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頑張っているのに苦しい人は、何に疲れているのか #02 比較疲労編


比べるつもりはなかったのに、苦しくなる

*このシリーズは、「頑張っているのに苦しい人は、何に疲れているのか」をテーマに、情報疲労・比較疲労・判断疲労など、現代人が抱えやすい“見えにくい疲れ”を分かりやすく観測していく記事です。本日は、第2弾となります。

時間がない方は、途中の図解だけでも流れが掴めるようにしています。


誰かが優れている。
誰かには、強い決意がある。
誰かは結果を出している。
誰かは、自分よりずっと先を歩いている。

そんな光景を、今の時代はよく見かけます。

SNSを開けば、誰かの成功、誰かの努力、誰かの実績、誰かの楽しそうな日常が流れてきます。別に比べるつもりで見たわけではないのに、気付けば胸の奥で、七つの大罪でいうところの嫉妬先輩がひょっこり顔を出してくる。比較って、本当に大変ですよね。

見なければいい。
気にしなければいい。
自分は自分でやればいい。

そんなことは分かっているんですけど、分かっているからといって簡単に止められるなら、多分ここまで苦しくなっていないんですよね。

正直に言えば、自分だって嫉妬します。誰かの文章が読まれているのを見ると凄いなと思いますし、誰かの活動が広がっているのを見ると憧れます。自分より先を歩いているように見える人を見ると、「自分もああなりたい」と感じることもあります。

そして、フォロワー数や反応を見て、少し揺れることもあります。……まあ、そこまでいくと七つの大罪でいうところの傲慢先輩も顔を出してきそうですが。でも、多分それも含めて人間なんですよね。

嫉妬すること、羨ましいと思うこと、認められたいと思うこと、もっと届いてほしいと思うこと。そういう感情が出てくること自体を、すぐに悪者にしなくてもいいのではないでしょうか。

問題は、その感情が出てきた時に、「こんなことを思う自分は駄目だ」と自分を責め続けてしまうこと。あるいは、「あの人が凄いなら、自分には価値がない」と決めつけてしまうことです。

凄い人がいることと、自分に価値がないことは同じではありません。

今回は、そんな「比較疲労」について考えていきます。


憧れて飛び込んだ場所で、自分の小ささを知る

誰もが、どこかに憧れの生活や憧れの世界を抱いているのだと思います。もちろん、自分にもあります。こういう文章を書けたらいいな。こういう活動ができたらいいな。こういうふうに、人に届くものを作れたらいいな。そんな願いがあるから、人は何かを始めます。

でも、その分野に飛び込むと、本当に凄い人たちに出会います。自分より文章が上手い人、自分より分かりやすく伝えられる人、自分より早く結果を出している人、自分より多くの人に届いている人。最初は「凄いな」と思って見ていたはずなのに、何度も見続けているうちに、いつの間にか自分の中に、存在しないランキング表みたいなものが作られていく。

「あの人はもうここまで行っている」
「あの人は評価されている」
「あの人は楽しそうに進んでいる」
「それに比べて自分は……」

この「それに比べて自分は」が、かなり厄介です。誰かに直接責められたわけではありません。誰かが「あなたは遅れている」と言ってきたわけでもありません。ただ、他人の成果や生活を見続けているうちに、自分の現在地まで小さく見えてしまう。

本当は、その人にはその人にしかない視点があったはずです。その人にしか書けない言葉があったはずです。その人にしか出せない温度があったはずです。それなのに、凄い人たちと比べ続けることで、自分の個性や面白さまで小さく見えてしまう。そして、静かにその場所から離れていく。

それは才能がないから、飽きたから、努力不足だから。もちろん、そういう場合もあるでしょう。けれど中には、SNSや情報の多さによって比較し続けた結果、心が疲れてしまった人もいるはずです。

ここで一度、整理してみます。

俺だってそうなってます…(´・ω・`)

比較疲労は、情報疲労とも繋がっている

比較疲労は、単独で起きているものではありません。誰かと比べて苦しくなる。誰かの成果を見て焦る。誰かの生活が眩しく見えて、自分の現在地が小さく見える。そうした感覚だけを見ると、「自分の心が弱いだけなのではないか」と考えてしまうことがあります。

