「世界史」はモンゴルから始まった
高校生時代、という四十数年前の話なので確かな記憶ではないのだが、社会科で「日本史」か「世界史」のどちらかを選択することになっていた。お世辞にもまじめな生徒ではなく、深く考えたわけでもなく、「日本より世界だろ」という安易さで世界史を選択した。中学生までは、科目としての歴史が嫌いなわけでもなかった。しかし、結果的に世界史の授業が極めてつまらなくて、と自分に言い訳をしてほとんど勉強しなかった。
理系を選択し、大学も工学部に進んだため、歴史に関しては多少なりとも興味を持てた分野に関する本をたまに読む程度だった。
歴史を面白いと感じるようになったのはモンゴル旅行がきっかけで、その後もずっとモンゴルに関わるようになったことで、「世界史」にまで興味が広がった。
ベルリンの壁崩壊と冷戦構造の解体
私の高校生時代は、まだ冷戦は終わっていなかった。年代としては1980年代の前半で、米ソの対立が再び深まっていた頃だった。いわは、「ゴルバチョフ登場前夜」である。当然ながら、私が旅行で行った「モンゴル国」はまだ「モンゴル人民共和国」だった。その状況が大きく変わったのが、ちょうど私が大学を卒業した頃である。
昭和天皇の容体が悪化したことにより、「自粛ムード」一辺倒になり、セフィーロの助手席側窓を開けて「お元気ですか」と言っていた井上陽水は口パクになった。「自粛ムード」はこの頃もう既にあり、というか「不謹慎厨」が多発し、他人に自粛を「強要」する圧力が明らかにあった。震災やコロナ禍で多発した不謹慎厨による自粛強要は、個人的には「あー、またこれか」という感じだった。
それはともかく、年が明けて卒論を書いていた頃に昭和が終わり、卒業式の時は年号は平成になっていた。
ベルリンの壁崩壊は1989年11月である。つまり平成元年11月だ。
1989年は日本では天皇の崩御により年号が変わり、冷戦構造が終わるきっかけとなった「ベルリンの壁崩壊」があった年で、日本だけではなく歴史の転換点になった年だったと言われている。
個人的な転換点になったのは1995年、年号でいえば平成7年で、この時にはすでに、「モンゴル人民共和国」ではなく「モンゴル国」になっていた。
もう人民共和国じゃなくなって、旅行にも気軽に行けるようになったんだな、などと思いながら、初めての海外旅行でモンゴルに行ったのである。
社会主義国とその民主化
「世界史」を選択しつつもほとんど勉強しなかった私にとっては、モンゴル人民共和国が世界で2番目の社会主義国だったことは、モンゴルに行ってから改めて認識したことだった。浅い知識としてはすでにあったが、モンゴルに行ってモンゴル語を生で聞き、そのモンゴル語がキリル文字で表記されているのを見たことで、「ソ連の衛星国」であったこと、すなわちロシアの影響が強かったことがよく分かった。「歴史」を肌で感じた時だったと言えるだろう。
ただ、その時は単に「異文化体験」を楽しんでいただけである。
それが異文化体験だけではなくなるのは、自分がモンゴル語を学ぶようになり、更に青年海外協力隊(当時の呼称)でモンゴルに行ってからである。
青年海外協力隊でモンゴルに行けたのは、電気工学科を卒業し、製造業の電気設備部門で仕事をしていたからである。私が応募したときに、「電気機器」の職種でPLCと呼ばれる自動制御機器のプログラミングを指導する案件は、モンゴルだけだったのだ。青年海外協力隊では案件の要請内容によって、希望する国に派遣されるとは限らない。そういう意味で、運がよかった。
1990年代末のモンゴルには、社会主義時代の名残が色濃く残っていた。かつては「鉄のカーテン」の向こうにあった国に自分がいるということは、とても刺激的だった。そこから少しずつモンゴルの歴史に興味を持ち、自分でも学ぶようになったのである。その入り口として、モンゴルの民主化があった。
青年海外協力隊の活動2年目に、モンゴルで大きな事件が起きた。
