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戦力外通告〜イップスに苦しみ続けた僕の4年間〜



はじめに


初めての方も、すでに私のことを知ってくださっている方も、この記事を見てくださりありがとうございます。加藤翼です。2020年のドラフトで、中日ドラゴンズから投手として5位指名を受けましたが、2024年で戦力外通告を受けて、クビになりました。

この記事を書こうと思ったのは、野球から離れて第二の人生を歩む前にこれまでの野球人生を自分の中で整理したかった。さらに、私の挫折経験が、誰かの参考になるかもしれないと思ったからです。

自慢話をしたいわけでも、同情されたいわけでもないため、洗いざらい私のこれまでの野球人生について話したいと思います。

これまでたくさんのボールは投げてきましたが、文章を書くことはしてこなかったので、読みにくかったりしても温かい目で見ていただけれると嬉しいです。

中日ドラゴンズで4年間プレーした筆者

[高校野球編]


■球速は3年間で30㌔増「自信しかない」直球が切り開いたプロ野球


私がプロ野球の世界に入ることができたのは、紛れもなく高校野球の3年間での成長があったからだ。高校に入るまでは球速も120キロぐらいと大して球も速くなく、プロになれると1ミリも思っていなかった。なんなら中学までピッチャーよりキャッチャーを主にしていた。

高校も、当時の夢である建築士になるため、岐阜高専という建築学科のある高校に進学したかった。しかし、学力が少し足りないという事態に陥った(少し足りない、の少しを強調させてほしい)。

そのため、4つ上の兄が通っていた帝京大学可児高校に入学する事にした。活躍すれば年末のスポーツ王で「帝京魂!」と叫べていたかもしれない。



冗談はさておき、そんな私だったが、高校に入学して1年も経たないうちに140キロを投げられるようになった。
当時の中日のスカウトだった近藤真市さんに目をつけていただき、ちょくちょく私の様子を見に来てくれるようになった。

この時期くらいから「プロに入れるかもしれない」と思うようになった。

そして順調に成長し、高2の冬までに球速は150キロを超えるようになっていた。正直、高校生で150キロを超えるピッチャーはなかなかいない。
球場のスピードガン表示に「150キロ」以上が出た時、観客の少し静まった後にくるどよめきがめちゃめちゃ気持ちが良かった。


当時は全く気にしていなかったが、今思うとスピードが速く、高校生のバッターはボールでも振ってくれていた。
審判のストライクゾーンの広さも考えると、体感的に2倍ぐらいのストライクゾーンの広さだったはずだ。そこがプロとの一番の違いだと思う。

そのためストレートには自信しかなく、同じ高校生の強打者にはストレートしか投げなかった


帝京大可児高校時代の筆者


■中日から歓喜の5位指名…感情を出さない父が思わず「よっしゃ!」


そして迎えた、運命の日。
10月26日。いつものように学校に行き、授業を受け、ドラフト会議が始まる時間に合わせて会議室に向かった。
授業中に廊下を通り過ぎていく報道の方々をみんなが見ていた時には、平然を装っていたが、実はかなり誇らしかった。

承認欲求というものだ

余談だが、前の日に気合を入れ顔にいつもしないパックをしたところ、蕁麻疹(じんましん)が出ているのか疑うほど顔が真っ赤になってしまい、授業中ずっと氷で冷やしていた。



そんなこんなで始まったドラフト会議、事前に3球団から当日指名する可能性が高いという話を聞いていた。
しかし、何が起こるかわからないのがドラフト会議だ。

自分の中では、呼ばれるだろうとは思っていたがかなり不安だった。
中継が始まり、1位から指名がスタート。
名前が呼ばれるたび、カメラマンが毎回カメラを構える。
3巡目が終了した時あたりから、かなり気まずい雰囲気が流れていた。

自分自身も3巡目で呼ばれるかもしれないと言われていたので、この辺りから呼ばれた時のことより、呼ばれず、「(呼ばれなかった時に)一体何を言えばいいのか。どう謝ればいいのかな」と考えていた。
その時点で会議室には30人近い報道関係者の方が来てくださっていた。
そのため5巡目ぐらいからはお葬式ムードだった。



