『宇宙人ポール』解説|上司の裏切り・信仰崩壊の先で人はどう生きるか?“絶対が壊れた後の思考法”
「あなたが絶対だと思っているもの、それが今夜なくなるとしたら、あすの朝、なにを支えに目を覚ましますか?」
こう聞かれて、すぐに答えられる人はたぶん少ない。
神でもいい、国家でもいい、上司でもいい、結婚十年目の相手でもいい。なにかしら「これだけは揺るがない」と思っているものが、人にはある。だからこそ朝、ふとんから出られる。
でも、もしそれが嘘だったら?
2011年の映画『宇宙人ポール』は、コメディの顔をしながら、この問いをまっすぐ投げてくる。低俗な下ネタとSF映画のオマージュを撒き散らしながら、人がどうやって「世界が終わったあとの世界」を生き直すか、その手順を、笑い声に紛れ込ませて見せてくる作品なんです。
短パン、タバコ、ピスタチオ、宇宙人
簡単にあらすじを書いておきます。
イギリスのオタク二人、グレアムとクライヴが、サンディエゴのコミコンに参加したあと、レンタルキャンピングカーでアメリカ西部のUFO聖地巡礼に出る。エリア51、ロズウェル。SF好きにとっての「聖地」を順番にたどる旅です。その途中、本物の宇宙人「ポール」と遭遇してしまう。
ここまではよくある話。ところが、現れたポールが、まったくありがたくない。
短パンを履いている。タバコを吸う。下品な冗談ばかり言う。劇中の冗談として、スピルバーグにE.T.のアイデアを助言したのは自分だと自慢する場面まである。要するに、ロサンゼルスあたりにいそうな、口の悪い中年男なんです。
二人のオタクが信じてきた「宇宙人とはこうあるべきだ」という前提——崇高で、神秘的で、人類を導く存在——が、はじめの数分で、するりと脱げ落ちてしまう。
そしてもう一人、世界が崩れていく人物がいる。ルース・バッグスという女性です。
片目をつぶって生きてきた女
ルースはRVパークを父親と二人で営んでいる、敬虔なキリスト教徒。創造論を固く信じていて、進化論を否定し、Tシャツには「イエスがダーウィンを撃っている」絵柄が描かれている。
そして彼女は、左目が見えない。
父親は極端に敬虔な信仰の持ち主で、医療よりも神の意志を優先する考えに縛られていた。という作中設定です。ルースの片目の失明には、父モーゼスの「医療不信」が関わっている。
つまりルースは、父親の信仰と、神の絶対性と、世界が「神のさだめた善きもの」であるという三本柱に支えられて、文字通り片目で世界を見ながら生きてきた女性なんです。
そこに、ポールがあらわれる。
下品で、口汚くて、下ネタと軽口ばかり叩く——けれど明らかに「神が創造したのではない」、地球外から来た知的生命体。
ルースの世界は、その出会いで終わる。
ポールは「神を否定する」のではなく、「神の隣にしれっと立つ」
ここがこの映画の妙なところです。
ポールはルースに対して、神の不在を理屈で論破したりしない。そんな面倒なことはしない。彼はただ、彼女の頭に手をあてて、宇宙の本当のスケール—星々の生まれ方、生命の広がり方、地球がほんの小さな水たまりにすぎないこと—を一瞬で流し込む。
説教ではなく、データの上書きです。
そして、その流し込みのあとで、ポールはルースの見えない左目を治してしまう。父親の信仰に縛られ、治療の機会を奪われたその目を、宇宙人のあんちゃんが、軽い手つきで治す。
このシーンが、ものすごく残酷で、ものすごく優しい。
「私が信じてきたものは、なんだったの?」と、ルースは凍りつく。けれどポールは「進化さ、ベイビー」と軽く片づける。彼は彼女の信仰を破壊する気がない。ただ、たまたま、隣に立ってしまう。神よりも具体的な存在として。
これって、私たちが日常でいちばんよく食らう種類の「絶対の崩壊」と、形が似ていませんか。
