不登校支援の「成功率」は、何を数えているのか-その数字を見る前に、分母と「成功」の意味を確かめたい
「復学成功率九割以上」
「多くの子どもが短期間で再登校」
「これまでに多数の家庭を支援」
不登校について調べていると、このような言葉を見かけることがある。
子どもが学校へ行けなくなり、この先どうなるのかわからない保護者にとって、高い成功率は大きな希望になる。
これだけ多くの家庭がうまくいっているなら、わが家も変われるかもしれない。
今までの対応が間違っていたとしても、正しい方法を教えてもらえば間に合うかもしれない。
そのように感じるのは、当然だと思う。
高い数字に心を動かされた保護者を、
「広告にだまされている」
と簡単に批判することはできない。
何をすればよいのか誰も教えてくれない。
学校に相談しても、しばらく様子を見ましょうと言われる。
医療機関は、すぐには予約できない。
子どもとは進路の話ができない。
時間だけが過ぎていく。
そんなとき、「成功率」という数字は、混乱した世界に置かれた一本の道しるべに見える。
ただし、その道しるべがどこを指しているのかは、落ち着いて確かめたほうがよい。
成功率が高いか低いかを論じる前に、
その成功率は、いったい何を数えた数字なのか。
そこから考えてみたい。
成功率は、分子だけでは読めない
成功率は、成功した人数を、対象となった人数で割って計算する。
難しい話ではない。
それでも、広告や実績紹介では、成功した人数や割合ばかりが目に入り、分母は見えにくい。
たとえば、百件の問い合わせがあったとする。
そのうち、詳しい相談に進んだのが六十家庭。
支援の対象になると判断されたのが四十家庭。
実際に契約したのが三十家庭。
最後までプログラムを続けたのが二十家庭。
そのうち十八人が学校へ戻った。
最後まで続けた二十家庭を分母にすれば、成功率は九十パーセントになる。
しかし、最初に問い合わせた百家庭を分母にすれば、十八パーセントである。
どちらも、計算そのものは間違っていない。
ただし、語っている内容はまったく違う。
支援を受けた家庭だけを数えているのか。
途中でやめた家庭も含まれているのか。
最初の相談で、方法が合わないと判断された子は含まれているのか。
強い不安や心身の不調、いじめ、発達上の特性などがあるため、別の機関を勧められた子はどう扱われているのか。
数字を読むときは、成功した人数だけでなく、誰が最初から分母に入っていないのかを見る必要がある。
支援を受けられなかった子は、数字から消える
支援には、それぞれ対象がある。
どの方法でも、すべての子どもに対応できるわけではない。
生活習慣や家庭内の関わりを見直すことで動き出す子もいる。
一方で、いじめへの対応が必要な子、医療的な支援が必要な子、学習上の大きな困難がある子、学校環境そのものを変える必要がある子もいる。
対象を絞ること自体は、悪いことではない。
専門外の状態を無理に引き受けず、適切な機関につなぐことは、むしろ誠実な判断である。
問題は、対象を絞ったうえで出した成功率が、
「不登校の子ども全体に通用する数字」
のように見えることである。
ある条件に合う子どもを選び、その中で高い成果が出た。
そこからわかるのは、
「条件に合う子には、一定の効果がある可能性」
までである。
すべての不登校の子に、同じ方法が使えるという意味ではない。
実際、学校への早期復帰を促す国内の研究でも、提案を受けた全家庭が参加したわけではなく、保護者が方法を受け入れたケースが介入群になっている。また、強い心身の問題やいじめなどが確認された場合には、慎重な判断が必要だと研究者自身が述べている。
「うまくいった子がいる」
という事実と、
「誰にでも同じようにうまくいく」
という結論の間には、大きな距離がある。
一日登校したら「成功」なのか
次に確かめたいのは、成功の定義である。
朝起きられた。
制服を着られた。
家から出られた。
校門まで行けた。
保健室や別室で過ごせた。
一時間だけ授業を受けられた。
一日、教室で過ごせた。
一週間登校が続いた。
一学期間、欠席が大きく減った。
これらは、どれも大切な変化である。
昨日まで家から出られなかった子が、校門まで行けたのなら、その一歩を小さく扱う必要はない。
しかし、どこからを「復学成功」と呼ぶのかによって、成功率は変わる。
一度でも登校すれば成功なのか。
週に何日か通える状態も成功なのか。
教室ではなく別室でも含まれるのか。
何週間、あるいは何か月続けば成功なのか。
