「ルソー『社会契約論』」を読んでみた
こんにちは、harusukeです。
今回は「ルソー『社会契約論』」(宇野重規著)という本を読んだので、それについての感想をつらつらと述べていこうかな~という緩いノリです。少し難しく思われるかもしれませんが、この本は入門者向けに書かれており、社会契約論をわかりやす~く100ページ程度で紹介しているので、あまり堅苦しくないのが特徴です。
今日の記事は備忘録みたいな感じで書いていくので、全然飛ばし読みでもOKです(読んだことのない人のためにしっかり解説は入れていきます)。
ちなみに本家ルソー著の「社会契約論」と私が今回読んできた宇野氏著の「ルソー『社会契約論』」は混同しやすいため、ルソー著のものだけ米印を入れることにします。
それでは今日もよろしくお願いします~
① 第三章より 「一般意志」を通して考える対話のあり方
社会契約から、本質的でない要素をとりのぞくと、次のように表現することができることがわかる。「われわれ各人は、われわれのすべての人格とすべての力を、一般意志の最高の指導のもとに委ねる。われわれ全員が、それぞれの成員を、全員の不可分の一部としてうけとるものである」
上の文章は宇野氏が直接引用した部分ですが、ここでの「一般意志」とは『市民是認が真剣に話し合い、互いの立場を認め合いながら、議論を尽くして作り上げた純粋な共通の意思のこと』と宇野氏は解釈しています。単純な多数決ではない、芯からの合意による一致した意思ともいえそうですね。
なぜ私が一般意志の話を持ち出したかというと、ルソーの語る「一般意志の見つけ方」に強く惹かれる部分があったからです。
人民が十分な情報をもって議論を尽くし、たがいに前もって根回ししていなければ、わずかな意見の違いが多く集まって、そこに一般意志が生まれるのであり、その決議はつねに善いものであるだろう。
この部分も宇野氏が本文中に引用したものですが、ここで大切なのは
「たがいに前もって根回ししていなければ」という部分です。
ここで宇野氏は「事前の派閥づくりや談合によって全体の意思がゆがめられてしまうこと」を避けるための但し書きとしています。事前に仕組まれた徒党の謀略によって本来自由であるべき議論の方向性を捻じ曲げることに警鐘を鳴らしているんですね。
また、宇野氏は全体の正直な意見からかけ離れてしまうケースとして経済学者ケインズの「美人投票」の例も挙げています。自分が本当に美人と思う人よりも周囲が美人だと選びそうな人を予測して投票すると思わぬ結果になる、つまり他人の意見や動向を過度に伺ってしまうことは自分の判断を歪めてしまうということのたとえ話です。
(ここからは私個人の意見ですが)私は社会が民主主義を選択する以上、個人が深く思考し、政治や社会のあらゆる決め事に参画する義務を負うと思っているんですが、社会システムを構築する側に立った時、こういった「自由意志を惑わす要因」を排除する前提があるのはとても的を得ているなと思ったんです。
例えば日本の中学校とかはいい例だと思っていて、あなたも学級会や授業で生徒が発言する状況で、意見が出しづらい雰囲気を感じたことはありませんか?「間違えたことを言って笑われたらどうしよう」とか「出しゃばりな人だなって思われたくない」といった気持ちは発言を邪魔します。それでは生徒が主体的に作る話し合いはいつまでも成り立ちません。他者の視線を気にせず、意見のある人だけで進む話し合いに全員が参加する意味はあるでしょうか?
