スプーン1本の幸せ
左利きに生まれつき備わったもの、それは身の回りの物をよく見る観察眼と何事も気にしない心である。
無意識で当たり前の“右仕様“を脳内で察知し、逆手で使いこなす。
特に逆だからと言ってキィキィ頭を抱えず、少数派やし、しゃあないわと粛々と生きる。
敵は多かった。
ボールペン、ハサミ、紙を切るギロチン、ギター、財布、最近は引退した缶切り。
いちいち気にしていたらそれこそ生きてなどいけない。
使いやすさを追求し、手早く出来る工夫のほとんどが右利きに特化して変化していくのが当たり前なのだ。
時々、あまりにも真っ向勝負に右利き用しかない場所に着くと、存在を受け入れられていないような気さえする。
飲食店はアレルギー対応はあっても左利き対応はない。
ビュッフェはもはやアトラクションだから気にも留めない。
でも、鍋物の定食は先に聞いてほしいし、対応して欲しいと思うところはある。
昔、日航ホテルの中華料理屋で姉と食事をしていた。
奮発したコース料理を楽しみ、最後のコーヒーとデザートがテーブルに届く。
私達が会話中だったので、テーブル担当の女性は右側からサッと空いた皿を片し、コーヒーとデザートの杏仁豆腐を置いて一礼して去った。
話が一区切りして飲み頃のコーヒーに手を伸ばす。
私はブラックが好きだからお構いなしにカップを持ち上げると、違和感がした。
口を付けずにソーサーに戻す。
小さなティースプーンを手にとる。
普段は手にも取らないティースプーンだが、その柄の部分が左を向いていた。
カップの持ち手も左を向いている。
姉が隣でコーヒーにミルクを入れてティースプーンでかき混ぜ、カップを持ち上げる。
その動作に違和感はない。
姉のコーヒーは見慣れたいつもの右利き仕様だった。
チラッと隣のテーブルを見た、ちょうど運ばれたコーヒーは見慣れたいつものスタイルで、軽快に株の話をしているおじさんは、右手で角砂糖を小さなトングで掴んで2つ落とし、右手でティースプーンを持ってかき混ぜた。
あぁと2回、首を縦に振った。
テーブル係の彼女が、私の分だけコーヒーセットを逆にセットして出してくれていた事をやっと理解した。
このレストラン内で私だけがたった1人の左利きかもしれない。
そして私だけが受けれる特別なサービスを受けたかもしれない。
このたった1本のスプーンが逆だっただけで、私は大袈裟に聞こえるかもしれないが、心が震えた。
漠然と自分の存在が認められたような気がしたからだ。
この小さなおもてなしは、他の家庭は知らないが、私の家族だってしないことだ。
幼い頃から食卓の茶碗は左にあるし、魚の頭も逆を向いている。
それが当たり前のルールでマナーだから私は何も言わないし、毎食滞りなく食事を準備してくれていた母親に求めた事もない。
でも反抗期に一度、たった1本の箸が逆でも平然と地球は回るけど?と心の中で舌を打った記憶はある。
だけど普段は何も思わない。
自分が家族にする時は、右利き仕様にテーブルセットをしているし、家族がしてくれた時はちょっと手を伸ばして箸と茶碗を取ればいいだけだし、長年見慣れた景色だから、右利き仕様のテーブルに何も特別なことはないからだ。
コーヒーをいつもより楽しみながら姉に言うと「その人も左利きやったんちゃうの」と言われた。
だとしてもだ。
気がついても頼まれもしない事を実行に移す勇気があるか?を問われたらみんな閉口するだろう。
お節介やクレームになる可能性もあるし、ルール違反かもしれない。
お会計にたった際、私はテーブル係の彼女に直接「ありがとう」と伝えたかった。
でも、彼女が見当たらず、結局言いそびれた。
今思えば、私達の食事後のテーブルを片してくれていたんだろうけど、そこまで気が付かなかった自分の観察眼のなさに今でも無意識に後ろ頭を掻いてしまう。
レジで伝言してもらおうと思ったが、もしもこれがルール違反で彼女が叱られたらどうしようと頭に過って私には言えなかった。
退店後に改めて思った、彼女の行動はすごい勇気があるし、一流の勝負師だなと。
ホテル全体の教育だったとしても、素敵なオチがついてネタとして最高やないですか。
私の人生は多分一生左利きだが、こんなサービスを受けたのは今のところこの1回だけ。
長い人生で時間を計ればたった一瞬の出来事だけど、ずっと記憶に残っている。
今でもコーヒーを飲むたび、彼女を少し思い出して、ほんのり心が震える。
その度に自分は、たった1本のスプーンに震えるほどの幸せを感じれる、お得な人生を生きてるな、と単純さに笑える。
私は彼女の行動から「もてなし」とは誰かのためにしてあげるのではななく、自分がしたいからする親切なんだと気付かされた。
例え心遣いが行き違っても、私がしたかったからしたんだ、と満足できると、コミニケーションを取ることの心の負担が軽くなる。
敵だらけの世界に現れたスプーン1本で私を救った正義の味方は仰々しいか。
礼を言うほどのことでもないかもしれないし、名乗るほどのことでもないかもしれないが、黙ってハイタッチくらいはしたい。
もう会う事もないあの日の彼女も「やってやった!」とバックヤードで心を震わせてたと思いたい。