そして中日の第5巡目の選択が来た。
私の名前が呼ばれた時のことは、今でも鮮明に覚えている。
その瞬間、誰よりも喜んでいたのは、父だと思う。
昔から感情を表に出さず、むすっとしているのが私の父だ。

そんな父が誰よりも大きな声で『よっしゃ!』と喜んでいる姿を見た時、驚きと同時に父の喜びが自分の喜びへと変わった


今振り返れば、その瞬間がプロに入ってから4年間の原動力でもあったと思う。そして取材を終えグラウンドに向かった。
グラウンドには、夜遅い中、部員、親御さん、たくさんの人が集まってくれていた。この日は、これまで人生の中で一番嬉しかった日になった。

しかし、今思い返すとこの日が私の野球人生のピークとなってしまい、この日のことを思い出すと自分に腹が立ち悔しさが込み上げてくる。


ドラフト会議後に仲間から胴上げ


[プロ野球編]


■イップスという〝悪魔〟との出会い…思い出したくない全球ワンバンキャッチボール


1月になり新人合同自主トレが始まり、ナゴヤ球場には三塁側のスタンドを埋め尽くすほどの報道陣がいた。

その中でのキャッチボール。
私はフェンス側で、相手が下がっていく形でキャッチボールをしていた。
その中で、私が暴投を投げる。

その瞬間、
「やばい絶対誰か見てる」
「プロなのに暴投を投げるなんて恥ずかしい」
という考えが私の脳内を駆け巡った。

これが私とイップスと言う名の〝悪魔〟との出会いだ。


これ以降、暴投を投げることへの恐怖心から思い切りボールが投げられなくなってしまい、誤魔化してキャッチボールをするようになった。
「このままではいけない」と頭ではわかっている。
腕を思いっきり振ろうとするのだが、体は言うことを聞かない。
しかも、不思議なことに暴投になったらいけないと思えば思うほど、あらぬ方向にボールを投げてしまう。

実際はそんなに誰も見ていないし、なんとも思っていない。しかし、「暴投になったらどうしよう」、そんな考えがずっと頭の片隅にあった。

キャッチボールよりも最悪なのはピッチングだ。いや、イップスになったあとはピッチングだといえるかどうかも怪しいかもしれない。

入団当初、中日の2軍球場であるナゴヤ球場のブルペンはキャッチャーの後ろにネットはなく、暴投を投げてしまうとフィールド内にボールが行き、試合が止まってしまう。
そうすると、当然のことだが、ベンチ、観客といった球場内にいる人全員の視線が集まってくる。地獄だ。
あれより嫌なものは、今のところ思い当たらない、今後もないだろう。


こうなると、もはや正常にピッチングなどできようもない。
どんどん頭の中は「暴投を投げたらダメだ」という考えが大半を占めるようになっていく。典型的な負のスパイラルだ

そんなこんなで、投げることが仕事なのに投げること、ボールを触ることが怖くなった。
朝起きるたび憂鬱な気持ちになった。
一番ひどい時には、キャッチボールが全球ワンバンの時もあった。


■登板前日には熱田神宮で必ず参拝…取り戻せなかった「ストレートへの自信」


しかし、コロナなどもあり、二軍戦は人手不足で必然的に試合のメンバーに入ることが多かった。

「投げないとクビになる、だけど投げたくない」

中継ぎだったためいつ投げるかも分からない。
毎日吐くほど緊張していた。
投げるとわかっている日は、練習試合だろうと毎回どれだけ遅くなっても前日には必ず熱田神宮にお参りに行っていた。

自分を模索し続けた4年間でした


プロ3年目の後半、自分の中でこれをすれば腕を振ることができるという安心材料を見つけることができた。そして、投げ方もクイックモーションのみにし、できるだけコンパクトな形にした。

そして迎えた4年目、キャンプの時点で今年はやれる自信があった。
投げる球も納得できるものであり、イップスも出なくなっていた。

しかし、シーズンが始まった時、例年と違い中継ぎ投手の人数が多く、なかなか投げる機会がなかった。
たまに投げる登板でもパッとせず、また登板間隔が開く。登板間隔が開くと試合感覚や球速が出しにくく結果を出すのが難しくなってしまう。