でも、もう少し広く見ると、そこには情報疲労も関係しています。

前回の記事でも触れましたが、現代は情報が多すぎます。ニュース、SNS、動画、ブログ、仕事の連絡、誰かの成果報告、誰かの成功体験、誰かの失敗談、誰かの人生論。そうした情報が、こちらの状態に関係なく流れ込んできます。

しかも、その中には比較の材料になりやすいものが多く含まれています。

誰かが成功した。
誰かが評価された。
誰かが楽しそうにしている。
誰かが収益を上げている。
誰かが夢を叶えている。

それらを何度も見続けていると、脳はただ情報を受け取っているだけでは済まなくなります。気付かないうちに、自分と比べ始めます。そして、比べるたびに少しずつ心が削られていく。

つまり、比較疲労とは「比較する性格の問題」だけではなく、比較したくなる情報を浴び続けている状態とも言えるのです。

もちろん、SNSやネットが悪いと言いたいわけではありません。そこには励まされる言葉もありますし、学べる情報もあります。誰かの挑戦を見て、自分も頑張ろうと思えることもあります。実際、自分もそういう情報に何度も助けられてきました。

ただ、疲れている時は話が変わります。元気な時には刺激になる言葉が、疲れている時には圧力のように感じることがあります。誰かの成功報告を見て「凄いな」と思える日もあれば、「自分は何をしているんだろう」と沈んでしまう日もあります。同じ情報でも、受け取る側の心の状態によって意味が変わるのです。

だから、比較疲労を考える時に大事なのは、「比較する自分を責めること」ではなく、自分が今どれくらい情報を浴びているのかを見ることです。

比べてしまう自分が悪い。
嫉妬する自分が悪い。
焦る自分が悪い。

そう決めつける前に、少しだけ立ち止まってもいいのではないでしょうか。それは自分の性格だけの問題ではなく、他人の人生の断片を見すぎて、心が処理しきれなくなっているサインでもあるのです。

ここらで休憩

2人でリラックス。リラックスは大事っす

比較は、悪いものではない

ここまで読むと、「比較しない方がいい」という話に見えるかもしれません。でも、多分そういう話ではありません。比較があるから、人は新しい世界を知ります。比較があるから、「自分もやってみたい」と思えます。比較があるから、憧れが生まれることもあります。

誰かの文章を見て「凄い」と思った。
誰かの活動を見て「自分も挑戦したい」と思った。
誰かの考え方を見て「こういう生き方もあるんだ」と知った。

それは、決して悪いことではありません。誰もが、どこかに憧れを抱いています。もちろん、自分もそうです。こうなれたらいいな。こういう言葉を書けたらいいな。こういう生き方ができたらいいな。そういう想いがあるから、人は前に進もうとします。

だから比較そのものを、全部悪者にしなくてもいいのです。問題になるのは、比較そのものではありません。比較が、自分を責める道具になってしまうことです。

「あの人は凄い」
「だから、自分は駄目だ」

この形になってしまうと、比較はかなり苦しくなります。本当は、その間にもう一つ言葉が必要だったのかもしれません。

「あの人は凄い」
「そして、自分は自分の歩幅で進めばいい」

誰かには、その人の歩幅があります。誰かには、その人の人生があります。そして、自分には自分の歩幅があります。自分が見ている誰かの姿は、その人の人生の全部ではありません。積み重ねてきた時間、失敗した時間、苦しかった時間、上手くいかなかった時間。見えていないものも、きっと沢山あります。

比較は、人を苦しめるものにもなります。でも同時に、人を前へ進ませる力にもなります。だから必要なのは、比較を消すことではなく、比較との距離を少しだけ見直すことなのです。

比較する自分に、少しだけ寄り添ってみる

比較してしまう自分を、無理に責めなくていいと思うんです。

誰かを羨ましいと感じる日があります。誰かの成果を見て焦る日もあります。誰かの言葉や活動を見て、「自分もああなりたい」と胸が動くこともあります。そういう感情が出てくること自体は、多分すごく人間らしいことです。

