PANDORA・柩灯|第1章 第3話「残酷な世界を焼く・壱」(3)
十四年前──。
赤黒い飛沫。
妖しく揺らめいた刃文。
悲鳴と怒号。
一体何が起きているのか分からないまま、幼い少年は広い屋敷に立ち尽くして、呆然とした。
目の前で、何が行われたのか、何を叫んでいたのか、理解を拒絶していた。
平和だと思っていた日常が、あっという間に引っ繰り返った。
一人、また一人、倒れていく。
その中には、自分の両親もいた。
「かあ、さん……? とうさん……?」
二人の美しい着物がみるみるうちに残酷な色に染められていき、手を伸ばした。
「汐……!」
そこへ、愛してやまない、姉の声がした。
何も分からないと思考停止した脳が動き始める瞬間、勢いよく抱き締められて、尻もちをついてしまった。
痛覚は最早なかった。
飛びついたきり、しなだれかかってきた姉を一生懸命起こそうと背に手を回した時、ズルリと滑る。
小さな手の平には、真っ赤な血がついていた。
「姉、さん……?」
刀と刀が激しく衝突する金の音も、鋭すぎる嗅覚を刺激する血の匂いも、屋敷中に満ちたおぞましさも、途端に理解できた。
「お前が……お前のせいだ……!」
姉の背後に、赤い刃を持った男が汐を憎悪に満ちた双眸で睨みつけていた。
かたかたと震えている男の両手は、しっかりと柄を握り締めている。
真っ赤に染った刃に、息を飲む。
「姉さん……! 姉さん、起きて!」
一緒に逃げなくてはいけないと、必死に姉を抱き起こそうとするけれど、幼い汐にそのような力はなく無力感に視界が滲んだ。
「嫡子のお前が! 言遣いじゃなかったせいで……っ!!」
何人もの同胞を切り捨てた凶器が激昂と共に振りかざされ、咄嗟にぎゅっと瞼を閉じた時、抱き締めた姉の温もりが消えた。
瞼を開けて、眼前に広がったのは姉の背中だった。
「あ……」
決して逞しくもない、細く女性らしい人だった。
その姉の手には懐刀が握られて、そしてそれは確かに男の頸部を刺していた。
床に崩れていく二人の動きは酷く遅く見えた。
五体満足で、怪我一つなく起きているのは幼い汐、ただ一人だけだった。
血の海が、大切な人たちを飲み込んでいってしまうような、筆舌に尽くし難い無惨な光景が青紫の瞳に焼き付いた。
「おま、え……せい、だ……」
男が息絶える間際に落とした呪いが、鼓膜にこびりついた。
◆ ◆ ◆
「──みんな、新しい家族の汐くん。仲良くしてね」
孤児院の職員に紹介された少年は、俯いて、肩を落として、まるで幽霊のようだった。
柩地区の孤児院。
地上から与えられた楽園であり、地下で最も穏やかで優しい場所。
柩地区で産まれた親がいない子ども、地上から柩送りにされた子どもの受け皿として、議会が情けをかけた唯一のものだった。
孤児院は娯楽が少なく、たった一冊の児童書を大勢で読んでいる。
「そのとき、パンドラはじぶんの子どもをかばって、炎のなかにとび込みました」
何度も繰り返した言葉に、飽きたと目を閉じる少年や、それでもわくわくと身を乗り出す少女。
桃色の目が小さな子どもたちを見て細まり、唇を開いた時。
「そしてパンドラの子どもは母親の仇をうつために、仲間を集めて、世界を救いましたとさ」
しかし、少女──咲樂の背後から、意地の悪い声が物語一の見せ場を奪ってしまう。
驚いて振り向けば、赤毛の少年が傷跡のある頬を楽しそうに持ち上げて、児童書ではない、別の本を開いて読んでいた。
「あー! 火々里にいちゃんなんで言うんだよ! いっつもよこどりするんだ!」
「咲樂お姉ちゃんに読んでほしかったの!」
二人の子どもたちが火々里のもとへ駆けていき、そのまま大きな背中に乗っかって、赤い髪をぐしゃぐしゃに混ぜた。