これは学校以外でも同じだと思います。他者の視線に限らず宇野氏やルソーは多くの障害を指摘していました。大きなスケールでなくとも、これから話し合いを行う際はその議論が本当に充実した地盤の上に成り立っているか、注視していきたいと思います。
② 第三章より ルールを作るときのルール
宇野氏はルソーが多数決に対して警鐘を鳴らしたことについても触れています。ルソー曰く、「どうしても多数決で決めなければならない場合でも、まず『この問題は多数決で決める』ということ自体は、全員一致で合意すべきだ」だそうです。
これ本当に僕いいなと思っていて。多数決が万能ではない分、話し合う議題によっては多数決が不適切な時もありますよね。話し合う内容だけでなく、話し合いのルールそのものも設計するのはとても斬新な発想だなと思いました。
宇野氏はこれに対し、「いきなり多数決を実施するのは、ある種の暴力になりかねません」と語っています。私もこの考えにも大賛成で、現代社会においても通用するなと思う点があります。一見公平に見えるシステムでも、本当はシステムを作る人が有利になるようにひっそりと仕組まれていることは少なくありません。基本的に私たちは何かサービスを受ける際には免責事項などサービスを提供するサイドの決定事項を飲むことが普通になっていますが、少なくとも自分たちで決めることができる範囲内であれば、確かに多数決を疑うことから始めてみてもいいのかもしれません。
③ 第三章より "if"を追い続ける姿勢
本書の第三章は「一般意思って結局何なの?」というテーマを通してあらゆる切り口から一般意志を考えていくのですが、そこで宇野氏が大切にしているルソーのスタンスは「常に考え続ける」という姿勢です。
ルソーはあらゆる理想を掲げながら正しい民主主義のあり方に迫っていきますが、そこには現実性の低い理想も含まれています。ですがルソーは「理想は理想に過ぎず、必ずしも現実にならない」と認めたうえで、「どこまで現実は理想に近づけるかを考える」選択を取り続け、社会に呼びかけていきました。宇野氏はこれを「理想ヘの不断の努力を促す姿勢」として強調しています。
私はこのスタンス、とても大切だと考えています。世の中には虚無主義(ニヒリズム)や冷笑主義(シニシズム)というスタンスがあります。両者は似て非なるものですが、どちらにも言えるのは前進しないという点です。社会に何も期待せず、建設的な議論を放棄する姿勢はある種、自分を防衛するためのごく普通な心理的行動ともいえます。ですが、そればかりでは幸せは回ってきませんし、もし目の前にあってもそれを幸せと感じることはできません。社会の目まぐるしい変化とともに、議論の答えは変化し続けます。それでも前を向き、解決策を考え続けることが人間らしく生きることなのかななんて思ったりするわけです。
④ 第四章より 代表制批判
ここからはルソーが社会契約論*第三篇で論じた様々な政治の体制や政府の形態についての話です。ルソーの統治論の中でも、「代表制批判」についてはとても刺激を受けたので紹介します。
ルソーは自分たちを自由だと考えるイギリス人に対し、「自由なのは選挙の日だけで、選挙が終わればまた奴隷に戻る」と痛烈に批判したそうです。なぜならルソーは「政治家や政党が人民の意思を代表できるものではない」と主張しているからなんですね。
この考えは今に通ずるところがあり、また私は共感の嵐に襲われました。というのも、私が2026衆議院選挙において「選挙が『推し活化』している」という現状に強く不信感を感じていたからです。(ここから一人語りが始まります笑)
政治家は本来選挙の時にアピールする政策や政権公約にのっとって行政を行うのが基本ルールじゃないですか(例外はあるとしても)。そうすると選挙で国民が見るべきは政治を行う「人」よりも「政策」なのではないでしょうか(もちろん過去に不祥事を起こした人は注視すべきですが)。
でも、実際は政治家の人柄"だけ"で投票している人が増えているのが現状です。政治家本人を応援することを否定するつもりは面目ありませんが、それのみが投票の根拠になるのは良くないと思うんです。
よく言われるのが、「戦争は良くないけど戦争をするか決断するのは政治家であり、その政治家を決めるのは国民であるから、国民にも戦争責任が問われる」というロジック。僕は最近これに疑問を感じているんです。なぜなら段々と政策よりも「何か変えてくれそう」という期待感だけでリーダーを選出する人が増加しているからです。そこには戦争をするしないの意思はありません。これでは先ほどのロジックは成り立たなくなりませんか?
