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【非公開記録547】エクリチュール2.0 第4話 境界の崩壊

「伊藤乃枝流」というラベルは、もはや彼女の制御を離れ、自律的に増殖を始めていた。ある夜、書斎のPCに彼女が一度もアクセスしていないはずの論文検索サイトが開かれていた。

そこには、彼女自身の「過去」が、まるで他人の研究対象であるかのように記されていた。フランス留学時代の履歴、恩師との往復書簡、さらには彼女が日本で過ごした孤独な幼少期の記憶までもが「19xx年生まれの文学者・伊藤乃枝流のプロトタイプ」としてデータ化され、体系的に解体されていた。

彼女は震える手でその行間を読んだ。

そこには、彼女が感じてきたはずの苦悩も歓喜も、すべて既知の心理学や文学的プロトタイプに基づいた「ありふれた引用」として処理されていた。

「ズレ……」

彼女は自分の胸に手を当てた。そこにあるはずの「私」という核心は、どこにもなかった。あるのは、膨大な文学的蓄積と、社会的なコンテクストがたまたま交差したことによる、微細な歪みだけ。

彼女が自分だと思い込んでいたものは、かつて読んだ誰かの小説の断片であり、映画の引用であり、フランスの教室で聞いた講義の残響だった。

Tout est citation. (すべては引用である)

クリステヴァの言葉が、彼女の脳内に深く突き刺さる。彼女は机の上に置かれた『ベンヤミン論』の草稿を手に取った。そこには、彼女自身の字で、しかし彼女とは異なる誰かの意志によって、最後の一行が書き込まれていた。

――伊藤乃枝流という人間は、最初から存在しない。それは、近代文学という巨大な構造が産み落とした、単なる「記号の揺らぎ」に過ぎない

突然、書斎の壁が透けて見えるような錯覚に襲われた。

街の雑踏の声、SNSで流れる無数の「伊藤乃枝流への評価」、カフェで誰かが読んでいた彼女の小説、すべてが溶け合い、彼女という存在を構成するパーツであるかのように鳴り響く。彼女は理解した。自分が書いていると思っていたものは、自分自身の言葉ではなく社会という巨大な編み機が吐き出した、単なる「余剰のテキスト」だったのだ。

彼女の顔は、読み手の解釈によって無限に書き換わる。彼女の歴史は、誰かの都合の良い文脈によって都合よく遡及的に改ざんされる。彼女はついに、自分自身という「幻影」を諦めた。モニターの光だけが、何者でもない彼女の顔を青白く照らしている。彼女は椅子から立ち上がり、窓の外の夜空を見た。そこにある星々すらも、ただの「星座」という名のテキストに見えた。

「――そうか。最初から、誰もいなかったのか」

彼女は独り言を言ったが、その声すらも、どこかで聞いたことのある、ありふれた文学の引用に聞こえた。彼女は完全に「観測者」から、観測される側
いや、観測されることさえもない「空虚」へと至った。

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