上司が、横領していた朝
たとえば、こんな状況を想像してみてください。
入社以来、ずっと尊敬してきた上司がいる。仕事に厳しく、人にやさしく、家族を大切にし、若手の自分にも辛抱強く向き合ってくれた人。あなたはその人の背中を見て、社会人としての軸を組み立ててきた。
ある朝、出社すると、その上司が経費を横領していたと知らされる。何年にもわたって。
このとき、あなたを襲うのは「許せない」という怒りよりも前に、「あれは、なんだったんだ」という、もっと茫然とした感覚です。
あの厳しい指導は、本物だったのか。あの優しさは、本物だったのか。自分が組み立ててきた仕事の軸は、嘘の上に乗っていたのか。
ポールに会ったあとのルースが見たのは、まさにこの種類の風景です。父の声、教会の歌、聖書の物語——本物だと思っていたものが、ぜんぶ、急にぐらつく。
あるいは、もっと小さな例でもいい。横領のような大事件でなくても、信じていた基準がふっと白紙になる瞬間は、日常のいたるところに転がっています。
何年も「常識」だと思って実践してきたビジネスマナーが、じつは特定の世代の押しつけにすぎなかったと、SNSで指摘されて気づいた瞬間。あんなに時間をかけて丁寧なメールの書き出しを整えていた自分は、なんだったんだ、と。あれもまた、規模はちがえど、同じ種類の出来事です。
「絶対」は、ふだん、こういう小さな振動でも崩れる。エイリアンが来なくても、私たちはいつも、半分くらい片目で世界を見ている。そして、その片目が、ある日、ふいに開く。
「地獄はないの?」
ルースの崩壊シーンが、映画のなかでいちばん好きだ。
彼女の世界が終わったあと、彼女がまずやるのは、悪態をつくことだ。それまで一度も口にしてこなかった汚い言葉を。
この記事には書けないような下ネタを、ルースは初心者ドライバーがクラッチを踏むみたいに、ぎこちなさを残したまま、矢継ぎ早に試していく。
これは、ただの下ネタギャグに見えて、驚くほど正確な人間描写だ。
「やってはいけないこと」のリストが、ある日まるごと白紙になる。なにが善で、なにが悪なのか、わからなくなる。
すると人は、まず「これまで禁じられていたこと」を試してみる。試してみないと、新しい基準は作れないからだ。
横領が発覚した上司の話に戻れば、あなたもたぶん、似たことをする。家に帰って普段より少し多めに酒を飲んだり、スマホの検索欄に「転職」と打ち込んでは消したり、意味もなく昔のやり取りを読み返してみたり。
それは「自暴自棄」というより、「まだ足場があるかを確かめるための確認作業」です。
ルースが叫んだ「下ネタ」は、不器用な確認作業の音なんです。神という地面を失った彼女が、地面なしでもまだ自分の足は動く、ということを、悪態の発音で確かめている。
ある哲学者は、絶対が崩れたあとに人がやってはいけないことは、「次の絶対にすぐ飛び込むこと」だと言いました。神の代わりに、別の教義に逃げ込んでしまえば、ふたたび片目で生きることになるからです。
ルースの父モーゼスは、まさにこれをやる。映画の終盤、ポールの治癒能力を見て「主が癒やしの手をくだした」と言い直す。神を捨てる代わりに、ポールを神の使いだと読み替えて、自分の世界観を保存する。これは典型的な逃げ道です。崩れた信仰を、もうひとつの信仰で埋め直す。
ルースはそうしない。彼女はポールを「ただのポール」として受け入れる。神でも悪魔でもない、口の悪い、いい奴。それだけの存在として。
国家もまた、信仰だった
『宇宙人ポール』のもうひとつの読みどころは、国家の描かれ方です。
ポールを追いかけるのは、謎のエージェントたち。彼らはずっと、ポールという「国家の最重要機密」を捕まえようとしている。けれど終盤、思いがけない真実が明かされる。エージェントの一人ゾイルは、じつはポールの脱走を内部から助けていた協力者だった、というオチです。