1998年10月、モンゴル民主化運動の中心的な人物であり、モンゴル国の国会議員だったS.ゾリグが暗殺されたのだ。
当時、モンゴルの政治状況は混迷しており、首相が不在の状態になっていた。その中で、ゾリグは次期首相に決まるのではないかと言われていた矢先の事件だった。
このゾリグ暗殺事件は未解決のままである。事件発生からかなり経ってから、複数の容疑者が逮捕され有罪判決も出されたのだが、後に判決結果が無効であるとされた。事件直後の捜査そのものからして混迷を極めており、謎が多い事件である。
当時、連日のようにモンゴルのニュースで報道されていたのだが、モンゴル滞在2年目の私のモンゴル語能力では細かな内容までは聞き取れなかった。そのため、新聞を買って記事を読んだりしていたが、青年海外協力隊の通常業務があるため、多くの時間を割くことはできなかった。また、インターネットを自由に使える時代でもなかったため、情報収集には限界があった。
最近は、モンゴル語のニュースサイトなどが多くあり、検索してみると、ゾリグの事件に関する記事はかなりある。
今では上にリンクを貼ったとおり、Wikipediaでゾリグの項目が日本語で読める。ただ、日本語で読めるものが少ないので、ネットで読めるものに限定されてしまうが、モンゴル語の記事をもとに、noteでまとまった文章を書こうと思っている。モンゴルでもゾリグの伝記本は出ていないようで、とても残念である。
「モンゴル帝国」の歴史
モンゴル滞在中にも、モンゴルの社会の変化や時代の変化を感じながら、一般的な日本人と同様に、というかモンゴル人以外にとっては一般的ともいえるが、世界帝国をつくったモンゴルの歴史には当然ながら関心はあった。
1996年に刊行された『モンゴル帝国の興亡』をモンゴルに持っていって、少しずつ読んでいた。
日本では、「元朝」という中国史の中で「征服王朝」という位置づけで語られるモンゴル帝国を、完全にモンゴル側の視点で書いている書籍がこの『モンゴル帝国の興亡』である。人名がとにかく多く出てくるので、読むのは大変であったが、とても大きな刺激を受けた。
視点を変えなければ、違った世界は見えてこない
一言でいえばそういう事である。モンゴル帝国は騎馬遊牧民が勢力範囲を広げていった歴史である。さらに言えば、元の時代には海の帝国にもなっていた。一般的な日本人にとっては、常に「中国」のフィルターを通した、いわば強いバイアスがかかったものを「世界史」として教育される。
しかしモンゴルのフィルターを通したら、全く違うものが見えてくる。日本があの無敵のフビライ・ハーン軍を破ったのが元寇である、という「日本中心史観」も言ってみれば「中華史観」の亜流に過ぎない。モンゴルが作った「世界」の大きさと比較すれば中華も日本も極めて小さい。
『世界史の誕生』
モンゴル帝国によって、「世界」も「世界史」も大きく転換した。にもかかわらず、日本は「東洋史」と「西洋史」という水と油の性質のものを無理やりくっつけたのが、日本の「世界史」という科目である。
日本においては「東洋史」は「中国史」プラスアルファのものである。その時に気を付けなくてはならないのは、現代の「漢民族」ないしは「中華民族」は、極めてイデオロギー色の強い、言い換えると政治色の強い人たちであり、そのフィルターを通したものの見方を日本も受け入れている限り、日本も中華の亜流であることから逃れられないということだ。
岡田英弘の手による『世界史の誕生』は、まさに「世界史」を文字通りの世界史として誕生させた世界史的名著であるだろう。
日本人もそろそろ小中華であることをやめるべきではないか。時代はグローバリズムを否定する方向に動こうとしているが、経済がグローバルレベルで動く流れは止められない。インターネットの情報を「政治」が管理しても、政治の外では経済が世界を回している。