再び休むようになった場合は、成功のままなのか。
「再登校」「復学」「解決」という言葉には、統一された一つの意味があるわけではない。
研究の世界でも、学校への行きづらさや欠席には複数の定義があり、出席率、欠席日数、授業に参加した時間など、異なる尺度が使われている。
だから、高い成功率を見たときは、
「何ができたら成功と数えていますか」
と聞いてよい。
これは意地の悪い質問ではない。
数字を正しく理解するために、必要な質問である。
登校できたことと、苦しさが減ったことは同じではない
学校へ行けるようになった。
これは、目に見える変化である。
出席日数は記録できる。
遅刻や早退も数えられる。
一方で、子どもの内側にある不安や疲労、諦めは見えにくい。
毎朝、強い緊張を抱えながら登校していないか。
教室では、ただ時間が過ぎるのを待っていないか。
帰宅後、何時間も動けないほど疲れていないか。
また休みたいと思っても、親を失望させるのが怖くて言えなくなっていないか。
出席が増えたことは重要である。
しかし、それだけで子どもの状態をすべて判断することはできない。
不登校支援の研究を整理したレビューでも、成果として最も多く測られてきたのは学校への出席だった。一方で、不安、恐怖、抑うつ、自己効力感、生活全体の機能なども測る必要があると整理されている。
近年の認知行動的な介入に関するメタ分析でも、出席には一定の改善が見られる一方、比較対象を置いた分析では、不安や抑うつへの効果が明確でない場合がある。
これは、支援に意味がないという話ではない。
出席が改善したという数字だけでは、子どもの苦しさまで改善したかはわからないという話である。
「学校へ戻った後」を数えているか
不登校支援の成功率を考えるとき、観察した期間も大切になる。
支援を終えた時点では、毎日登校していた。
しかし、一か月後はどうだったのか。
一学期後はどうだったのか。
進級や進学で環境が変わった後はどうだったのか。
再び休むようになったとき、自分から助けを求められたのか。
そのとき家族は、以前と違う対応ができたのか。
支援終了時の状態だけを見るのか、その後まで確認するのかによって、数字の意味は変わる。
短期間の登校再開を目標にした支援では、開始直後の変化が出やすいこともある。
ただ、子どもの生活は支援期間が終わった後も続く。
次の定期テストが来る。
クラス替えがある。
友人関係が変わる。
進路を決める時期が来る。
そこで再び苦しくなることもある。
再び休んだことを、最初の支援の失敗と呼ぶ必要はない。
子どもの回復は、一直線には進まないからである。
ただし、「その後」を追跡していない数字を、長期的な解決率として受け取ることもできない。
支援終了時の成功率なのか。
三か月後の成功率なのか。
一年後も続いている割合なのか。
数字の横には、本来、観察期間も必要である。
途中でやめた家庭は、どう数えられるのか
支援を始めても、途中でやめる家庭はある。
費用を続けられなくなった。
方法に納得できなくなった。
子どもの状態が悪化した。
夫婦の意見が合わなかった。
別の支援機関へ移った。
支援者との関係がうまくいかなかった。
途中でやめた理由は、家庭によって違う。
こうした家庭を成功率の分母から外せば、数字は高くなる。
もちろん、連絡が取れなくなり、その後を確認できないこともあるだろう。
すべてを追跡するのは簡単ではない。
それでも、
最後まで継続した家庭だけの成功率なのか。
支援を開始した全家庭の成功率なのか。
途中でやめた家庭を、どのように扱っているのか。
この違いは明らかにしたほうがよい。
教育や医療の研究では、途中で離れた人を除外すると、効果を実際より大きく見積もるおそれがあるため、誰を分析対象に含めたのかが重視される。
民間支援の実績を見る場合にも、同じ視点を持ってよいと思う。
成功例だけを見るのではない。
合わなかった家庭が、どのように扱われているかを見る。
そこに、その支援の姿勢が表れることがある。
比較する相手がいなければ、方法の効果はわからない
ある支援を受けた子どもの七割が、学校へ戻った。
それだけを聞くと、その方法によって七割が戻れたように感じる。
しかし、支援を受けなくても時間の経過や学校側の対応、学年の変化、本人の回復によって戻れた子がいたかもしれない。
別の支援を受けても、同じ程度に改善したかもしれない。
複数の働きかけが同時に行われ、そのどれが影響したのかわからないこともある。