しかし、その中でチャンスを掴んでいくしかない。
4年目になった時、「今年ダメならクビになる」。覚悟はしていた。
そのため、毎日野球をしていないと焦りと不安で押しつぶされそうになる。
練習時間だけで言ったら自分の中では誰よりも練習したと思う。

今思えば、練習をしている時が一番楽だった。
練習しない勇気がなかっただけだと思う。
また、練習をしたからといって、上手くなる保証もない。
間違ったことをすれば、どんどん下手になっていく。
気持ちの面に問題があるのにフォームを変えてしまうなど、最終的には自分のフォームがわからなくなっていた。



そして、私の最後の登板になった試合では、私の最大の武器である真っ直ぐを投げる感覚がなくなってしまっていた。
そのため、その試合で投げた球の90パーセントが変化球だった。
ストレートを投げるのが怖かったのだ。しかし、結果的には3人で抑え、周りからはナイスピッチと褒めてもらった。
それでも自分が情けなかった。

一番の長所、『ストレート』がなくなってしまった

こうして2024年のファーム最終戦が終わり、ラストチャンスだと思っていたプロ4年目が終わった。


■「このまま電話かかってくるな」非情な電話と、引退を決断した兄との〝恒例行事〟


10月。フェニックスリーグのメンバーに名前が載ってなかった時点で、戦力外の電話がかかってくることは大体予想できた。

電話がかかってくる日も予想できたため、その日の練習は、その場にいるみんなが不安でいっぱいだった。
コーチもそれを察し、練習内容は個別練習のみだった。

「最後のランニングや」
「最後のキャッチボールや」

そんなことを言いながら、みんな覚悟していたものの、心のどこかで「ひょっとしたら」と少しの希望も持っていた。

午前には練習が終わり、不安でじっとしていられなかったため、同期入団の(髙橋)宏斗を連れ、ゴルフの打ちっぱなしに出かけた。

午後5時ぐらいに電話がかかってくると予想していたため「予定がある」といい、1人になった。

「このまま電話かかってくるな」

そんなことを思いながら、昼寝をした。
電話が来たらそれで起きようと思いアラームはつけなかった。
もしかかってこず寝過ぎてもそれほど嬉しい寝過ごしはないと思っていた。

しかし、着信音が鳴り響くと同時に起きることになる。

「明日、球団事務所に来てくれ。お世話になった人には連絡しても構わない」

覚悟をしていたが、やはり実際電話がかかってきた後は、込み上げてくるものがある。


マツキ(松木平優太)からも何回も電話がかかってきたが出ることはできなかった。多分、号泣するから。

最初に親に伝えた。
毎回試合や記事が出るたび家族ラインに送ってきて、常に気にかけ、心配してくれていた。母親も電話越しに震える声で励ましてくれた。

親への恩返しができず本当に悔しい。ドームで投げている姿を見せてあげたかった。だからこそ、これからの人生で恩返しできたらと思う。


戦力外を受けて3ヶ月ほど経ち、正月に毎年恒例となっている兄とのキャッチボールをした。「投げるのが怖い」。その気持ちは消えなかった。

このまま野球を続けたとして、環境が変わったら尚更投げられなくなる。
やらなきゃ分からないと言われるが、誰も見ていないキャッチボールですら怖いのだ。だから、野球を引退することにした。


多くのファンの方に応援していただきました


[第二の人生編]


■どんな時も見捨てなかった大恩人・浅尾拓也コーチにこれだけは言いたい2つのこと


そんな4年間で、いろんな方が私をどうにかしようとしてくれた。

当時2軍監督だった片岡(篤史)さんは、いつも気にかけてキャッチャーの後ろでピッチングを見てくださった。
しかし、監督を目にするとイップスが発動。
監督めがけてボールが飛んでいくのだ。決してわざとではない。