「もう何回も聞いてんだろその話。そんなもんより、俺がこっちの本読んでやるよ」
咲樂はそんなもん呼ばわりをされ、むっと口を尖らせて頬を膨らませた。
最近やっと一人で字が読めるようになってきたから、誇らしい気持ちでいたのに。
児童書の数倍も難しいことが書いてある火々里の本は、子どもたちにとっては退屈極まりない。
数字や小さな文字が羅列され、読めたとしても意味がわからない内容だったのだ。
すぐに火々里を見捨てて咲樂の隣に戻ってきてくれた子どもたちに、咲樂は満足げに頭を撫でて火々里を一瞥した。
「小さな子たちは、物語のほうがたのしいの。火々里はじゃましないで」
つんとそっぽをむいた時、視界の端に、縁側に一人でいる後姿を見つける。
「……」
黒い髪の毛は艶があり、骨が浮いていない腕や脚は健康的だ。
咲樂や火々里や、他の子どもたちよりも。
それなのに、汐という少年が纏う雰囲気は、児童書に出てくるパンドラのような悲劇性を感じさせた。
誰のことも寄せ付けない、地下に流れる水のような冷たさがあった。
汐は食事の時間は誰とも口をきかずに少量だけ食べて、すぐに食卓から去った。
昼も夜も、騒がしい子どもたちから逃れるように縁側に一人でいた。
誰とも話さない彼の声を、そういえば聞いたことがないと気付いたのは、しばらく経ってからだった。
ある日、孤児院の職員でもある姉さんたちが、厨房で楽しそうにしているところを発見して、咲樂は「なにしてるの?」と尋ねた。
「あら咲樂。今日ね、院長が地上でお菓子の材料買ってきてくれたの。おいしいの作るから、楽しみにしててね」
「おかし? おせんべい?」
「ちがうちがう。もっといいもの。クッキー知ってる? 甘くてサクサクなのよ」
お煎餅だってとても美味しくて贅沢なのに、もっといいものと言う。
咲樂は目を輝かせて、孤児院出身でもある職員の姉の着物を小さく摘まんだ。
「わ、わたしも一緒につくりたい! つくってもいい?」
姉たちが新しくすることを見つけるたびに出てくるお願いに、彼女たちは今日も仕方なさそうに、しかしうれしげに笑って、その輪に入れてくれた。
四苦八苦しながらも完成したクッキーは、姉たちのものは美しく均衡がとれた形で、咲樂が作ったものは僅かに歪だったけれど、咲樂は頬を赤らめて嬉しそうに二枚だけ、和紙に包んで、お気に入りのリボンを結んだ。
いつもの縁側に急いでいけば、やはり黒髪の少年がぼんやりと中庭を眺めている。
女の子のような横顔に、自分よりも小さな体。
彼を怖がる幼子も実際いたが、咲樂にとっては小さな子どもと同じだ。
「汐くん。なにしてるの?」
ちらりともこちらを見ない。まるで存在そのものを認識していないのではないかというほどに。
以前火々里に一人でいる汐のことを相談した時、「上から来た奴はだいたいああだ、ほっとけ」と言われていた。
咲樂は生まれも育ちも柩地区だ。
地上からやってきた子どもの気持ちは想像できても理解はできない。
事情があってここへ来る者ばかりだからこそ、皆等しく傷を抱えている。
だからこそずっと独りでいることは良くない。
咲樂はへこたれずに汐の隣に座り、クッキーの包み紙を差し出した。
「汐くん、甘いものすき? すごくおいしいから食べてみて」
「……」
こちらを、一瞥もしない。全身濡れた野ねずみのような子だと思った。
「……これね、さっき姉さんたちと一緒につくらせてもらったの。甘いものたべれる? さくさくしててね──」
その時だ。
差し出した両手が、力任せに払われた。
乾いた音がしたあと、クッキーが入った包み紙が庭に落ちて、それから手がじんじんと熱を持ち始める。
生まれて初めて人に手を払われた咲樂は、驚きのあまり大きな目を見開き、酷く苛立った少年の顔に見入った。