親の声のかけ方が変わった。
担任が配慮した。
別室を用意した。
友人が迎えに来た。
薬の調整をした。
学習の遅れを補った。
本人が進学を意識し始めた。
子どもが動き出すとき、理由は一つとは限らない。
だから研究では、比較する集団を置いたり、支援前後の状態を測ったり、複数の指標を使ったりする。
比較対象がない実績は、無意味ではない。
実際に変化した子がいるという事実には価値がある。
ただし、そこから言えるのは、
「この支援を受けた後に、変化した子がいた」
までである。
「この方法だけが変化を起こした」
「この方法が最も優れている」
とまでは言えない。
実際、過去の研究では、ある支援を受けた子どもの出席率が改善しても、別の教育的支援と比べて明確な優位性が確認されなかった例も報告されている。
数字があることと、その数字から因果関係まで証明できることは別である。
保護者の満足度も、大切だが万能ではない
支援の実績として、
「利用者の多くが満足」
「保護者から高評価」
と示されることもある。
保護者の満足度は大切である。
話を聞いてもらえた。
家庭内の衝突が減った。
今後の見通しが持てた。
学校への伝え方がわかった。
それらは、支援の重要な成果である。
ただし、保護者が満足したことと、子ども本人の状態が改善したことも、必ずしも同じではない。
親が安心した。
家庭のルールが整った。
子どもが反論しなくなった。
学校へ行くようになった。
それを、子ども自身はどう感じているのか。
自分の意見を聞いてもらえたと思っているのか。
大人に従うしかなかったと思っているのか。
子ども本人に会わず、保護者からだけ状況を聞く支援では、特にここが見えにくい。
保護者の評価を疑う必要はない。
保護者から見える変化も本物である。
ただ、親から見た成功と、子どもから見た成功が同じとは限らない。
どちらか一方を正解にするのではなく、両方を見る必要がある。
学校へ戻らなかったら、失敗なのか
不登校支援の成功を「元の学校への復帰」だけで考えると、別の道を選んだ子どもは失敗に見えてしまう。
在籍校には戻らなかった。
しかし、別の学校へ転校した。
教育支援センターへ通えるようになった。
通信制高校への進学を決めた。
オンラインで学習を再開した。
アルバイトや地域活動を通して、外とのつながりを取り戻した。
止まっていた勉強を少しずつ始めた。
自分の状態を言葉で説明できるようになった。
こうした変化は、成功に含まれないのだろうか。
文部科学省は現在も、不登校支援について「学校に登校する」という結果だけを目標にするのではなく、子どもが自らの進路を主体的に捉え、社会的に自立することを目指す必要があるとしている。また、学校になじめない要因については、子どもだけでなく学校側も検討し、改善に努めるよう求めている。
学校には価値がある。
授業だけでなく、友人との関係、行事、生活のリズム、先生との出会いなど、学校で得られるものは多い。
戻れるなら戻ったほうがよい子もいる。
私は、再登校を軽く考えてはいない。
しかし、今の学校へ戻らなかったことだけを理由に、その子の支援を失敗と呼ぶこともできない。
どこで学ぶかよりも、学ぶこと自体を取り戻した子もいる。
大人に決められた道ではなく、自分の進路を考え始めた子もいる。
元の学校への復帰率だけを成功率にすると、そうした子どもの成長は数字から消えてしまう。
数字を出すことが悪いのではない
成功率を示すこと自体が悪いわけではない。
保護者にとって、支援を選ぶ材料は必要である。
過去にどのような子どもを支援し、どのような変化があったのか。
費用や期間はどれくらいか。
どのような場合には、別の機関を勧めるのか。
そうした情報を開示することは、支援する側の責任でもある。
数字を一切出さず、
「一人ひとりに寄り添います」
「子どもの可能性を信じます」
とだけ書かれていても、実態はわからない。
問題は、数字があることではない。
数字だけで、支援の価値が決まったように見せることである。
成功率には、少なくとも次の説明が必要だと思う。
誰を分母にしたのか。
成功をどのように定義したのか。
どれくらいの期間、状態を確認したのか。
途中でやめた家庭をどう扱ったのか。
誰が結果を確認したのか。
登校以外の状態も見たのか。
数字の条件が明らかなら、保護者は自分の家庭に当てはめて考えられる。
条件を説明せず、高い数字だけを大きく見せると、数字は情報ではなく、説得の道具になる。
