與那覇潤著『江藤淳と加藤典洋』
私は江藤淳や加藤典洋を読んできた人間ではない。この本を手に取った理由は著者が與那覇潤だからであり、またこの本が「戦後史を歩きなおす」というサブタイトルを付けているからでもある。
戦後史という事でいえば、江藤淳、加藤典洋共に、代表的な著書がある。
『閉ざされた言語空間』は江藤がWGIP(War Guilt Information Program)の存在を日本に紹介した本として知られている。
『敗戦後論』は憲法9条を中心として、日本の「敗戦後」におけるいわゆる戦後民主主義のねじれを論じている。
現状、この2冊共に未読であり、また『江藤淳と加藤典洋』の中でも十分に論じられているので、ここでは内容に関して言及しない。
『江藤淳と加藤典洋』は、上記2冊に限定せず江藤淳と加藤典洋が残したテキストを読み解きながら「戦後史」を共に歩こう、という趣旨の書籍である。だから、私のように江藤淳と加藤典洋の書籍やテキストになじみがない人でも読めるつくりになっている。
戦後80年 昭和100年
今年は戦後80年、昭和でいえば100年という節目の年に当たっている。個人的にはその年に、天皇皇后両陛下がモンゴルを公式訪問され、「日本人死亡者慰霊碑」に供花されたことが印象に残っている。
天皇皇后両陛下のご訪問から1か月半ほど後に、私もモンゴルに行き、慰霊碑に供花することができた。この件に関しては、別途記事にする予定である。
2025年は「戦後80年」であり、戦争の際の元号がずっと続いたなら、「昭和100年」だとも言われる。だけど、そんなものを意識して生きる日本人は、いまとても少ない。
[⋯⋯]もしどこにも出口のない場所にいるのだとしても、一緒に彷徨ってくれる人が隣にいるだけで、毎日を生きていけることがある。[⋯⋯]
「江藤淳と加藤典洋」といっしょに歩くような気持ちで、敗戦から現在までの80年間をつなぐ道のりに、もういちど足跡をつけてみたい。そのなかで、戦後からの「出口」が見つかるかは、読者のひとりひとりが判断してくれていい。
「ベースキャンプにて 歴史が消えてからのまえがき」
與那覇が述べる通り、現実問題として「歴史」を意識しながら日々を送っている人は少ないであろう。例えば、学校で歴史を教えている教員であっても、今年が戦後80年であることを常に意識しているということはありえない。それでは通常業務だけでなく、日常生活がまともに回せなくなってしまう。
しかし、歴史を意識しようがしまいが、我々の日常生活のあらゆることに歴史は影響を及ぼしている。
社会の分断とポピュリズム
世界的にも、日本においても、社会の分断が深刻化していると言われている。それが政治にも影響している。アメリカにおいては、トランプ再選を前後とした「トランプ現象」である。
また直近では、ウガンダ出身のインド系移民であるゾーラン・マムダニがニューヨーク市長選で当選し話題になっている。マムダニは民主党の中でも左派的な政治志向があるとされ、またイスラム教徒でもある。トランプが嫌う要素が満載ともいえるが、マムダニが当選した直後にトランプは「共産主義は我々が止める」と発言したことが報道された。マムダニがニューヨーク市長になることで、民主党内の分断が深刻化することも懸念されている。
日本国内でも、今年の参議院選挙において、参政党の躍進が注目された。いわゆる右派ポピュリストと目される神谷党首の言動などで、SNS上に限らず、路上でも暴言の応酬が発生したりしている。
社会の分断が政治の分断を生み、その政治の分断がまた社会の分断を深刻化させている、というような状況になっていると思われる。
民主主義政治においては、ポピュリズムが少なからず影響することは、避けて通れない。選挙においても、議会での議決においても、最終的には「数」で決するのだから。
とはいえ、世界はトランプの発言に振り回されている。発言通りの政策が行われているわけではないが、却ってそれが裏読みの必要性を生み、結局は混迷を深めており、昨年の大統領選での当選を前後にして、トランプの個人資産が激増したという、トランプ個人が一人勝ち状態になっている。
トランプに振り回されていることだけが理由ではないが、日本の社会状況を見ていても、出口のない混迷状況が深刻化しているとも言えるだろう。
[⋯⋯]大学にはバリケードが築かれ、それまで民主的だと尊敬されてきた教授たちが吊るし上げられ、自己批判を要求された。そこでは、「戦後民主主義」という言葉は、時代遅れの腐敗した現体制をさすものであり、罵倒の対象でしかなかった。
そうした過去の切り捨てを積み重ねた結果、この国でなにが起きたのか?