「話しかけるな……っ、ほっといてくれ!」
初めて。初めて発したその声音は、悲しくて、痛くて、怒っていた。
怒りのあまり震える息遣いが、華奢な両肩が、この世のすべてを拒絶しているように見えたのだ。
自分はいけないことをしてしまったとすぐに気付き、咲樂が咄嗟に謝ろうした瞬間だった。
どこからか様子を見ていた火々里が大股でやってくると、無遠慮に小さな汐の胸倉を掴み上げた。
火々里は同年代の中にいても大きく、体格に恵まれた少年だ。
汐は呆気なく縁側に引きずるように立たされて、爪先が浮きそうになっている。
「か、火々里!? や、やめて、怒らないで」
咄嗟に、兄と慕う腕に手を伸ばすが、ずっと大きく強い火々里には無意味だ。
自分がしたことのせいで、汐が責められてしまっている。
「……じめじめすんのは勝手だけどな、食いもん粗末にすんじゃねぇよ」
声変わりが始まり、掠れた声が淡々と紡がれる。
「お坊ちゃんには分かんねえかもしれねえけどよ、お前がいた所とここは違うんだよ」
静かなのに、怖い。
いつも冗談や皮肉ばかりを面白おかしく発する人と同じには見えず、震える両手で自分の長い三つ編みを、無意識に握り締めた。
張り詰めた縁側に、遠くではしゃぐ幼い笑い声が聞こえてくる。
子どもたちがクッキーを喜んで食べているのかもしれない。
「う……っ」
声がした。
それと同時に、火々里が「あ!?」と、焦りを含んだ大声を上げる。
「う、うぅ~っ」
汐の目から大粒の涙がぼろぼろと溢れ出してきて、押さえ付けた我慢が決壊したような泣き声が漏れた。
「ちょ、おま、おい」
「うああぁぁぁっ、うぇ……っ、う、うっ」
掴んだ着物から手を離すことも忘れ、火々里は急に泣き出した少年に狼狽えるが、すぐに咲樂が大きな手を少し強引に離させる。
すべての感情をそぎ落とした能面が、真っ赤になって、泣いている。
嗚咽のたびにひくつく肩に、何か大きなものが乗っていたのだとなんとなく分かっていた。
咲樂はよしよしと小さな汐の背中を撫でて、ぎゅっと抱き締める。
そして言葉よりも先に手を出した乱暴者を、今度は咲樂が注意する。
「汐くんが可哀想! なんで小さな子にこんなことするの!? いっつも先に手をだして!」
「う、いや、だってそいつが」
五つも下の少女に叱られて、言い訳をしようとする兄を再度睨めば、口を閉じた。
「大丈夫だよ汐くん。わたし怒ってないよ」
水面のようにひたすら静かに、そこにただ在るだけだった子どもが、全身を震わせて、大声で泣いている。
悲痛な泣き声を耳にした職員の姉さんたちが駆け付けても、汐はずっと泣いて泣いて、泣き続けて、泣き止んだあとも、しばらくは咲樂の着物を掴んで離さなかった。
それからは、咲樂が洗濯物を手伝っていると汐も手伝い、咲樂が子どもたちに読み聞かせをすると汐もその隣にいるようになった。
無口で感情を表には中々出さなかったが、親について回る幼子のような可愛さに、咲樂自身も嬉しくなって、汐を構う時間が増えていった。
そして、火々里が持っている医学書に興味を示した日を境に、汐は徐々に変わっていった。
火々里が医学書を読んでいる横で、汐もまた黙って古い医学書の頁を捲るようになった。
最初は眺めているだけだった。
しかしある日、
「だからぁ、鉱石が人体へ及ぼす影響はまだ解明されてなくて」
「ちがうよ」
「あ?」
「鉱石を調べてるからだよ」
「……は?」
「同じ鉱石に触れても病気になる人と、ならない人がいるだろ」
「ああ」
「だったら調べるべきなのは鉱石じゃない。人間の方だよ」
「人間?」
「うん。身体のどこが違うのか分かれば、鉱石が何をしてるのかも分かるはずだから」
「……お前面白いな」
などと、議論をし出した。