成功率を見るときに確かめたいこと
支援先を検討するときは、遠慮せずに質問してよい。
その成功率の分母には、誰が含まれていますか。
問い合わせた家庭全体ですか。
契約した家庭ですか。
最後まで続けた家庭だけですか。
成功とは、どのような状態ですか。
一度でも登校した場合ですか。
一定期間、登校が続いた場合ですか。
別室登校や転校も含まれますか。
支援終了後も、状態を確認していますか。
途中でやめた家庭は、数字に含まれていますか。
本人の不安や疲労についても確認していますか。
学校へ戻らない道を選んだ場合は、失敗になりますか。
こうした質問に、具体的に答えてくれる支援先は、少なくとも自分たちの限界を把握している。
反対に、
「細かいことを気にするから、うまくいかない」
「親が信じ切らなければ、子どもは変わらない」
「これだけ成功者がいるのだから、疑う必要はない」
と言われるなら、一度立ち止まってよい。
子どもの人生に関わることなのだから、質問する権利が保護者にはある。
私が見たいのは、成功率より「失敗した後」である
私は、支援先を見るとき、高い成功率だけではなく、うまくいかなかったときの対応を知りたい。
予定どおりに登校できなかったとき、方法を見直すのか。
子どもの状態をもう一度確認するのか。
別の専門家につなぐのか。
保護者の努力不足にするのか。
再び休んだ子に、
「元に戻ってしまった」
と言うのか。
「何が合わなかったのか、一緒に考えよう」
と言うのか。
教育では、すべてが予定どおりに進むことなどない。
子どもは、一人ひとり違う。
同じ言葉をかけても、受け取り方は違う。
昨日できたことが、今日はできないこともある。
一度うまくいった方法が、ずっと使えるとも限らない。
だから、失敗しない方法を持っている人より、失敗した後に方法を変えられる人のほうが、私は信頼できる。
一つの方法に子どもを合わせるのではなく、目の前の子どもに合わせて方法を変える。
そこに教育の仕事があると思っている。
学校を休んでも、学びまで失わなくていい
学校へ行けない状態が続くと、保護者は焦る。
このまま勉強が遅れる。
進路が狭くなる。
社会とのつながりを失う。
その心配は、現実のものである。
「何もしなくても大丈夫」と言うつもりはない。
学習の遅れは、早い段階から見ておいたほうがよい。
生活のリズムも、本人の状態を見ながら整えたほうがよい。
学校や支援機関とも、つながりを切らないほうがよい。
ただし、学校へ行けないことと、学べないことは同じではない。
遅れた勉強は、一つずつ埋められる。
今の学年の内容に戻る前に、どこで止まっているのかを確かめればよい。
教科書を開けない日には、短い文章を読むだけでもよい。
机に座れないなら、会話から始めてもよい。
今の学校に戻ることも一つの道である。
別の環境で学ぶことも一つの道である。
大切なのは、その子の可能性に、大人が先に天井をつくらないことだと思う。
今は動けなくても、この先も動けないとは限らない。
今は勉強が遅れていても、将来まで遅れ続けるとは限らない。
必要なのは、早く成功者の形に戻すことではない。
その子の中に残っている力を見つけ、もう一度つないでいくことである。
本当に数えたいもの
不登校支援の成功率を見るとき、最後に考えたい。
私たちは、本当は何を数えたいのだろう。
学校へ行った日数だろうか。
朝起きられた回数だろうか。
教室にいられた時間だろうか。
それらは、どれも大切である。
けれども、本当に知りたいのは、その先ではないだろうか。
子どもが安心して眠れるようになったか。
自分の状態を言葉にできるようになったか。
困ったときに、誰かを頼れるようになったか。
失敗しても、やり直せると思えるようになったか。
学ぶことを完全に諦めずに済んだか。
自分の将来を、自分のこととして考えられるようになったか。
こうしたものは、簡単には数字にならない。
だからといって、数えなくてよいわけではない。
数字になりにくいものを、丁寧に見続ける。
それが教育や支援の仕事だと思う。
成功率が高いことは、悪いことではない。
ただ、その数字の外側にいる子どもを、最初から見えないことにしてはいけない。
成功率を見る前に、分母を見る。
成功の定義を見る。
その後を見る。
そして最後に、その数字の中心に、子ども本人がいるかを確かめる。
不登校支援の価値は、大きな数字だけでは決まらない。
数字からこぼれた一人に、どう向き合うか。
そこに、その支援の本当の姿が表れるのだと思う。