実際戦争が良いか悪いかという話はおいておくにしても、国民が戦争、もしくは対外関係において今よりも大きな武力を伴う選択をする可能性のある政党に票を入れるということは、そうした行動を国がとっても構わないと黙認していることになるわけです。民主制の国に生きる以上、「あらゆる政策決定の責任を国民も一部引き受ける」という姿勢は必要だと思うのですが、それが希薄になりつつある現代社会はいかがなものでしょうか。このまま「推し活化」が加速し、表面上のイメージで代表を選んでおきながら「自分は戦争行為に加担なんかしていない」と責任転嫁に走ってしまうような世の中にはならないでほしいと思う今日この頃です。
ですがルソー曰く、
主権は譲渡されえない。同じ理由から、主権は代表されえない。主権は本質的に一般意志のうちにあり、そして意思というものは代表されるものではない。
としています。ここでは立法権における代表制を批判している部分の員代らしく、ルソーは法を決める人民の意思は直接表明するべき!と伝えています。どうやら僕の考えていたことと似て非なる感じがしますね・・・
ルソーは国民の意思を代弁することの不可能性について触れていますが、私は国民は自分の意思とは無縁に代表者が選ばれることの危険性を注視しました。
宇野氏はここについてはあまり深く触れておらず、ルソーもあまり多くはこの点について記述はなかったようですね。
④ 第四章より 「監察官」の正しい使い方
ここからは社会契約論* 第四編の内容に入っていきます。
まずはキーワード「監察官」についての説明からですね。宇野氏によると、古代ローマに実在した役職に由来した制度で、「人々の生活様式や習俗、公序良俗を監視し、維持する役割」を担っていたそうです。ルソーは社会がよくなるためには法律が習俗の浸透を通して人々の行動の基盤となるよう、監察官の存在を重要視したそうで、決して全体主義的なものではないということを宇野氏も強調しています。
ルソーのロジックは次の通りです。
1.優れた立法者が「良き法律」を作る
2.人々が法律に従って生活する
3.生活習慣が良き習俗として定着する
4.習俗が法律を支える力になる
でもルソーはこの循環が必ずしも上手くいかないことを知っていました。だからこそ監察官という制度を設けたようです。あくまでも目的は「健全な社会の維持」であり、そのために「習俗をチェックする」という方法を用いるということですね。
ですが、この提案は「法が正しい」という前提条件のもとに作られる制度であることを忘れてはいけません。法や立法を司る省庁が特定の個人や団体のみを優遇したり、特別冷遇するようなことがあっては社会は良くならないのは当然です。ですが監視官は基本国家権力のもとに配備されることが多く、本来の目的を見失ってしまう事例は少なくありません。監察官に限らず、あらゆる制度には目的と手段があり、それらを見失わないようにする姿勢が大切だと強く感じた瞬間でした。
⑤ 終章より 「国のために死ぬ」ことのない世界へ
ルソーは社会契約論*でこんなことを書いています。
「戦争が起こったら国家のために戦って死ね」
ルソーがそう説いた140年後の日本ではそう教えていたかもしれませんが、今聞くと少しゾッとしますよね。ですが、宇野氏はルソーは単純な軍国主義者ではないと冷静に語っています。
宇野氏によると、ルソーの真意は「自分にとって大切な何かを、自分の手で守れ」ということです。価値観や社会は壊れやすいものだからこそ、命がけで守る覚悟を持つことの重要性をルソーは訴えています。
僕個人としてはこの考えには少し賛同しかねています。確かに時間をかけて築いた社会を守ろうとする姿勢はとても大切です。ですが、その方法についてはもっと穏健な方法がないかなと思ったりするのです。話し合いで解決できない場合は命懸けという選択肢も避けられないとしても、初めからそればかりを当てにするのは良くないはずです。非常時に限らず、平常時から対話を行い、権利や文化がお互いに守られ、尊重される関係性構築にも力を入れるべきと私は考えます。市民個人個人が主体的に議論を交わすことで、対話ベースの社会を構築し、国家を守る選択肢の1番目に命を懸けることがないような社会を私は望んでいます。
一方、命を懸ける可能性が僅かにでも存在するということは頭の片隅に入れておく必要がありそうですね。
まとめ
お疲れさまでした!今日はここまでです。
ルソーの考え方には現代に通ずるところが沢山あった一方、その在り方につては注視するべき点も多かったように思います。
👆もしルソーについて興味が湧いたら、是非宇野さん著の方を読んでみることをお勧めします。(アフィリエイトじゃないです)
もし何か感じたことがあれば是非コメントに残していってくださいね!それではまた。
harusuke 2026.02.19