元来は世話焼きで優しい火々里は同類ができたと嬉しそうに話し、そして汐も医学書を夢中になって読みふけり、二人は咲樂をそっちのけに語り合う時さえあった。
「もうっ、二人してむずかしい話ばっかりする……」
拗ねた咲樂を追いかけようとする汐を引き留めて、火々里は熱弁し、「お前はどう思う?」と期待を孕む投げかけをしてくれた。
それに汐も嬉しくなって、父から叩き込まれた薬学の知識を、地下育ちなのに物知りで、好奇心旺盛な火々里に時間も忘れて語った。
もう二度と口にすることはないと思っていた。
父から教わった薬学。一族に受け継がれてきた知識。
それを真剣な顔で聞いてくれる相手がいる。
それだけで、汐の胸の奥は、少しだけ温かくなった。
「──星って、どんななんだろう」
不意に、縁側に座って、昼も夜も変わらない、暗い地下の天井を見つめて、咲樂が言う。
「星? なんでまた」
右隣に座る汐が不思議そうに返す間も、咲樂の左隣で寝転んでいる火々里は、興味なさそうに新しい医学書を読んでいた。
地上から柩送りにされたという元医学生が火々里に本を与えるたびに、ちゃんと話を聞いてくれなくなっているのだ。
咲樂は兄に構ってもらえないみたいでむっとするけれど、代わりに汐が聞いてくれる。
「……人は死んだら、空にある星になるっていうでしょ? わたしの母さんや、汐のお姉さんも、ここだとわたしたちのこと、見つけられないなって、思ったの」
「……死んだらただの肉の塊だぜ。そんで燃やして骨と灰になる」
「火々里……君って本当に……」
柩地区の子ども特有の、無知で純粋な疑問が、火々里によって切り捨てられてしまい、汐は情緒のなさをつい咎めた。
「お前らも……というか咲樂。お前、もう十二だし、そろそろちゃんと医学書読んでみろよ。この世の真理がわかるぜ」
「いやよ。火々里ってば、地上の学校に行ってから、つめたくなったわ」
火々里にだけ、いつも遠慮がないその物言いが、自然と咲樂の口から出てしまう。
「仕方ないよ咲樂。魂人が蓮塔学院に入学できるなんて、本当にすごいことなんだよ。火々里は百年ぶりの天才らしい」
「はっはっはっ、分かってんな汐。ほら咲樂もこれ読んだら、地上に出て星が見れるぞ」
咲樂にも分かるほど、火々里も汐も頭が良かった。
要領も良く、理解も早く、覚えるのも早い。
地上に大好きな兄を盗られていく寂しさがあった。
「べつにいいわ、わたしは。でも汐は」
「え? 僕?」
「そうよ。汐は、ちゃんとお姉さん……家族に大丈夫ですって、おしえてあげないとだめでしょ? 元気ですって」
「星に?」
「……ばかにしてるでしょ」
「してないよ」
「さっきのはしてただろ」
「火々里うるさいよ」
どうしたって追いつけないような気がする二人の軽快なやり取りに、ついむくれてしまう。
それでも、咲樂にとっては大事な兄弟にはかわりなかった。
汐に本当の家族がいても、自分に母がいても、ここにいるみんなが、咲樂の家族だ。
汐が普通に笑って、食べて、寝て、本を読む。
地上から柩送りになった子どもは、心を病むことが多かったが、汐は今日も穏やかでいてくれる。
ひとりぼっちでここへ来たことを、彼の家族がきっと心配していると思ったのだ。
「……ねえ、僕が柩送りになった理由、院長から聞いた?」
すると、汐が夜に溶けるように、呟いた。
咲樂も、火々里も、決して触れなかった話題が突然出され、不意に固まる。
一拍おいて、低い声が「いいや」と短く返事をした。
「……咲樂と火々里に……話してもいい?」
意を決する。そんな言葉が似合う緊張が走り、咲樂は黙ったまま汐を見つめて、そして火々里もまた、何も言わずに起き上がって胡坐をかいた。
地上の薬師地区の、宗家である依月家の嫡子として生まれたこと。