中華史観、あるいは中華思想というイデオロギーに、日本人は想像以上に毒されている。「日本ファースト」などと嘯く人たちも、それが中華思想の亜流であるかぎり、中国ファーストを乗り越えて、本当の日本の立ち位置、日本人の生きていくべき方向性が見えないのではないか、などと自分の身の丈を忘れて極めて大きいことを述べようとしている次第である。
中国において「歴史」は司馬遷の『史記』が始まりである。二千年あまり前のことだ。「歴史」は王朝の正統性を示すための記述である。これは、現代でも続いている。「中国」の歴史において正統なのは現在は「中華人民共和国」のみであり、ほかに正統の中国はない。だから「台湾」も当然ながら中国である、という主張になる。
しかし、これは「天下」において「正統」な王朝はただ一つであるという歴史観に基づいているだけであり、中国の伝統的なイデオロギーに過ぎない。グローバリズムが地球規模になった現代において、これではあまりにも尊大に過ぎる。
『史記』が書かれた頃、遊牧民のほとんどが文字を持っていなかった。そのため、歴史を記述することもなかった。しかし、後に遊牧民も文字を持ち歴史を記述するようになる。それがモンゴル帝国の時代である。
しかもこの時、モンゴルは世界を記述したのだ。それが「世界史」の始まりである。
歴史が最初から普遍的な性質のものではなく、東洋史を産み出した中国世界と、西洋史を産み出した地中海世界において、それぞれの地域に特有な文化であることを、はっきり認識しなければならない。
この認識さえ受け入れれば、中央ユーラシアの草原から東と西へ押し出して来る力が、中国世界と地中海世界をともに創り出し、変形した結果、現在の世界が我々の見るような形を取るに至ったのであると考えて、この考えの筋道に沿って、単一の世界史を記述することも可能になる。
「東洋」のバイアスも「西洋」のバイアスも「世界」を見せてはくれない。地理的にも東洋と西洋の中間からユーラシアをまたぐ帝国が作られたことの意味を考える必要があるということだ。
現代の資本主義につながる貨幣経済はモンゴル帝国から本格的に始まる。少額決済用の銅銭も、高額決済用の金や銀も、長距離移動には不向きである。そこで使用され始めたのが紙幣である。元朝以前に紙幣は使われ始めていたが、本格的に広範囲で流通するようになったのはモンゴル帝国時代に使われた「交鈔」が始まりである。
紙幣の移動は「情報」の移動でもある。紙そのものに価値があるのではなく、そこに記載されたいつ、だれが、どれだけの額面ではっこうしたかという「情報」が重要なのだ。
遊牧民は常に移動することを前提に生活を組み立てており、それが遊牧文化や遊牧文明を生み出してきた。紙幣の利用もその流れのなかで利用されるようになったものである。
遊牧民が記述した遊牧民の歴史
さて、この稿の主旨に即しているとは言え、いきなり「世界史」へと話が大きくなったので、あらためて遊牧民の世界へ話を戻そう。今まで語られがちだった遊牧民を見るステロタイプについてである。
遊牧民集団の軍事活動や遊牧国家の拡大を説明するうえで、ひとつのきまったパターンがある。遊牧生活は、それだけでは十分に自立することができない生産形態だから、他者から奪うほかなかったのだ、だから「定住世界」や「文明地域」を攻撃・侵略したのだという言い方である。
[⋯⋯]
これまでの説明の仕方は、いわば「略奪」の論理である。ごくあたりまえの「交易の論理」を忘れて平然としているのは、ちょっと凄い。おそらく、遊牧民は「追いはぎ」か「泥棒」くらいにしかおもっていないのかもしれない。主張する人も、うなずく人も。
では、その「交易の論理」をふくめて、遊牧民の生活上の側面からだけで、市場の目を瞠る広範な軍事活動を説明できるのか。生活面からものごとを解釈しようとするのは、「生業の論理」と言っていい。人類学者らによる遊牧民の研究は、こちらに傾く。
『世界史の誕生』のところでも述べたとおり、日本人が歴史として受け入れてきた遊牧民のイメージは、中華王朝の記述によるもので、それは中華王朝の正統性を主張するためのものである。だから、『史記』は前漢の武帝の時代に書かれているので、前漢が正統の中華王朝であることを示すために、前漢に至るまでの王朝の「歴史」を記述する。