今だから言える。
監督に限らず、投げる先に立たないでもらいたい。
わざとではないが、絶対当てる自信があるからだ。



自分が感謝を伝える中で一番に出てくるコーチが、入団から毎日つきっきりで教えていただいた浅尾拓也コーチだ。

ほぼ毎日、ピッチャーでは気づいたら球場に二人しか残っていなかった。
選手の中で一番難しく、苦労をかけたのではないか、と思う。
結果で恩返しできず、悔しく本当に申し訳なかった。



浅尾コーチとの話をすればいくらでも話せる。
が、今まで数え切れないぐらいのアドバイスをしてくださった中で、2つだけ、どうしても納得できなかったことがある。


1つ目は、投げるイメージについて話している時、浅尾コーチから「カメハメ波を撃つイメージ」と言われた時だ。その時も、「カメハメ波を撃ったことがないので、全くわかりません」と言ったのだが…。多分、浅尾さんは人類で唯一カメハメ波を撃てる人なんだと思っている。


2つ目は、きつい練習をしている時、浅尾コーチから「キングダム知っているか?」と聞かれ、知っていますと答えると、「キングダムの登場人物には槍が胸に刺さっても走り続ける奴がいるんだぞ。それに比べたら楽なものだろ」と。多分、浅尾さんはアニメという概念がないのでは?


少しおふざけを入れてしまったが、選手のことを思いやり、何があろうと絶対に見捨てない、私の恩師であり一番尊敬しているコーチだ。


尊敬する浅尾コーチ(左)と筆者(右)


■球界No.1の呼び声高い髙橋宏斗、松木平優太の同期2人へ「負けるもんか」


そして、面と向かって絶対に言いたくないが、マツキ、宏斗にはかなり助けられた。2人は同期入団で、ずっと一緒にいた。

今では、2人ともドラゴンズを代表するような選手だが、そんな2人の活躍を近くで見ていたからこそ悔しく、絶対追い抜いてやると私の原動力になっていた。

「あいつらの後に投げて、一緒にお立ち台立ちたかった…」

2人とも私が試合に投げるたびチェックし、その日はサウナに行って反省会が行われた。
ととのいスペースで、30分間説教されることもあった。
私には「ととのう」時間は許されなかった。


悔しかったエピソードとしていつも答えるのが、NHKで放送された「髙橋宏斗、密着のドキュメンタリー」のことだ。
実は、私も2時間ほどカフェで取材を受けている。
終わった後、取材者が「いいもの撮れました」と言ってくれ、すごく楽しみにしていた。

いざ放送の日。オンエアが終わると宏斗から「どんまい」と連絡がきた。
1秒たりとも私のインタビューが映っていなかったのだ。
親だけにしか言ってなくて良かった。
そして「明日から頑張ろう」と強く思ったエピソードでもある。


マツキ&ヒロトとの食事


基本ふざけてしかいないが、2人のおかげで辞めた後でも「負けるもんか」の精神で前を向けている。
本当に感謝しているし、もっと活躍している姿を見せてほしいと思う。

最後に

■「応援してよかったと思えるよう、これからも頑張ります」


結果も出してない僕を応援してくださりありがとうございました。

毎回ナゴヤ球場に足を運んでくれる方、僕を見つけると大きい声で名前を呼んでくださる方、いつもインスタでメッセージを送ってくださる方、たくさんの応援があったからこそ頑張れました。

引退してもイベントに来てくださったり、そういったファンの方のためにも応援して良かったと思えるようこれからも頑張りたいと思います。



野球人生を振り返れば、山あり谷ありで、いいこともありましたが、しんどいことのほうが多かったように感じます。

特に中日に入団して以降は、様々な大きい壁にぶつかり、プロの世界で成功を掴み取ることはおろか、プロ野球に在籍していたのは4年間という短い時間となってしまいました。

このように苦しかった野球人生ですが、野球は好きなままです。バッティングは得意なので、これから草野球界を代表する4番打者になりたいと思います。


野球を引退すると決断した後、仕事をしながら挑戦したいことができました。第二の人生はそれに挑戦していこうと思っています。

今後の活動については私のSNSなどで見守ってくださると幸いです。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。


元中日ドラゴンズ・加藤翼


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