歴史の消滅である。そうした環境はもはや、「無反省の体系」とさえ呼びうる。
[⋯⋯]
いつか丸ごと「この時代にまともな民主主義はなかった」と否定されるのなら、よりよい民主主義をいまめざす努力も虚しくなる。
「ベースキャンプにて 歴史が消えてからのまえがき」
大学にバリケードが築かれた時代は、いわば「政治」が過剰な時代だった。死語になっている「ノンポリ」は、政治に無関心な者たちへ向けてぶつける言葉だった。政治に関して「意識が高い人」たちが何をしたかと言えば、議論でもなんでもなく、言語的な暴力であり、更には肉体的な暴力であった。すなわち、「問答無用」だった。
「政治的な正しさ」(「ポリティカルコレクトネス」という英語の翻訳語であるが)なる言葉を振り回すとき、それは振り回す側が常に「自分たちが絶対的に正しい」という思い込みに基づいている。思い上がり、と言ってもいい。
社会の分断の深刻化に伴い、また少しずつ政治が過剰になってきてはいないだろうか…。ポリティカル・コレクトネスなるものがまかり通るのも、ポピュリズムの一形態ではないのか。
[⋯⋯]どこの誰の発案ともつかぬ安易な未来のビジョンの下で、画一化された「政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」なるものが、人びとを足蹴にしてゆくのは看過できない。
「帰りの汽車の中で 終わらない対話のあとがき」
ねじれと向き合うこと 歴史と対話すること
この本の主題の一つに「ねじれ」がある。江藤淳も加藤典洋も、そのねじれと向き合い続けた人たちであろう。江藤はWGIPが戦後民主主義のねじれを生み出したととらえた。加藤は現行日本国憲法の、特に9条にねじれを見出していた。
現在、日本で普通に暮らしていく限りにおいて、憲法の問題を意識する事とはほとんどない。WGIPに関しては、その言葉すら知らない人も多い。そして、知らなくても特に困ってはいないはずだ。
だとしたら江藤淳と加藤典洋は、無益な言論に注力し続けたのだろうか?
読んだ後に、戦後史っていいね、もっと知りたい、と思う人がいたら嬉しい。でも逆に、うんわかった、もう俺は過去を云々することにさよならするよ、という感想があってもいい。
「ベースキャンプにて 歴史が消えてからのまえがき」
戦後史に興味を持つことも持たないことも、個人の自由である。
江藤淳や加藤典洋のテクストはある人には大いに影響を与え、また別の人にとっては全く人生に無関係であったりする。
思想や政治信条、あるいは言論の自由が保障されているという事はそういう事だ。しかし、「政治」は時に我々に対して牙を剥く。というと国家権力が強権を発揮することだと考えるかもしれないがそればかりではない。
政治に熱狂した民衆が、我々の思想や言論の自由を奪うことは往々にして起こることであり、最近でもSNSなどのネット空間では政治が暴走している様子は日常的に見受けられる。
先に引用した”画一化された「政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」なるものが、人びとを足蹴にしてゆくのは看過できない"という與那覇の言葉は、そのことの一面を表している。
どうしてそのようなことが起こるのか? この社会はどうなっているのか?
ネット上で正義を振りかざして誰かに暴言をぶつけることは、拙速なだけで対症療法にすらならず、せいぜいが「オレって正しいことしちゃったぜ」という自己満足しか生み出さない。その自己満足が自己欺瞞であることに無自覚なので、自己満足に満足できない。その結果、石を投げ続けることしかできなくなり、結果的に状況が悪化することはあれど、何かが解決することはない。
歴史と対話することでしか、恐らく、その疑問に答えていくことはできないだろう。そしてあらゆる答えは暫定的なものであり、常に訂正されていくべきものでもある。
江藤淳はWGIPにおいて、加藤典洋は憲法9条の問題において、手放しの全肯定や手放しの全否定をされた、あるいはされている人物である。與那覇潤は当然ながら、全否定や全肯定という思考停止に陥らず、二人の残した(遺した)テクストや二人が題材とした作品をも読み込んで、戦後史を歩きなおす旅に我々読者を誘ってくれている。
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