だから現代的視点で見たら「史実」とは言えない事柄でも、歴史として記述される。まずはそのことに注意を要する。
また、中華王朝のための歴史であるので、中華王朝に都合の良い記述をするし、前王朝を倒した現王朝の正しさを記述するために、前王朝を貶める書き方もされる。
同様に、文化を異にする遊牧民に対する記述も極めて蔑んだものになっており、それを「歴史」として受け入れた日本もその影響を免れなかった。そういう視点で見ると、「あたりまえ」のこともあたりまえでなくなり、結果として多くのことを見誤る。
逆に、遊牧民視点で歴史を見ると、世界は違って見えてくる。
そして、遊牧民世界は女性が活躍していたこともわかってきている。
アメリカはニューヨークにあるメトロポリタン美術館。この世界屈指の名門美術館に無数の名品が収蔵されているのはいうまでもないが、私はいつもここの中央アジア館に惹かれる。
いわゆる新大陸アメリカが発見されるまでの人類史の根幹部分、すなわちユーラシア史を能動的に推し進めてきた遊牧民の文化財が展示されているからである。ここの陶磁器のコーナーには十一世紀から十四世紀のモンゴル帝国時代まで活躍したセルジュク・トルコ時代とイル・ハーン国の製品が多数、陳列されている。
屈強の遊牧戦士ではなく、女性が円形の陶磁器の正中心とまわりに陣取っている。宴会のシーンもあれば、駿馬に跨って疾駆し、片腕にタカをのせた狩猟(驚釣り)の場面もある。
王朝によって記述された歴史ではない形で「歴史」が描かれ、そこには女性たちの生きた姿が伝えられている。「正史」だけではなく、また男だけでもない。
「中華世界」の人たちは、遊牧民独自の社会システムを理解しようとはしない。彼らから見れば、遊牧は農耕より劣る。匈奴や突厥、そして蒙古など「北狄」であり、史書には「獣」以下であるとまで記される(日本人とて「東夷」である)。
なによりの証拠とされるのが、文化人類学でいうレヴィ゠レート婚、すなわちユーラシアの遊牧民世界で盛んにおこなわれていた風習である。父の死後には息子が生母以外の夫人たちを、兄の他界後は兄嫁を弟(あるいは目下の者)が結婚というかたちで引き取る制度である。老女を娶ることもしばしばある。苛烈な乾燥地の自然環境のなかで、寡婦となった女性の地位と財産を守るための合理的な慣習であるとは人類学者の見解である。
歴史学者の杉山正明は言う。
歴代の漢語文献では、(引用者註:レヴィ゠レート婚は)人倫にもとる恥ずべき獣畜の道だとされた。古来、中華文化人が遊牧民とその社会を非難する時、最も都合の良い攻撃理由となった。•・・・・セクシャルな面を強調するのは、むしろ野郡な心理が非難する側にあるからである。(一九九六下)
考えてみてほしい、敗戦後の日本において同様のことはなかったか。また、日本人はいとこ婚を必ずしも問題としない。これも「獣」であろうか。
日本も中華からは見下されてきた。見下してきた相手に負けた悔しさを誤魔化すために口撃もするのである。それは逆もまた然りで、日本にも当てはまる。自分自身を、あるいは母国を等身大で受け入れることの難しさであろうが、これはどこの国や民族にも通じることだろう。
繰り返しになるが、視点を変えることでしか見えないことがあるのだ。
遊牧王朝と遊牧文明
日本人にとってはそもそも遊牧文明そのものになじみがない。それが理解の妨げになることは当然のことであろう。だから、「受け入れやすい」理屈をそのまま受け入れるほうが楽である。
とはいえ、かつては文献研究が中心だった歴史研究も発掘調査や科学技術の進歩による考古学的研究が進んでいる。つまり、文献記述が信頼性の高いものか否か、あるいはそもそも「作られた記述」に過ぎないのか、検討をくわることができるようになっている。
「歴史の記述」がない時代や地域に関しても、考古学的研究が進んだことでさまざまなことが分かるようになっている。
