先輩の夢:4月27日
4月27日、月曜日。
朝のキッチンに漂うのは、焼きすぎたトーストの匂いと、生理的な嫌悪感すら通り越した「無」の空気だった。
私は向かいに座る謙二朗を、まるで使い古されて芯の切れたボールペンでも見るような、乾いた目で見つめていた。
「おはよう、晶」
謙二朗の声は、驚くほど透明だった。
かつての彼を覆っていた、法学部エリートとしての薄っぺらな自尊心。私に主導権を握られることを恐れる卑屈な怯え。それらが昨日、あの「雪のように白い女」によって根こそぎ削ぎ落とされたのだと、彼の首筋に残る鮮烈な赤黒い痕跡が物語っている。
(……ああ、終わったのね。この個体は)
誰かに徹底的に「上書き」され、自分という意志を放棄した人間には、もう執筆の資料としての価値はない。他人の手によって完成された標本を眺めるほど、私は暇ではないのだ。私は一度も彼と目を合わさず、無機質に朝食を済ませると、彼という存在を意識の最果てへと追放した。
今の私を突き動かしているのは、もっと重く、もっと猛々しい、生きた肉体の「手応え」への飢餓感だった。
放課後。合気道部の道場。
夕闇が差し込む板張りの空間。私は道着に着替え、帯をきつく締め上げた。
鏡に映る自分の姿。
合気道の稽古で、そして持ち前のストイックな習慣で鍛え抜かれたしなやかな小麦色の肌。白い道着とのコントラストが、私の四肢をより野性的で、逃れようのない「檻」のように際立たせている。
「晶さん、今日も一段と気合が入ってるね。……よし、少し乱取りをしようか」
慎太郎先輩が、爽やかな、けれどどこかこちらを意識したような、少しだけ硬い声で声をかけてきた。
「お願いします、先輩。……今日は、手加減なしで」
私はわざと、彼の視線を射抜くように眼鏡を直した。
立ち会った瞬間、私はあえて最短距離で彼の懐へと肉薄した。
「っ!? 晶さん、近い……っ!」
慎太郎先輩の驚愕の呼気が、私の首筋に熱く吹きかかる。
私は彼の逞しい二の腕を掴み、その重心を奪おうと全身のバネを使い、小麦色の肌を彼の白い道着に擦り付けた。
合気道の理合を使いながらも、あえて技を完成させず、密着した状態を数秒長く維持する。
(……これよ。この、岩のように強固な『実在』を、私は壊したいの)
慎太郎先輩の分厚い胸板から伝わる、力強い鼓動。必死に踏ん張る彼の足腰の粘り。
私の掌に伝わる、彼の筋肉の震え。
「晶さん……。今の踏み込み、ちょっと強引すぎるんじゃ……」
「先輩。私、もっと『本物』に触れたいんです。言葉じゃない、肉体の対話を」
私は耳元で、彼にしか聞こえない声で囁いた。
慎太郎先輩の喉仏が大きく上下し、その瞳に困惑と、それ以上に抗いがたい「戦慄」が走る。
彼の「雄」としての本能が、私の小麦色の肉体に圧倒され、歪んでいく。その瞬間、私は腹の底から湧き上がる、暗く甘い愉悦に身を震わせた。

深夜、笹塚のマンション。
隣の部屋からは、もう何の音も聞こえない。謙二朗は、今日もあの幸福な監獄の中へと堕ちていったのだろう。
私は一人、ベッドの上で自らの小麦色の太ももをなぞり、そこに慎太郎先輩の腕の太さを、そして彼の苦悶に満ちた表情を重ね合わせていた。
(さあ……来て、タロ。今夜も私に、あなたの『生』を捧げなさい)
意識が反転し、夢の荒野が広がる。
現れたタロは、昼間の慎太郎先輩の姿を完璧に写し取り、さらに獰猛に進化していた。
「晶……! 今夜こそ、貴様を屈服させてやる!」
タロが野性的な叫びを上げ、私を力任せに抱きすくめようと襲いかかってくる。
その猛烈な突進を、私は一瞬で受け流し、彼の重心を奪って床へと沈めた。
「ぐっ……! まだ……っ!!」
抗おうとする彼の胸の上に、私は一点の迷いもなく、どっしりと腰を下ろした。
顔面騎乗窒息。
「んぐっ……!?……ん、んんっ!!」
タロの視界を、私の体温が、そして健康的で、弾力に満ちた小麦色の肉の重圧が、物理的な闇となって覆い尽くす。
鼻と口を同時に、隙間なく塞がれたタロは、即座に死の恐怖に支配された。
彼は私の太ももを両手で強く掴み、その太い指先を私の肌に深く食い込ませる。
「……いいわ、タロ。もっと、必死に足掻きなさい」
私は合気道で鍛え上げた体幹を使い、微動だにせず彼の顔面に体重を預け続けた。
雪のような白さとは対照的な、私の熱く、滑らかな小麦色の肌。それが彼の鼻筋、唇、そして頬を蹂躙し、呼吸という生命の根源を奪い去る。
タロが首を振り、空気を求めて私の肌を唇で弄るたびに、ぬるりと湿った感触が私の皮膚を這う。
「んんんん、んんーーーっ!!」
タロは必死に腰を浮かせ、私を振り落とそうと、丸太のような巨体を弓なりにしならせて抵抗する。
その「いきみ」、その「あえぎ」。肺が酸素を求めて悲鳴を上げ、心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴走する振動が、私の臀部を通じて脳天まで突き抜けてくる。
(ああ……なんて心地よい『生』の足掻きなの……)
私の小麦色の太ももの内側、その鋭く鍛えられた筋肉が、タロの耳元と喉元を万力のように締め付ける。
彼の腕の力が徐々に弱まり、指先が私の脚を弱々しく、乞うようにかきむしる。
支配されている。蹂躙されている。その「完全なる敗北」の記憶を、私は肌の全受容体を使って、一滴残らず吸い取っていく。
「いい声……。タロ、あなたのその絶望こそが、私の『物語』を完成させるのよ」
私は恍惚とした表情で、自分に圧殺される獲物の最後の震えを、永遠に続くかのような静寂の中で享受していた。
謙二朗という「過去の残骸」を切り捨て、私は今、相模慎太郎という「最高の実在」を、この小麦色の足元に跪かせるための、甘美な儀式を繰り返していた。