国家を率いる「ビッグガイ」は、結局、ポールを迎えに来た宇宙船に押しつぶされて死ぬ。
宇宙船が降りてくる、たった一瞬のあいだに、彼女が築いてきた組織の壁も、銃も、肩書きも、ぜんぶ、つぶされる。あの一瞬の絵が、ものすごく雄弁です。どれだけ強固に見える組織も、宇宙規模の不条理の前では、砂上の楼閣でしかない。
警察があり、軍隊があり、法律がある。その向こうに、自分の生命と財産が守られている、という前提を、私たちは無意識に信じている。でも、ポールという外部の存在の前で、その契約は、軋み、ほどけていく。
これも、神を失う経験と地続きです。「国家が私を守ってくれる」というのは、近代人の信仰のひとつだから。
地震のニュースを見たあと、避難訓練を何度受けても、ほんとうにあの揺れが来たら自分は逃げきれないかもしれない、と気づくときの、あの感覚。あれと同じです。誰かが守ってくれている、という前提が、一瞬、薄くなる。
乾いた夕焼けのなかで
絶対の前提が崩れたとき、人はどう生きるのか。
カミュという哲学者は、こう書きました。意味のない世界で、それでも人は石を押す。意味は、押すという行為のなかにしか生まれない、と。
これは、立派な答えのようでいて、じつは、たぶん、半分しか答えていない。
ルースは、もう神の娘ではない。創造論者でもない、片目の女でもない。父の支配からも自由になった。
けれど、その「自由」のなかに、彼女は、確実に、心細さも抱えているように見える。映画はそれを台詞で説明しないけれど、宇宙船を見送った空の色がそれを語っているように思える。あの色は、勝利の色じゃない。「勝ったのか負けたのか、まだわからない」色です。
宙ぶらりんで生きるって、こういうことなんだと思うんです。
足元の地面が、もう絶対じゃないと知っている。だから、歩くたびに、ちょっと足の裏が緊張する。でも、地面を失ったぶんだけ、空がよく見える。星もよく見える。隣を歩いている人の顔も、ちゃんと見える。両目で。
心細さと心地よさは、たぶん同じ場所から来ている。
絶対を持っているときは、楽です。考えなくていい。前提が、自分の代わりに考えてくれる。けれど、前提を失うと、自分の足音と、自分の呼吸と、隣にいる人の表情が、急にくっきりする。
結局、ルースが教えてくれたこと
絶対的なものが崩れた、という経験を、私たちはたいてい、人生のどこかで通過します。
親が間違っていた、と気づいた日。信じていた組織がずさんだったと知った瞬間。神を信じていたのに信じられなくなった夜。長年勤めた会社の理念が、ただの飾り言葉だったと分かった月曜日。あるいは、永遠だと思っていた人が、ある朝、永遠ではなくなった事実に直面したとき。
『宇宙人ポール』は、コメディとして観れば、たしかに下品でとっちらかった、一見すると軽薄に見える映画です。SFの引用は内輪受けだし、創造論者の描き方は意地悪だし、結末はご都合主義だ、と批判する人も多い。
でも、ルースという一人の女性が、片目で世界を見ていたところから、両目で世界を見はじめるまでの、わずか百分ほどの軌跡——あの軌跡には、私たちが「絶対」を失ったあとに、どうやって新しい立ち方を見つけるか、その小さな手順が、ぜんぶ詰まっているんです。
まず、絶対が崩れた事実を、ごまかさずに見る。次の絶対に飛び込まない。 そのあと、しばらく無秩序のなかで、不器用に悪態をつく。許される。 それから、目の前にいる、神でもない、国家でもない、ただの「いい奴」を信じてみる。 そして、自分の足音で、もう一度、世界の地図を描き直しはじめる。
宙ぶらりんは、たしかに心細い。でも、両目で見る夕焼けは、片目で見る夕焼けより、すこしだけ、深い色をしている。