『遊牧文明王朝興亡史』はサブタイトルに「モンゴル高原の5000年」とある。王朝が形成されるよりも以前の、牧畜の発生から移牧、遊牧という牧畜形式の発展、家畜利用の進化すなわち食用としての肉の利用から乳の利用、また乳の利用においても馬乳利用の起源、あるいは動力としての家畜利用において、荷車の牽引から騎乗へという、起源的な研究の進化を知ることができる。
近年の考古学研究では、理系研先者の協力を得て、遊牧文化の主体となった人や家畜が分析対象になっている。
[⋯⋯]人骨に残るコラーゲンを用いると、誤差の少ない年代が測定できるとともに、被葬者の生前の食生活の傾向も知り得る。歯石からは摂取していた乳の種類もわかる。遊牧生活の復元にはかすことのできない研究手法だといえる。
さらに、家畜骨に残った微量な元素の同位体を調べることで、出生地や屠られた季節が明らかにできる。そうした生化学との協業の進展で、権力者だけでなく、庶民の日常を含めた遊牧社会の全体に研究者の関心が注がれるようになってきた。
そのほかにも乾燥地ゆえの利点がある。日本など腐食の速い地域では残りにくい木材も、過去一〇〇〇年程度であれば、ここではかなり良好な状態で検出できる。木材は年代測定に有用なのはもちろんだが、過去の気候を復元する上でも重要だ。木片に刻まれた年輪の間隔を調べることで、寒暖や乾湿の傾向が読み取れる。極限環境にあるモンゴル高原、ことのほか北モンゴリアでは、わずかな気候変化でも遊牧生活に鋭敏に影響を及ぼす。遊牧王朝の興亡のメカニズムを復元するうえで、いまや古気候の情報は不可分となっている。
このようにさまざまな関連諸科学、とくに自然科学系の研究者と協業した考古学研究がモンゴル高原で進められている。それによって考古学は、これまでの文献史料の落を補うという、いわば補助学問的なスタンスを脱し、文献史学と並び立ってモンゴル史を叙述できるまでに成長している。
歴史研究そのものが、大きく変化している。歴史を専門としない人間にとっても、大きな知見を得られるようになっていると言えるだろう。特に、文献史料が少なかった遊牧民の歴史においては大きな進展があるといえる。

この画像は、2025年8月にモンゴル国の「ハルバルガス遺跡」を訪れた際に撮影したものである。1,300年近く前のウイグル王朝時代の宮殿跡が、これほどしっかり残っていることは驚きだった。そして、ここが現在もモンゴルの遊牧民が普通に生活している場所であり、遺跡内に家畜が普通に入ってきて草を喰んでいる。それだけではなく、地上にはっきりと見える遺跡だけではなく、かつての都の跡は広大な範囲に広がっている。(『遊牧王朝興亡史』p188-194)
なお現代のウイグルは、ウイグル王朝の直接の後裔ではない。
城壁跡と思われる小さな丘の上に登り、初秋のモンゴルの乾いた風に吹かれていたら、時間の感覚が失われてしまうような錯覚に襲われた。草原の大きさは、実際に草原を歩いてみないと分からないのかもしれない。
現代モンゴル
世界帝国を作ったモンゴルも、いまは小国である。国土としては日本の3倍以上を有するが、人口は350万人ほどであり、日本でいえば横浜市と同じくらいだ。
また地政学的に言えば、ロシア連邦と中華人民共和国という二つの大国に挟まれ、近現代史的にみればロシアと中国を含めた大国に翻弄され続けている。さらにロシア連邦にも中華人民共和国にも、「歴史的」にモンゴル民族が住んでおり、民族分断状態になっている。
世界帝国をつくった民族も落ちぶれたのだ、という話をしたいのではない。覇を唱えるのが正しいのであれば、人口順にインド、中華人民共和国が正しい。あるいは、経済力や軍事力でいえば、世界はアメリカである、としか言えなくなる。しかしそういう、数の論理や力の論理を越えるにはどうすればいいのかという問いが必要だ。