ただ、そこで自分を否定する方向へ進んでしまうと、比較は一気に苦しくなります。

「嫉妬してしまった。だから自分は駄目だ」
「羨ましいと思った。だから自分は醜い」
「焦っている。だから自分は弱い」

そうやって自分を追い詰めてしまうと、本当は憧れだったものまで、自分を傷つける材料に変わってしまいます。

だから、比較で苦しくなった時は、少しだけ言葉を変えてみてもいいのではないでしょうか。

「自分は今、あの人に憧れているんだな」
「自分も、ああいう場所に行きたいんだな」
「だから、少し焦っているんだな」

こうして眺めると、嫉妬や焦りはただの悪い感情ではなく、自分の願いを知らせる反応にも見えてきます。

もちろん、それですぐに楽になるわけではありません。比較してしまう日はありますし、人の成功を見て、素直に喜べない日もあります。そういう自分を責めたくなる日もある。そこまで綺麗に割り切れたら、多分ここまで悩んでいないんですよね。

それでも、そこで自分を切り捨てなくていい。

凄い人がいることと、自分に価値がないことは同じではありません。誰かが先を歩いていることと、自分の道が消えることも同じではありません。

比較で疲れた時に必要なのは、自分を責めることではなく、自分の心が何に反応しているのかを、少しだけ丁寧に見てあげることです。

比較を完全になくすのは難しいです。けれど、比較してしまう自分に少し寄り添うことはできます。

その小さな余白が、比較疲労から少し離れるための入口になるのだと思います。


比較疲労から少し離れるために

比較疲労を完全になくすことは難しいです。人は誰かを見て、自分の位置を確かめることがありますし、憧れや嫉妬が出てくることも自然な反応です。だからこそ大事なのは、比較をゼロにすることではなく、比較で自分を削りすぎない形に整えることだと思います。

まず1つ目は、疲れている時ほど、比較材料から少し離れることです。SNSやネットを全部やめる必要はありません。ただ、寝る前や起きた直後、心が弱っている時に誰かの成功報告を浴び続けると、それが刺激ではなく圧力になりやすいです。そういう時だけでも、見る時間を少し減らす。通知を切る。別のことをする。そのくらいの距離感で十分です。

2つ目は、「あの人は凄い」と「自分は駄目だ」を繋げないことです。誰かが凄いことと、自分に価値がないことは同じではありません。誰かの成果を見た時に、「だから自分は駄目だ」と結論づけるのではなく、「自分は何に憧れたんだろう」と一度見てみる。すると比較は、自分を責める材料ではなく、自分の願いを知る手がかりになります。

3つ目は、自分の積み重ねを見える場所に置くことです。比較が強くなる時ほど、人は自分が歩いてきた距離を忘れます。書いた記事、続けた日数、少しできるようになったこと、前より考えられるようになったこと。どれも小さく見えるかもしれませんが、それは確かに積み重ねです。他人の速度を見る時間が長くなった時ほど、自分の足跡も見返してあげる必要があります。

比較で疲れた時に必要なのは、「もう比べない」と決意することではなく、比べてしまう自分を少し休ませることなのだと思います。

まとめ

比較してしまうこと自体を、すぐ悪者にしなくてもいい。

誰かを凄いと思うこと。
誰かに憧れること。
誰かを見て焦ること。

そういう感情は、人として自然な反応です。

ただ、その感情が出てきた時に。

「だから自分は駄目なんだ」

そうやって、自分を責め続けてしまうと苦しくなります。

比較は、人を苦しめるものにもなります。

でも同時に。

新しい世界を知ること。
憧れを持つこと。
前へ進もうとすること。

そういう力にもなります。

だから必要なのは、比較を完全になくすことではなく。

比較との距離を、少しだけ見直してみること。

比べてしまう日があってもいい。

羨ましいと思う日があってもいい。

焦る日があってもいい。

そこにいる自分まで、嫌いにならなくていい。

凄い人がいることと、自分に価値がないことは同じではありません。

誰かが先を歩いていることと、自分の道が消えることも同じではありません。

比較で疲れた時ほど。

少しだけ、自分の歩幅を見てあげてください。

きっと、ちゃんと進んでいます。

次回予告

次回は、「判断疲労」について観測していきます。

選択肢が増えた時代。

便利になったはずなのに、何故か疲れてしまう。

決めることが増えた現代で、人は何に心を削られているのか。

次回も、一緒に整理していきます。

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