宗家の跡継ぎには“言遣い”という、神の信託を聞き届ける特別な力が必要なこと。
それが汐自身になかったこと。
そのせいで、一族間で争いが起こり、次第に苛烈になっていき、誰にも止められなかったこと。
彼の姉が、彼自身を庇い、命を落としたこと。
一族間での凄惨な悲劇の影響が他家にも及び、その罰として、たった一人生き残った汐が柩送りにされたこと。
まだ子どもの汐が背負うには重すぎる過去を聞き終えたが、地上に縁がない咲樂には、言遣いの重要さも、宗家の尊さも、分からない。
「言遣いがいない宗家は、議会での権威を失う。僕の家は、何代も言遣いが産まれなかったんだ」
「ぎかい……」
同じ歳のはずなのに、汐が随分と大人に見えた。
「今思うと、依月家は五大宗家の中で爪弾きにされていたんだろうね。大人たちはみんな、いつも、どこかピリピリしてた」
恐らく政治や、公家の話をしているのだ。
難しい。咲樂にとっては難しいけれど、汐が悪くないことだけはきちんと分かった。
家のことで、負い目を感じていることも。
「悪くない」
口をついて出たのは、無神経な否定だったかもしれない。
それでも咲樂は止められなかった。
「汐は何も悪くない」
「……そうかな」
「悪くない。汐も、お姉さんも、お父さんもお母さんも、まちがってない」
言いながら少しだけ声が震えた。
何故自分の目頭が熱くなるのか、そのような資格はないのに泣いてしまいそうだった。
咲樂には、どうしても汐が悪いとは思えなかった。
柩送りにされるということは、魂人になるということ。
魂人になるということは、名字も、戸籍も、一切の権利も奪われるということ。
地上の人間が最も絶望する仕打ちだ。
あの時、ずっと独りで耐えていた八歳の汐を思うと、咲樂は心を握りつぶさるように、苦しくなった。
「……そうだと、いいな」
夜も昼もない。そんな世界に、祈りにも似た、綺麗な音が落ちた。
ほんの少しだけ、震えていたかもしない。泣いていたかもしれない。
汐がいつか、星を見上げられる日が来ますようにと、咲樂はただ願った。
「……あん時は、悪かったな」
そして、ただ黙って聞いていた火々里が、途端にそのようなことを言い出すものだから、咲樂も汐も、顔を見合わせて、兄を見た。
罰が悪そうに、頭をかき、舌を打つ。
「お前が……ほら……クッキー、叩いた時」
「クッキー……あ」
数年前、ここへ来たばかりの頃が自然と蘇り、懐かしさと、今更罪悪感を持っているらしい火々里がおかしくなり、二人は目配せをして、笑った。
「ああっ? なに笑ってんだよっ」
「ふふ、ふふっ、火々里、あのとき、ほんとうに最低だったもの」
「怖かったな。あんな乱暴な人、はじめてだったから」
「あとでわたしにね、あいつまだ怒ってる? って聞きにきてねっ」
「あっおい馬鹿! 余計なこと言うな!」
火々里の大きな手が、咲樂の片方の三つ編みを掴み、意地悪をする。
やめてと鈴のような声は怒るが、いつもと変わらない平穏な光景は、依月家の屋敷で過ごした日常とよく似ていた。
「僕もせっかく咲樂がクッキーくれたのに、酷いことしちゃったから。あの時はごめんね」
殊勝に、律儀に謝罪する汐に、火々里の頬を抓っていた咲樂は目を瞬かせる。
それから眉尻を下げて、照れ臭そうに微笑んだ。
「わたしも、ちょっと鬱陶しかったもん。あのあと、一緒にクッキー食べてくれたし、もういいの」
「……うん。おいしかったよね」
「うん。また作りたいなあ」
「甘いもん好きだな、お前ら」
はっと鼻で笑うと、火々里は飽きたように三つ編みを放り捨てて、また咲樂が怒る。
月も、星も、夜も、朝も、何もない。
世界は残酷だった。
それでも、この小さな箱庭だけは汐を拒まなかった。
