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「短期間で解決」という言葉が、親に与えるもの-希望になる期限と、親を追い詰める期限


子どもが学校へ行けなくなると、家庭の時間は少し変わる。

朝が来るのが怖くなる。

目覚まし時計の音に緊張し、子どもの部屋から物音がするかどうかに耳を澄ませる。

今日は声をかけるべきか。

もう少し寝かせるべきか。

学校には何と連絡するか。

仕事を休めるか。

このままで進学は大丈夫なのか。

答えの出ないことを、毎朝考える。

そんな保護者が夜中にスマートフォンを開き、

「短期間で解決」

「数週間で変化」

「早期に再登校」

という言葉を見つけたら、心が動くのは当然だと思う。

ようやく出口が見つかった。

この苦しさには、終わりがある。

言われたとおりにすれば、また元の生活に戻れる。

その言葉は、ただの宣伝文句として読まれるわけではない。

追い詰められた親にとっては、暗い場所から垂らされた一本のロープに見える。

だから、そうした言葉に引かれた保護者を、

「簡単な言葉にだまされた」

と笑うことはできない。

むしろ考えなければならないのは、なぜ親が、そこまで明確な答えを必要としていたのかということだ。

親が買いたいのは、方法だけではない

不登校の相談をすると、

「しばらく様子を見ましょう」

「本人の気持ちを尊重しましょう」

「焦らず待ちましょう」

と言われることがある。

どれも間違いとは限らない。

本当に休養が必要な子もいる。

急いで動かせば、さらに状態を悪くすることもある。

けれども、毎日子どもと向き合っている親にとって、「待ちましょう」だけでは苦しいこともある。

いつまで待つのか。

待っている間に何をすればよいのか。

昼夜逆転はそのままでよいのか。

勉強はどうするのか。

声をかけるのか、かけないのか。

学校との連絡はどうするのか。

何もわからないまま、時間だけが過ぎていく。

そこで「二か月」「数週間」のような期限が示される。

すると、急に世界が整理されたように感じる。

親が求めているのは、方法だけではない。

見通しである。

いつ終わるかわからない苦しさに、終わりの日を置いてほしいのだ。

早く支援することには意味がある

不登校への対応は、遅ければよいわけではない。

学習の遅れが広がる。

学校とのつながりが薄くなる。

友人関係が変わる。

本人も「今さら戻れない」と感じるようになる。

長く休むほど、学校へ戻ることへの不安が大きくなる子もいる。

そのため、早い段階から本人の状態を確認し、学習、生活、学校との関係を整理することには意味がある。

何もしないまま、本人が自然に動き出すのを無期限に待つことが、いつでも最善とは限らない。

国の不登校支援の方針でも、子どもをただ放置するのではなく、不登校になったきっかけや継続している理由を把握し、一人ひとりの状況に応じて支援することが求められている。

