが確認されたという。
もちろん、現時点で重要なのは「流出が確定した」と断定することではない。
その苗木が本当に紅プリンセスと同一品種なのか、どこから流れたのか、誰が販売しているのかは証拠を集めて確認する必要がある。
しかし、仮に日本で開発された優良品種が海外で無断に増殖・販売されているとすれば、これは単なる一地方の農産物の問題ではない。
「日本の農業知財をどう守るのか」という問題である。
何が起きているのか
農産物の新品種には工業製品の特許に近い制度がある。
それが種苗法に基づく育成者権である。
新品種を開発した者は品種登録を行うことで、その品種を独占的に利用する権利を持つことができる。
ただし、知的財産権は基本的に国ごとに効力を持つ。
日本で品種登録されていてもそれだけで中国や韓国、その他の国で当然に権利を主張できるわけではない。
海外で守るためにはその国での品種登録、現地法に基づく証拠収集、警告、訴訟などが必要になる。
ここに大きな壁がある。
県の試験場や研究機関、個別の農家や生産者団体が海外の法律や言語、現地の商習慣に対応しながら権利侵害と戦うのは現実にはかなり難しい。
そのため、今回の農水省の方針は単に「農家を助ける」という話ではなく、日本の農業品種を知的財産として守るための専門機能を国として整えようという話である。
どういう制度を目指しているのか
検討されているのは、育成者権を持つ者に代わって海外での権利保護や活用を支援する専門機関である。
具体的には、海外での品種登録、現地での侵害調査、証拠収集、警告状の送付、訴訟対応、さらには正規ライセンス契約の管理などが想定される。
つまり、農業版の知財管理機関であり、農業品種を守るための共同防衛機関とも言える。
ここで大切なのは、この制度が単なる「守り」だけを目的にしているわけではないという点である。
海外で需要が見込める品種については、信頼できる事業者と正規のライセンス契約を結び、栽培地域や販売先、ブランド表示、ロイヤリティを管理しながら海外展開することも考えられる。
無断栽培を放置すれば日本側は輸出機会もライセンス収入も失う。
しかし、正規の契約によって管理できれば海外需要を収益に変え、その収益を次の品種開発に回すこともできる。
つまり、これは農産物を囲い込むためだけの制度ではない。
日本の優良品種を知的財産として守り、活用する制度なのである。
シャインマスカットの教訓
過去の代表的な事例として「シャインマスカット」がある。
シャインマスカットは日本で開発された高級ぶどうでありながら、海外で広く栽培されるようになった。
その結果、本来であれば日本側が得られたはずの輸出機会やライセンス収入が失われたとされる。
農水省は苗木の海外流出による大きな損失例として、シャインマスカットについて年間約200億円弱を挙げている。
ここでいう損失は単なる売上減少というより、本来であれば正規のライセンス契約によって得られた可能性のある許諾料収入の逸失として見るべきである。
つまり、農業知財の流出は一つの産地や一つの農産物だけの問題にとどまらない。
国家レベルの経済的損失につながり得る問題なのである。
この事例が示しているのは、優良品種は一度海外に流出し現地で産地化されてしまうと、後から取り戻すことが非常に難しいという現実である。
特に果樹は苗木や穂木があれば増殖できる。
しかも、苗木が流出してから果実が市場に出回るまでには数年の時間差がある。
問題が表面化したときにはすでに現地で大規模な栽培が始まっている可能性もある。
だからこそ、流出してから慌てて対応するのでは遅い。
新品種を開発した段階から国内登録、海外出願、苗木管理、流出監視、ライセンス戦略までを一体で考える必要がある。
課題は何か
もちろん、専門機関を作ればすべて解決するわけではない。
まず、海外での権利行使には限界がある。
日本で品種登録していても、相手国で登録されていなければ現地で権利を主張するのは難しい。
また、ECサイトで類似名の苗木が売られているだけでは、それが本当に日本の登録品種であるとは断定できない。
実際に苗木や葉、果実を入手し、品種特性やDNA鑑定によって確認する必要がある。
しかし、相手国の農村部や販売ルートに入り込み、証拠を集めるのは簡単ではない。
さらに、現地で大きな産業になってしまった場合、その国の行政や司法がどこまで日本側の主張を認めるのかという問題もある。
その意味で制度の実効性は、相手国の法制度や運用にも左右される。
だからこそ、海外での登録や監視は後追いではなく先手で進めなければならない。
農産物にも知財戦略が必要だ
国内農業の保護が叫ばれる中で、こうした制度はもっと積極的に検討すべきである。
ただし、それは単に「海外に流出しないように囲い込む」というだけの話ではない。
日本の農業品種は長い年月をかけて開発された知的財産である。
その価値を守ることは、研究者や生産者を守ることであり、産地ブランドを守ることであり、次の品種開発を支えることでもある。
一方で、有望な品種については、日本側が主導権を持った形で正規ライセンスを結び海外展開する道もある。
守るべきものは守る。
広げるべきものは、ルールを作って広げる。
その収益を、次の農業技術や品種開発に回していく。
紅プリンセスの流出疑惑は、単なる一つのかんきつ品種の問題ではない。
日本の農業を、単に「作って売る産業」としてではなく、「知的財産を生み出し、守り、活用する産業」として捉え直す必要性を示している。
農産物にも知財戦略が必要である。
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