モンゴルが世界帝国をつくったときも、モンゴル高原出身のモンゴル人は帝国全体で見れば少数派だった。その少数派がどうやって大国を「統治」したのか。現代的な「帝国」と、歴史的な「帝国」は、全くと言っていいほど性質が違う。帝国ではなかった国を帝国と呼んでいたりもする。『世界史の誕生』はそういう言葉のとらえ方も提示してくれている。
歴史的なモンゴルと現代モンゴルは、イコールではない。遊牧文明を伝統的に受け継いでいるのは確かであるが、牧畜一つとっても、モンゴル帝国時代と現代では、全く同じであるわけではない。
民主化によって「ソ連の衛星国」という屈辱的な立場は脱したとはいっても、石油製品の輸入を中心として、ロシアとの経済関係は続いている。また、中国に石炭を輸出して得ている外貨が、近年の経済発展をもたらしてる。ロシアや中国というイデオロギー過剰な国を相手に、バランスよく外交を含めた政治のかじ取りをしないと、モンゴルの立場は危うくなる。
ロシアや中国と表立って対立することはできない。かと言ってなんでも言いなりになるわけではない。そういう微妙なバランスでのかじ取りが、今後も必要な状態にあるのがモンゴル国という国なのだ。
アメリカ、ロシア、中国などの大国に振り回されるのは、モンゴルも日本も共通の問題である。直接国境を接しており、歴史的にも日本より遥かに大きな影響を受けてきて、そして受け続けているのがモンゴルだ。
モンゴル国は「第三の隣国」という外交方針を取っている。第一第二は当然ながらどちらを第一にするかは大きな問題だが、当然ながらロシアと中国である。第三の隣国には日本以外の国も入っているが、経済面では韓国に遅れを取っている面があるように感じている。
ロシアや中国への牽制の意味も含めて、日本はモンゴルともっと関係を深めるべきではないか、そしてその余地は大いにある、というのがこの論考の終着点である。
『世界は五反田から始まった』
「「世界史」はモンゴルから始まった」というタイトルに関して言うと、もちろん上述の『世界史の誕生』を念頭においてのことであるが、もう一つ念頭にあった書籍がある。
五反田という東京の一角から「大五反田」へそして満洲へと話題が話題が広がるとてもいい本である。大佛次郎賞受賞作品なのでご存じの方も多いだろう。有名な書籍から単にタイトルの付け方をパクったのではない。
この本の中で、いわゆる満蒙開拓団の一つとして満洲に渡った荏原郷開拓団のことが書かれている。荏原郷開拓団の悲劇に関しては、是非『世界は五反田から始まった』をお読みいただければと思う。
モンゴルの歴史を考えるうえで、満洲国の歴史はとても重要である。満洲国のうち、おおむね大興安嶺山脈から西側はモンゴル人の生活圏である草原地帯で、その草原は現在のモンゴル国の領域へと繋がっている。つまり、満洲国の半分はモンゴルでできていたのだ。
また、日本が戦争に負けた頃に満洲にいた日本人がソ連軍に捕らえられ、モンゴルを含む広いエリアに抑留されたこと。「モンゴル抑留」は今年、天皇皇后両陛下のモンゴル公式訪問の際に、ウランバートルの「日本人死没者慰霊碑」に供花されたことで話題になった。
「満洲」というキーワードだけでもいろんなところに繋がっている。星野博美にとって五反田から世界が始まったように、私にとっても世界史はモンゴルから始まったのである。
この記事は、noteの「#今年学んだこと」の企画に合わせて書いたものだが、今年だけではなく長期的スパンで学び続けてきたことを、改めて今年になって『世界史の誕生』という書籍を熟読することで学びなおしたことであることをお断りしておく。ただ、昨年から今年にかけて出版された本を、今年読んで理解が深まったものもあるので、企画からは大きく外れていないだろうと思っている。
そして、さらに付け加えていえば、「今後も学び続けること」でもある。
なおヘッダー画像はWikipediaの「モンゴル帝国」の項目から、最大版図とされる1279年のものを引用した。
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