早期支援そのものを否定する必要はない。

ただし、

早く支援を始めることと、短期間で結果を出すことは同じではない。

ここが、いつの間にか混ざってしまう。

「短期間」は、誰の時間なのか

子どもによって、学校に行けなくなった経緯は違う。

授業についていけなくなった子。

友人関係で傷ついた子。

教室の音や人の多さに疲れ切った子。

先生との関係に緊張している子。

朝起きられないほど心身の調子を崩している子。

自分でも理由を説明できない子。

複数のことが少しずつ重なり、ある朝、動けなくなった子もいる。

これらをすべて、同じ期間で解決できるだろうか。

生活習慣を整えることで動き出す子もいる。

保護者の声のかけ方が変わり、家庭の緊張が下がることで学校へ向かえる子もいる。

一方で、いじめや強い不安、発達上の特性、学習上の困難、心身の不調が関係している場合には、それぞれ別の確認と支援が必要になる。

学校への行きづらさについての研究でも、本人の心理状態だけでなく、学習上の必要、家庭、友人関係、学校環境など、多くの要因が関係すると整理されている。

二か月という期間が、その子の状態から導かれたものなら意味はある。

しかし、最初から用意された期間に子どもを合わせるなら、話は違ってくる。

問うべきなのは、

「この方法なら何日で戻せるか」

ではなく、

「この子に今、何が起きているのか」

である。

期限は、希望から採点表に変わる

「二か月で変わる」と言われた家庭が、二か月後も変わらなかったらどうなるだろう。

最初は希望だった数字が、少しずつ採点表に変わっていく。

言われたとおりにできなかったのではないか。

親の覚悟が足りなかったのではないか。

夫婦の方針がそろっていなかったからではないか。

スマートフォンの制限が甘かったのではないか。

子どもに譲りすぎたのではないか。

親は、自分の行動を振り返り始める。

もちろん、家庭で見直せることはある。

毎朝の言い争いを減らす。

生活のリズムを少し整える。

学校に必要な配慮を伝える。

子どもの話を、結論を急がずに聞く。

こうしたことには価値がある。

しかし、子どもが予定どおりに変わらなかったとき、

「方法がその子に合わなかった」

とは考えず、

「親が正しく実行できなかった」

と説明されるなら注意が必要だと思う。

方法は傷つかない。

支援する側も傷つかない。

責任だけが、家庭に戻ってくる。

「親が変われば子どもも変わる」という言葉は、励ましとして使われることがある。

だが、裏返せば、

「子どもが変わらないのは、親が変われていないからだ」

という言葉にもなる。

家庭から変えられることがある。

それと、家庭に原因があることは同じではない。

短期間で「何」が解決するのか

「短期間で解決」と書かれているときは、解決の意味を確かめたほうがよい。

朝起きられたことなのか。

家から出られたことなのか。

校門を通ったことなのか。

別室で過ごせたことなのか。

一日教室にいられたことなのか。

一週間休まなかったことなのか。

一定期間、登校が続いたことなのか。

本人の不安が軽くなったことなのか。

学習の遅れが整理されたことなのか。

友人や先生との問題が解消されたことなのか。

同じ「解決」という言葉でも、中身はまったく違う。

登校日数は数えやすい。

一方で、安心感や自己肯定感、疲労、諦めは数えにくい。

だから、支援の成果は、どうしても見えるものに寄りやすい。

朝、制服を着た。

学校へ着いた。

教室に入った。

それは確かな変化である。

喜んでよい。

けれども、教室に戻ったことと、その子が自分を取り戻したことは同じではない。

短期間で登校を再開させる方法については、一定の子どもに成果が示された研究もある。

ただし、その研究で対象となったのは、深刻な心身の問題やいじめなどが確認されていない、条件を満たした子どもたちだった。研究者自身も、強制を伴う可能性があるため倫理的に複雑であり、限られた条件でのみ用いるべきだとしている。

「うまくいった子がいる」という事実と、

「どの子にも同じように使える」という結論の間には、大きな距離がある。

子どもの回復は、一直線ではない

月曜日に登校できた。

火曜日も行けた。

水曜日の朝、また動けなくなった。

大人は、後戻りしたと感じるかもしれない。

しかし、子どもの側ではそうとは限らない。

二日間行ってみたからこそ、何が苦しいのかわかったのかもしれない。

教室ではなく別室なら過ごせそうだと気づいたのかもしれない。

午前中だけなら行けるとわかったのかもしれない。

再び休んだ日は、失敗の日ではない。

次の方法を考えるための情報が増えた日でもある。

回復は、毎日少しずつ右肩上がりに進むとは限らない。

行ったり、休んだりする。

挑戦して、疲れる。

少し戻って、また考える。

その繰り返しの中で、自分に合う距離を見つけていく。

大人が決めた期限に合わせるため、本人が無理を隠すようになれば、本当の状態はますます見えにくくなる。

「今日は休みたい」

と言えない再登校は、安定した再登校とは言いにくい。

「ゆっくりでよい」だけでも足りない

反対に、

「子どものペースで」

という言葉だけですべてを終わらせるのも違うと思う。

本人のペースを尊重することと、何も働きかけないことは同じではない。

学校を休んでいる間も、学びは続けられる。

生活のリズムを少しずつ戻すこともできる。

学校と話し合い、登校の方法を変えることもできる。

別室、短時間、オンライン、教育支援の場など、選択肢を探すこともできる。

必要なら、医療や心理の専門家につなぐ。

本人が動き出すまで待つのではなく、本人が動き出しやすい環境をつくる。

それが支援だと思う。

国の方針も、学校への復帰だけを唯一の目標とせず、本人の希望を尊重しながら、学校外やICTを含めた多様な学びの場を活用することを示している。学校になじめない要因については、子どもだけでなく学校側も改善を検討する必要があるとしている。

急がせない。

しかし、放っておかない。

この間には、かなり広い支援の領域がある。

子どもの時間を、大人の成果にしない

支援する側には、成果を示す必要がある。

学校にも目標がある。

保護者にも願いがある。

誰もが、子どもに元気になってほしいと思っている。

だからこそ、気をつけなければならない。

子どもが学校へ戻ることが、いつの間にか大人の成果になっていないか。

予定された日までに登校できた。

言われた方法を守れた。

支援が成功した。

そう語られる裏側で、子どもが何を感じているのかが抜け落ちてはいないか。

子どもには、自分に関わることについて意見を表す権利があり、その意見は年齢や成熟度に応じて考慮されるべきだという考え方が、国際的な子どもの権利の原則にも置かれている。

子どもの言うことを、すべてそのまま採用するという意味ではない。

大人が判断しなければならない場面はある。

ただ、本人の声を聞かずに決めることと、本人の声を聞いたうえで考えることは違う。

時間がかかること自体を失敗にしないことも、子どもの声を守る一つの方法だと思う。

支援先に確かめたいこと

「短期間で解決」という言葉に心が動いたときほど、少し立ち止まって質問してみてほしい。

解決とは、具体的にどのような状態を指すのか。

示されている期間は、平均なのか、目安なのか、達成を求められる期限なのか。

その期間で変化しなかった場合、どのように支援を見直すのか。

本人の心身の状態や、学校で起きていることをどのように確認するのか。

いじめ、発達特性、学習の困難、強い不安などがある場合にも、同じ方法を使うのか。

子ども本人の意思は、いつ、どのように確かめるのか。

再登校した後の疲労や不安も確認するのか。

再び休んだ場合、それを失敗と扱わないか。

学校以外の学び方も選択肢として示されるのか。

こうした質問に、落ち着いて答えてくれる支援先なら、話を続けやすい。

反対に、

「疑うからうまくいかない」

「今決めなければ手遅れになる」

「親が覚悟を持てば必ず変わる」

と急かされるなら、一度別の意見も聞いてよいと思う。

子どもの人生に関わる判断なのだから、考える時間があって当然である。

学校を休んでも、学びまで失わなくていい

私は、学校へ行けない子に、

「勉強の穴は後から埋めればいい」

と伝えることがある。

「心身の調子がよい日に行けばいい」

とも話す。

休み続けることを勧めているわけではない。

学校を軽く考えているわけでもない。

学校に行けないことと、将来がなくなることを結びつけないためである。

遅れた勉強は、一つずつ整理できる。

進路も、方法は一つではない。

今の学校に戻る道もある。

別の環境を選ぶ道もある。

戻ってから、もう一度休んでもいい。

その逃げ道が見えると、子どもは少し落ち着く。

「絶対に行かなければならない」

と思っていたときには動けなかった子が、

「無理ならまた休める」

とわかったことで、自分から動き始めることもある。

人は、逃げ道をふさがれたから前に進めるとは限らない。

逃げ道があると知ったとき、初めて一歩を出せる場合がある。

外から能力を植えつけるのではない。

その子の中に残っている力を呼び戻す。

自分で考える力。

助けを求める力。

失敗してもやり直す力。

今の自分に合う方法を選び直す力。

それを失わせないことのほうが、短期間で従わせることより大切だと私は思っている。

期限ではなく、見通しを渡す

保護者に必要なのは、

「何か月以内に必ず解決します」

という約束だけではない。

今は何が起きていると考えられるのか。

明日から何をすればよいのか。

一週間後に何を確認するのか。

変化がなければ、次に何を試すのか。

どの状態なら医療につなぐのか。

勉強の遅れをどう補うのか。

学校以外には、どんな道があるのか。

そうした具体的な見通しである。

期限と見通しは、似ているようで違う。

期限は、

「その日までに変わらなければならない」

と迫る。

見通しは、

「うまくいかなければ、次の方法を一緒に考えられる」

と伝える。

短期間で動き出す子はいる。

時間を必要とする子もいる。

早く戻れたほうが立派なのではない。

長くかかったから、親の関わりが悪かったのでもない。

必要な時間は、その子によって違う。

「短期間で解決」という言葉を見たとき、最後に一つだけ確かめてほしい。

短期間で、何を解決するのか。

学校へ行かせることなのか。

親の不安を終わらせることなのか。

それとも、子どもが自分の力で、もう一度学びと社会につながっていくことなのか。

同じ「解決」という言葉でも、その後の子どもの人生は、ずいぶん違ってくる。


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